子どもを取り囲む問題の大きな一つに夫婦の離婚がある。「価値観の多様化は破滅を呼ぶ」という言葉を聞いた事があるが、自由が権利として野放しにされるとその傾向は免れない。少子化の問題も"結婚しないこと"に価値を見出す人もいたりと、究極的には人類滅亡の警鐘といえる。ニートやひきこもりなど、"働かないことが価値のある事"という考えもしかり。
子どもはいらない、子どもに縛られ、生活に追われるよりも、物に囲まれ、遊びをエンジョイし、人生を楽しみたい。という考えも勝手な都合とはいえない立派な価値観として是認されている。数十年前なら、「結婚なんかしたくない」、「子どもはいらない」、「家庭なんか持たず、自由に恋愛を楽しみたい」などといっただけで、変わり者に思われただろう。
価値観の多様化現象はなぜ起こったのだろう。様々な要因が見て取れるが、人間形成学の視点でいえば、価値観多様化現象というのは、成熟阻害現象ともいえる。つまり、働かない、結婚しない、離婚も自由というのは、種の保存法則からいって人間だけに与えられた生物学的エゴであり、子を生んで育てる障害になっているし、家系の自然淘汰現象となっている。
動物の持つ本能機能の成熟とは、個体維持、集団維持、種族維持の順に成熟していくもので、育児能力だけが独立して成熟することなどあり得ない。人は働き、近隣・社会と付き合い、家庭を維持し、さらには好ましい育児をするという考えに充実しなければ、親としての育児能力も身につかない。現代人は成熟阻害のため、個体維持能力、集団維持能力も未熟である。
それが育児能力の未熟さに連なって行く。ネグレクトは、端的にいえば自分が遊びたいから、子どもが障害になる、邪魔になるということだ。親となって子を持ちながらも、面倒な子育てより自由気ままにエンジョイしたい、という人間のどこが成熟していよう。こういう未成熟の人間は脳の仕組みからいっても、育児能力だけが充実させることは不可能である。
なぜ、自分の時間を犠牲にしてでも、面倒な子育てに邁進するのか?それが子を持った親の夢であり、希望であるからだが、それがあまりに嵩じると別の問題がでてくる。子育てに熱心であるのはいいが、あまりに母親の自己のブランドイメージが高いと、それを子どもに求め、自己の価値観を子どもに押し付ける親になる。美しく生まれた吉永小百合はその被害者だった。
子育てはハッキリいえば面倒である。人間は横着な動物であるから、面倒なことをなくすように頭を使って様々なものを作り、開発してきた。それを文明といい、豊かで便利になった文明社会の代償として人間の本能はどんどん劣化していくことになる。当然ながら面倒な育児も、育児本能の崩壊という現象として、これらは無意識のうちに破壊していくようだ。
「自分は子育ては力仕事」という先人の言葉を信奉した。「力仕事」とは、力のいる仕事という意味ではなく、子育ては田畑を耕し種を植え、花を咲かせて実をつけさせること。近年は田畑も機械化が進んでいる。効率を上げるとは聞こえはいいが、面倒くさいことはやってられないという時代になった。子育ても教育産業の充実で、外注教育が当たり前になった。
自分の子どもを他人に任せるというのは親の基本法則に反しているとルソーはいい、母になってルソーの『エミール』を教育書とした当時の美智子妃が、皇室で当たり前に行われていた乳母制度を取りやめた事は知られている。子を我が胸に抱き、我が母乳で育てた初めての人である。ルソーは『エミール』になかで、母親による哺育の重要性を以下主張している。
「最初の教育はもっとも重要なものであり、それは明らかに女性に属している」といい、また、「もし、自然の創達者が、教育が男のものであることを欲したなら、子どもを養うための乳房を男に与えたであろう」ともいっている。教育を意味するフランス語の、éducationが古代には「乳を与えて育てる」という意味からしても分かるであろうと、ルソーはいう。
このような母親の重要さを乳母による哺育と比べて明らかなのは、金銭で雇われた乳母は、子どもたちへの自然の愛情をもっていない。乳母が心を配るのは、自分の仕事をいかに楽にするかということになり、乳母は子どもを自由にしておくと危険であるがゆえ、常に子どもから目を離すことができないであろう。「目を離さないことはいいこと」のように思うのだが…
子どもを常時監視下に置き、子どもの自然な好奇心や、自由性を阻害することになる。子どもの心身の発育に注意を注ぐというより、子どもをうぶぎで小包のようにグルグル縛っておけば、とりあえずお金になる仕事である。「あれはダメ」、「これはダメ」と怪我をさせない子守りは、子どもの好奇心を削いでしまう。禁止の多い窮屈さが子どもの成長を妨げる。
ルソーは乳母による問題を、"うぶぎの弊害"としていろいろあげ、それが子どもの身体的自由な成長を阻むとした。生物は母なる大地に自分を適応させて生きていくものだ。その母親が、便利な育児を好み、片手間な食事を与えるなど手のかかる育児を嫌うとどうなるか?それより、なぜそのようになるのか?生物の親は、育児に手をかけることを本能的に喜びを感じるもの。
本能行動というのは、楽しい事を前提としている。快感といっても過言でない。食事にせよ、睡眠にせよ、排便にせよ、セックスしかりで、育児本能も親の喜び、楽しみであるはずである。ところが、育児本能が崩壊した成熟しきれていない人間が親になると、育児を嫌うし、便利な育児を模索する。そういう親はまた、手のかからないおとなしい子を好むようになる。
だから子どもが少しでも反抗したりすると、頭にきたりで殴る蹴るの虐待をする。逆らうことが面倒で許せない、こういう育児本能のない親が多いのではないか。自分はボロを着てもせめて子どもには、そんな親であるはずがない。「手のかからぬおとなしい子」を好む愛情は、危険なであり、子に対する消極的敵意であるからして、子どもの人間形成に歪みとなる。
サルやチンパンジーやネコでも我が子に罰を与えるが、人間はさらに積極的に我が子に加害行為を行う動物である。叱ることは教育の範疇だが、ガミガミ言うのは子どもに敵意や憎しみを持ち、カッとして攻撃していることが多い。これと同じような心理的しくみで子どもに罰を与える親は決して少なくない。それが嵩じて子どもを傷つけ、殺してしまう親もいる。
我が子にマジで敵意を抱いた親はいるし、そういう話は度々聞いた。学問的な頭のよい親にかぎって育児が下手なのが多い。知識ばかりが詰め込まれ、人間体験の機微に疎いから、学問で学んだことのない問題には対処ができないのだ。人間の大脳の新皮質(思考する場所)に知識を詰め込み、知識が豊かではあれども、生物としての健全性を統合する脳の機能は低下している。
したがって知識教育をされた親ほど本能破壊が強く、また知識偏重育児を内容とした育児書に走りやすいといわれている。学問や受験勉強は次の学業のステップに必要であって、社会に出れば社会の専門知識が必要となる。学校で学んだこと等何の役に立たないのが社会であるのに、学業成績がよかったからと自分は頭がいいと思い込んでる奴ほどバカである。
知能が発達した人間は、月や火星や分子レベルのことまで科学する能力は優れているが、生物としての健全性と優れた知能は何の関係もなく、むしろ生物的健全性を阻害するものであろう。したがって、育児や夫婦関係、人間関係といった学問にない問題に疎く、教育や福祉という弱者行政に過ちを犯しやすい傾向にある。灘高⇒東大は所詮は一面評価であるということ。
それで素晴らしい子どもだと、鬼の首でも取ったようにはしゃぐ親の気持ちも分からぬでもないが、はしゃぎ過ぎは禁物だ。東大は人生の過程でしかないのよ。16歳でツアープロとなり、17歳で「石川遼記念館」を建て(閉鎖)、20歳で自伝を書いたが、すべては「ノーベル賞級の息子」と、はしゃいだ父の偉業であろう。世界の王、「王貞治記念館」は70歳にして作られた。
優れた子どもを持つと親は舞い上がりやすいが、それを家族で喜ぶのはいいにしろ、どうしても多くに人に自慢をしたくなる。ブランド品のバッグを持つことで、自身にブランド力がついた気になると同様、ブランドチャイルドを持った親は、自分も優れた親と思うのだろう。王、長嶋、具志堅、さらに真央や錦織や本田の親が優れていようがいまいがどうでもいいこと。
なのに、それでは不満な親はいるし、もういいからあんまり顔をみせないでくれという声が上がるまで気づかない。自信の息子はそれでいいと思うが、自慢の息子というのは控えた方がいい。このように子にまつわる親の問題は、正負両面あるが、負の部分で言えば子どもには関係のない、親同士の都合である日突然、一人の親が家庭から消える「離婚」であろう。
離婚は人生の汚点とはならないし、というのも個々の考え方、気持ちの持ち方だろう。女性は子どもに対して近視眼的といわれるが、中には理知的な見方をする女性もいる。「ガミガミいわず、子どもが自分の頭で考えて行動をするまで、辛抱強く見守る努力をしています」。「子どもの意欲を削がぬよう、自分の価値観を押さえ込むようにしています」。などを聞くに、「これは凄い」と思わされる。
ほとんどの妻は、夫の給料に嘆き、愚痴をこぼす。他人の夫の出世を羨み、帰りがいつも遅いだの、家庭サービスがないだのと不満を言う。口を開けば、「なんであなたはそうなの!」と罵り、「パパのようにならないで」と子どもを味方につけて非難する。父親尊敬しないようにと教えられた子どもが立派に育つのか?夫の悪口ばかりいったところで、いい男になるだろうか?
「思慮ない女性」というのは、こういう女性。毎日あくせく働いてもねぎらいの言葉ひとつない妻に、「俺はどうしてこんな女と結婚したんだろう」と思い始める。愚痴をこぼす相手から、「悪口もほどほどにしたら?」とたしなめられても、「悪いのは夫、私は事実を言ってるだけ」と引き下がらない。悪いのが夫であっても、愚痴をまきちらし、不平不満の限りをいい、夫を見下げることが良い事?
「別にいいんじゃない?」という女性なら、「百年の不作」。妻から逃げ出したいが嵩じて、妻のハナを明かしてやりたいという報復感情に至ることもある。「俺が養ってやってるんだろ?」と言う夫に、「私が面倒みなければ何もできないくせに!」と返す妻。どちらも間違ってないにしろ、互いの悪い部分だけをあげつらう夫婦に明日はない。今日さえままならない。
男と女は違う生き物だから、対等だ、平等だという前に、違う部分を見つけ、評価することが大事。何様夫に何様妻というのは、相手を卑下することで自分を崇めるこういう人間にバカが多い。人は人から自然に尊敬されるもの。自尊心は自信にすべきで、自慢することではない。他人が認めてくれないから自慢したくなるのだろうし、そういう自尊心ははしたない。
夫の欠点ばかりに目が行って、「私ばかりが我慢をしている」などと、被害者意識を丸出しにする妻は多い。女はなにかと悲劇のヒロインに自分を見立て、それで憐れむ自分を増幅させるところがある。私は泣くほど悲しいのよ、と思えば涙まで生み出せる生き物だから、大したものだ。「『ここは泣くべき、泣いた方がいい』と思ったら自然に涙がでるのよ」。と言った女がいたが、ずいぶん正直な女だった。
「女は、自分でも嫌になるくらい腹黒いのよ」と言った女もいた。そういう言葉を聞いただけで、信頼できる女だと感じた。こういう言葉は、自らに正直であるからこそ出るものだ。人に正直であるためには、自らに正直でなければできないだろう。自分が信頼する人間とは、自分にいいことも、よくないことも口に出せる人間である。自らを偽らない人間は、人を偽ったりはしないものだ。
人は失敗した時に理由をみつけて逃れたり、他人のせいにして己の罪を軽減しようとする愚か者。バカだとわかっているなら、そのようにしないようにするのが、賢い生き方。これについては様々な体験もし、安易に人のせい、何かのせいにすることは避けて来たが、その走りとなったある事を思い出す。大したことではないが、自分にとっては自省材料となる。この話は次回…