子育ての最中にこのようなことを考えて見た。ライオンやチンパンジーやカラスの親に、よい子育てをする立派な親と、子育ての下手くそなダメ親がいるのだろうか?ライオンの群れの母親Aが同じ群れの母親Bをみて、「Bさんはなかなかいい子育てをするね~、見習わなきゃ」なんてことがあるのか?チンパンジーに優秀な子を育て上げる優秀な親がいるのだろうか?カラスも同様…
その時に出した答えは「NO!」である。動物生態学に基づいた答ではなく、自分でそう判断した。いい親、ダメな親は人間だけに存在する。理由はいろいろあるが、まずは人間の親には未熟な親、成熟した親がいる。ライオンやチンパンジーやカラスの親は、調べたわけではないが、多少の差はあれど、どの親も一様に成熟した親であろう。すべては育児本能の有無の範疇だ。
育児本能は、生物に本来備わっている能力は定義されている。ただし、人間を除くすべての生物のである。昆虫や魚やその他の動物が親になれば、誰に教えられるでもなく自然に身につける能力であり、いつもほぼ同じように子どもを育てる能力である。人の親も他の動物と同じであるなら、どの親も同じように生物として合目的に子どもを育てるはずだが、現実は違う。
育児の下手な親、未熟な親、あるいはその逆の立派な親もいよう。ここで考えるべくは、「子育てを立派にやった親」と言うのはどういう親をいうのか?ここが人間以外の動物と人間との大きな違いである。ライオンには立派な親もダメな親もいないと思えるほどに、どの親が育てたライオンもとりあえずライオンである。字が読めたり芸ができるライオンは聞いた事もない。
ところが人間の親には我が子を三人も東大医学部に入れた親もいれば、偏差値30代の学力しかない子もいる。東大医学部に息子3人入れた親を立派だと世間はいうが、それはそれで立派な親であろう。ただし、それは一面だけを見ればの話で、何事も得るものと失うものが存在するという事実がるからで、「受験に恋愛は無用」という母親の考えは、こと受験において否定しない。
受験に大事なのは、受験以外の事をできるだけしないことである。食う、寝る、出すは受験以前に生きるためだから必要だが、寝る間を惜しんで勉強するのはあってもいい。死なない程度に睡眠時間を減らすのは、それだけ勉強時間を増やせるだろう。人間は何かを仕込まれることで、何かを失うものだ。同じような例で、五嶋みどり母はみどりを世界的なバイオリニストにした。
もちろん、彼女だけがみどりを世界的アーチストにしたのではなく、多くの人の手が加えられたが、世界的なバイオリニストになる要素は母親の血と汗の結晶だろう。もちろん、それに歯を食いしばって答えようとしたみどり本人の力が何よりである。東大医学部三人もそうであろう。みどりの母節は、『母と神童』、『天才の育て方』という著書を出している。
東大医学部3人の母親も『秀才の育て方』なる著書を出した。本のタイトルからして我が娘、我が息子自慢であろう。が、実際に苦しんだ本人たちはこの本をどう読むのだろうか?五嶋みどりは苦悩を代償に世界的バイオリニストになったが、決して「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とならず、メンタルへの影響は続いた。自分は彼女の成功を受け入れられないでいる。
人間は仕込めば難しい技能を得る。サーカスの団員も、体操選手も、柔道選手、水泳選手、陸上選手、みんな仕込まれ頑張った。アスリートは汗をかけるが、汗をかけば発散にもなろう。精神的な重圧は本番時にはあっても、仕込まれることで人格が破綻するとか、欝になることはないのだろうが、マラソンの円谷英二のように、苦悩から逃れられず自殺者もいた。
バイオリンやピアノの仕込みはスポーツと違って汗をかかないし、よほどその事が好きにならなければ達成感も充実感も得られない。ホセ・フェガーリというピアニストがいた。彼は1985年の「ヴァン・クライバーン国際コンクール」の優勝者である。ちなみに辻井伸行は、2009年同コンクールの覇者。そのフェガーリは昨年、銃で頭を打ち抜いて自殺した。
動機は不明だが、鬱屈した生活を送っていたのかと想像する。自殺したピア二ストには久野久、デュオのクロムラング夫妻らがいるが、多いと言うほどでもない。ただ、五嶋みどりの失ったものの大きさを考えるに、『天才の作り方』なる本を出せるものなのか?確かに彼女は仕込まれて世界的名声を得たが、精神を壊したみどりに『天才の作り方』はあんまりでは…
タイトルは売るために編集者がつけるものだが、本人が拒否すれば別のタイトルとなる。現に節は「天才なんか育てた覚えはない」というが、それならこのタイトルは拒否すべきと思うのだが…。欧米人にはあまり聞かないが、タイガー・ウッズやビルゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグなど、世界的に有名になった人たちにも親はいる。
タイガーの父アール・ウッズは『トレーニング ア タイガー―タイガー・ウッズ父子のゴルフ&教育革命』という著書があるが、これは共著であり自慢話ではない。息子や娘が有名になり、親がでてくる類の本はなぜか日本人に多いが、実際は親自身のゲームのために息子や娘が犠牲になってるに過ぎず、親の方は大したことをしたと思っているようである。とはいえ…
タイガーほどの天才となれば、ゴルフをやるやらないに関わらず、多くの人たちが両親や家庭環境に興味を抱く。著書の日本語訳を買って出たのがまったく畑違いの大前研一であるところに、この本の意義がある。経済学者の大前だが、彼の思考や発言は必ず教育問題に収斂していくのをみても、大前が「教育」こそが国家の指針であり、要点と考えているのが伺える。
石川遼の父が「うちの子はノーベル賞級」と言ったというが、驕り高ぶり、金儲けに熱心な父もいれば、顔すら見ない松山秀樹、錦織圭、本田圭佑の父など、親もいろいろである。東大医学部3人の次男が、あまりの反響に、「母は自慢が過ぎるようですが、あれは主婦感覚です」とコメントを出す。東大医学部3人は、母親はどうでもいいが、彼らの受験という一面は評価する。
タイガーの父と違って母親が自慢したいのはいいが、息子を前に出すなら親は引っ込むのが知性である。息子のいうような主婦感覚的ミーハーなら、ミーハーが読む本ということ。受験の勝利者という一面だけで人間評価をしないのは人間は多面的であるからだ。「金持ちだからと言って人を評価すべきでない。彼がその金をどう使うかを見るまは…」と言う慣用句に習う。
特別な何かを得ることは、別の何かを失う(犠牲にする)ことだから、その失った何かをシコリとせず、修整するのも何かを得たものの定めである。天才級頭脳とまで言われた笹井芳樹の自殺は衝撃だった。特別な何かを得たであろう彼が、バカ女に惑わされて命を絶つほどに人間は脆弱である。裏返して言うなら、彼は何かを得たがために命を落とすことになったともいえるだろう。
彼は何かを得た代償として命を軽視する自尊心を増幅させた。方や佐村河内のような、何かを得たものが嘘八百であっても、「嘘でした。申し訳ありません」と衆目に対座する図太さがある。この対比を見るに、やはりエリートは脆弱である。血統書付きの高級犬が、暖房つきの部屋で寝起きし、ご馳走にあやかるが、寒空で寝起きし、腐ったまんまを食べ、泥水飲んで暮らす野犬の強靭さを見る。
子どもは親が作り、基本的に作った親が育てる。その親の成熟度によって子どもの性格は大きく変貌する。そこを考えると昆虫やライオンの親と違って、子育て能力を充実させるためには、人間の親はまずは成熟していることが求められる。果たして若き親にその能力があるだろうか?そんなものはとてもないと自覚し、悟った自分は、自分の地力で真っ当な親になれるとは思わなかった。
したがって親にとって何が正しい教育なのかを読み漁った。ソニーの井深大氏のような立派な先人の言葉はまるで自分の発想になく、大いに活用できた。子育てに限らず自身の本能的な機能は、体験を取り入れた自己形成、つまり人間形成を遂げる脳の働き(適応行動)と密接な相関関係にある。人間の育児本能は、生を受けた以後の成長過程での体験だけでは十分ではない。
初めて子を持ってからの育児体験、できるなら2人目、3人目と、次々に子どもを育てる育児体験の繰り返しなどの適応行動の充実よって、本能が形成され、成熟していく。それに加えて、知識も創意工夫という観点で重要となる。これらの機能が統合されて「人間の育児」は更なる充実に至るのだ。これらのうちで最もじゅうようなのが、先にあげた親の成熟である。成熟とは本能の成熟である。
いずれにしろ人間の親は、好ましい育児のできる親に成長し、親として成熟する必要がある。吉永小百合という女優の過去を知る人は(週刊誌等で大々的に報じられたとの意味で)、彼女が母親との確執の存在を知る。彼女の母はいわゆるステージママの走りで、小百合は母の操り人形、着せ替え人形であった。「母の命じるままに『いい子』を演じるしかなかった」という。
自分のやりたいことも言えず、母親とぶつかり合うこともできず、ずっと我慢をしていたと言う彼女は、アダルトチルドレン型の共依存親子であった。母親の期待と国民の期待に疲れ、20歳過ぎにはストレスが原因で次第に声が出なくなった。「私は普通の人間である前に、女優として育てられました」。このままではダメになってしまうと、決断したのが結婚であった。
母やファンから逃れるための最善の選択が結婚である。相手は15歳年上の平凡な中年男、しかも再婚。親は大反対だったが、小百合は押し切り、その事で親とは絶縁となったが、彼女の親離れはここに完結を見た。両親の出席のない友人宅での結婚式を、当の友人は「不憫」と見ていたという。自分の分身を人に取られたと嘆く母には、誰がこういう母娘関係にしたのかの認識がない。
母も母なら父も父。小百合は結婚後一年近く芸能活動を休止する。活動を再開した時、彼女はマスコミ宛に、"既に一年半前に吉永事務所を退社、社長である父親とは何の関係はない"旨を通告した。所属タレントが一人もいない事務所を父親は閉じもせず、毎日出社し、あたかも小百合のマネージメントを引き続き行っているかのごとき行動を取り続けていた。それを見かねた通告であった。
小百合と別れて傷心の父親は、その後「ピーターパン」という名の製パン工場と小売店を始めるが頓挫する。小百合という稀有な美貌と天賦の才能を持った娘に恵まれたことを、親が利用しようとするのはいかがなものか。父親のマネージメントは、小百合にとっても押しかけ仕事、大迷惑だったようだ。デビュー以来、小百合と父親は相当の不仲であったと推察される。
吉永は子どもをもたなかったが、その理由を、「母との葛藤の経験から自分には子どもを生んで育てる自信がない」と述べている。親子関係が崩壊したことを憂い、自分が子どもを持ったときに同じ形になるのではという危惧があったと彼女はいうが、この言葉は自分などとは全く逆のネガティブな発想と感じた。自分は親子関係の崩壊を軸に、子どもを苦しめるような親には絶対ならないと誓った。
人には人の考えがあろうし、あっていいのだが、彼女の気持ちは彼女にしか分らない。親に仕込まれ、ひたすら従順に生きた彼女が、遅すぎた反抗をしたときには多くのネガティブな感情が彼女には内面化されていたようだ。小学生から反抗した自分とはそこは大きく異なる。常々思うのは、親の刷り込みによる親の価値観が、子に内面化されるのは怖ろしいことだと感じ、危惧している。
「娘に迷惑をかけたくない」と、ガンに侵されて後一人暮らしを続けた母。「娘に迷惑をかけたくない」というのは社交辞令で、おそらく意地もあったし、すくなからず自省もあったと推察する。あるいは、憎しみが消えなかったのか。どれも考えられるが、そのことについて母は上の言葉を延べるにとどめている。心情を理解する母の詩集に、一篇の詩がある。
子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なり ひと日ひと日をつとめて行かむ
あなたの人生なんだから、好きなように生きなさいといっている。世の中にはいろいろな親子関係があるが、行き来もしない、口も聞かない親子の不和のほとんどの要因は、親が子に立ち入り過ぎる事にある。それも親が成熟していない現れである。子が自立して家を離れたら親も子離れするという動物に人間は学ぶべきである。育児を終えてなお子どもにしがらむ親はうっとうしいだけだろうに。
親が成長すれば子も成長するし、親が成長しなければ子どもの成長もないが、賢い子どもは親を見下しながら自力で成長する。その時に、喪失感を持つ親が子どもの自立に影を落す。「自分の邪魔をしないでくれ」と、強く言った方がいいと思う。親の勝手の喪失感が間違っていると思えばいいことだ。また、近年は親の子どもに対する要求が拡大し、それが原因で子どもの精神が歪むこともある。
家庭の精神的崩壊は起こさぬことが先決であろう。日本も先進国型の育児崩壊の要因を作っているが、それが旧態依然の入試制度である。子どもにとって好ましい将来像、社会人像が、いい大学⇒いい企業という図式が出来上がったのが、高度経済成長期を経験した先進国型子育て像である。それを誰もが目指そうと無理な育児を行うべく金銭的教育が横行し、教育産業が隆盛する。
子どもの教育方針をめぐって夫婦が対立し、離婚に発展する時代だ。本来、人間教育とは家庭教育をいうが、知識偏重教育のために、人間性や人間としての逞しさ、人間としての賢さに欠けた子どもが量産されている。教育者は知育教育の危険性を知りながら、人間教育のように目に見えない教育法が見えず、判らず、点数と言う数字に特化される教育を「了」とする。だからか、自分は人を見るときに目に見えない部分をしっかり見て判断をする。同様に、美人だから良い人間とも思わない。⇒性悪美人を多く知っている。金持ちだから立派とも思わない。⇒守銭奴の醜悪成金を多く知っている。東大卒だから偉いなどと思わない。⇒東大出のバカを政治家を知っている。物質文明社会の反動か、何も持たぬ人に良い物があったりする。