家の近所の公園で3人の男の子がボールを投げ合っていた。小学3~4年生風で、一人はグラブを持ち、あとの二人は素手であった。相手の位置に正しくボールを投げるキャッチボールというものではなく、やや遠い距離から相手に向かって目イッパイ投げるので、ほとんどが後にそれるか横にそれるかの暴投である。それでも互いが文句を言わずに一生懸命に投げ合う、この。遊びに対するひたむきさ…
こういうところがいい。子どもは何でもない遊びに熱中する。自分の近くに転がってきたボールを取って投げ返したやったが、そのボールはなんと硬式ボールだった。「すごいね~、硬球でやってるんだ」といいながら、自分が始めて硬球を目にしたのは中学生くらいだったか、などと回想してみた。見る機会も、触る機会もなく、白い表面に赤い糸の縫い目の硬球は、ミステリアスなボールだった。
かつて、子どものボール投げといえば柔らかいゴムボールと相場が決まっていたものだが、堅い軟式ボールを投げあうこともなかったが、昨今の硬式ボールでのボール投げにはおそれいった。練習球で一個500円、試合球だと1000円もする硬式ボールを、今の子どもは事もなげに手にできる環境が羨ましい。それにしても彼らのひたむきさ、一生懸命さは見ている部外者をも楽しませてくれる。
子どもたちはうまれつき楽天的であるし、その楽天さは大人を癒す。何故だろうか?子どもたちの未来は成長とともにおとずれ、どこにも悲観的なものは見えない。そういう年齢の子どもが悲観的であるなどは想像もできない。どこのどの子どもたち未来は、"満たされる"約束でいっぱいであろう。だから子どもたちはこうも成長を急ぐのか。彼らの世界、環境は彼らに望ましいものであって欲しいと願う。
子どもたちが悲観的でないのは、彼らの"今"がどんな状況であれ、それは時が経つにつれてよくなるのだという意識を持っているようだ。彼らはみんなそういう、"見込み"の世界に住んでいる、だから楽天的でいれるのだろう。子どもの虐待を報じた事件をブログに書くときは、怒りでワナワナとふるえることもあれば、あまりのことに息がつまって目が潤むこともある。痛ましいのは児童の虐待死。
上のこの事件はやるせなかった。こんなことができる人間がいるなら、少女は何のために生まれてきたのだろう。この少女はひまわりの花を夢見ていたようだ。太陽に向きあい、日差しを慎正面から満面に受けてすくすくと伸びる、子どもはそんなひまわりのようであるべき。そんなひまわりを夢見る少女は、こんな親に対しても気遣いをし、媚びていたのは、彼女が願い、夢見る未来があったからだろう。
きっと良くなる、今より良くなる、そんな風に思えるから、子どもは今を耐えられる。そういう、"見込み"の世界に子どもは生きている。子どもが子どもをいたぶるのは、"いじめ"であるが、大人が子どもをいたぶるのを"虐待"という。2014年には3歳の長女に十分な食事を与えず、衰弱させて殺害したとして、大阪府警は養父で大阪府茨木市の大工(22)と、19歳の母親を殺人容疑で逮捕した。
司法解剖の結果、亡くなった沙弥音ちゃんの腸にはアルミはくやロウ、タマネギの皮が残っていたというが、これらは空腹を満たすため飲み込んだようだ。また、沙弥音ちゃんがベランダの手すりにくくりつけられていた、寒空のベランダで部屋に向かって、「ママ、入れて!」と叫んでいたとの目撃情報もある。 沙弥音ちゃんの死亡時の体重は、同年齢女児の平均15キロの半分近いわずか8キロであった。
「ひどい」という言葉ではいい足りず、こんなのは親でもない、人間でもない。子どもをそんなにして何が満たされる?生物学的な基礎に立てば、人間は楽天主義であるべきで、それに反するようなものは定義からいっても適応的でない。楽天主義は、心身及び社会の健康に資するのみならず、悲観論者なら不可能とみなす目的でさえ、達成させてくれる気分に誘う。
だからか楽天家は悲観主義者に比べ、物事を簡単に諦めない。小さな町の一介の自転車工に過ぎなかったライト兄弟は、空気より重い物体は数学的・物理的にも飛行不可能と言われた学者に対し、彼らの楽観は実験結果に基づいていた。翼の設計さえ解決できれば、その機械は間違いなく空を飛ぶことを示していた。誰ひとりとて理解せぬものを成功に導いたのが、彼らの楽天主義である。
楽天主義の人は、人をますます楽天的にする。楽天的な子どもを眺めていて癒されるのはそのためだろう。癒されるだけでなく、眺めている者も楽天的になればいいが、オトナには世間のしがらみがどうしても災いするのか、それを阻む。楽観的で物事が上手く行くとは限らない。子どもが楽天的でいられるのは、上手く事を成したいという欲のなさで、彼らは結果よりも過程を楽しんでいる。
我々は、結果を重視するあまり楽観的になれないのであろう。誰もが失敗を恐れ、誰もが成功を夢見る。が、しかし悲観的に始めたことが成功したためしがない。悲観的になるというのは、上手く行かなかった時、失敗した時のダメージを抑える、その準備の前出しである。「上手くいかないだろうな」、「おそらくダメだろうな」などの不安の前出しが子どもにないし、上手くいかずとも子どもは悲嘆にくれない
子どもの指向性や努力は、"良いもの"に向けられている。それらは小さきものであれ憧れであろう。それらのものは、その子の将来の人生経験において、その人生の風景や背景になる。バックボーンになる。多くの偉人や成功者は口を揃えて言う。「幼少期のあの体験が、自分の人生の指針となった」。偉い人にならずとも、影響を残すのは間違いない。幼少年期は人間にとっての"肥やし"であるという。それは歴史年表を覚え、漢字を多く覚えることではない。そういう事をさせたがる親は、幼少年期が人間の肥やしであることを知らない親である。「人間の肥やしは学問」といえば聞こえはいいが、昨今の学問というのは、単に記憶の訓練に成り下がっているようだ。人間の能力で大事なものの順序は、①想像力、②読解力、③に記憶力とされている。
クルマの車種や、歴代天皇や、アメリカの大統領や、世界の国の首都などを記憶する子どもがいる、テレビで披露すると皆は驚く。こういう機械的記憶力は、「門前の小僧、習わぬ経を読む」の例えにあり、何ら驚くことではない。自分も幼児の頃に母親の新興宗教につれていかれ、そこで歌われる宗教歌のようなものを自然と暗記した。信者がすごいすごいと寄って来、母親も得意満面であった。
それがくだらないことだと気づいたのはいつごろだったろうか。早い時期に母親に声をかけられると行くのが嫌で逃げ出した。子どもは従順であるが、野生的でもある。ある事に従順であるべきか、野生であるべきかの判断を、子どもは自らの意思で決定できる能力はある。ところが親は威圧的、強権的に子どもを従わせるのを虐待という。背の高さ、力の強さで、子どもが大人に敵うわけがない。
簡単に手足を縛られ、押入れに押入れに入れられることからして、子どもはオトナからみても相当に小さい動物のようだ。子どもにとって押入れという暗黒の冥界は、とても怖いものだった。子どもを怖がらせ、いう事を聞かせようとするのは、「折檻」として認められていた。折檻とは、子どもを厳しく叱ったり、こらしめるために体罰を加えたりすることだが、こんにちでは虐待として認められていない。
折檻の語源が面白い。《 漢の孝成帝が、朱雲の強い諌めを怒り、朝廷から引きずり出そうとしたとき、朱雲が欄檻 につかまったため、それが折れた。つまり、折れた欄檻ということで折檻。「漢書」朱雲伝の故事から 》 自分も肉体的、精神的に多くの折檻を受けた。虐待というべきだろう。殴る、蹴るの暴力は当たり前、正座、文字の書き取り、お灸、(寺に預けるという)脅し、などが思い出される。
怖さもあってその時は謝るが、結局はその場しのぎでしかない。それが教育か?折檻する母とはどんどん心が離れていくばかりだった。そんな道理も分からず、折檻する母の、目先の対処で満足するところがバカである。子どもや家来を強権的に従えて人心を掴めるはずがない。鬼母、毒母が尊敬されるなどあり得ないが、それでも鬼を止めない、毒を撒き散らす女の思慮のなさという不幸であろう。
人を判らせる力、説得する力のないものが、手っ取り早い方法として暴力を使う、それが折檻である。こういう慈悲ない行為が非道として、禁止になったのは当たり前だが、個々の家庭内部のことは外部に見えないことから、現在でも虐待は行われている。それを監視し、指導・防止するのが児童相談所である。これまで児童相談所は、従来虐待家庭を指導し、家庭を立て直す機能を重視してきた。
昨今、子どもの保護のために強権を発動する権限が児童相談所に求められる状況にある。 しかしながら、児童相談所にはそれに関する十分なノウハウの蓄積がなく、現在の児童相談所は弁護士の協力を得て後者の機能を強化しているところだ。「虐待などしていない」と言い張る親に、立ち入る勇気も必要だが、それは相談員には酷であろう。指導・勧告は出来ても、罰則のない方はザル法である。
児童を虐待する親は、心理的成長が不完全に終わっている場合が多い。 正しく、冷静な躾がされない親に育った子どもは、当然にして問題がある。そういう子を親は、「教育の失敗」といえばそれで済むが、親によって成長に失敗させられた子どもは深刻である。心理的成長不足の親というのも見分けはつかないが、母親は乳幼児とともに過ごすことで、ある種の子供返りを行うといわれている。
それが高じてか、長い間自身に封じ込めてきた、「内なる子ども」の憤怒を表に出すことになると言われている。母親が子どもと同一目線でくだらないことに怒りを表すのはそうしたことにある。したがって、社会から児童虐待という病巣を取り除くためには、児童を虐待する母親たちの心理的成長につきあい、意見し、サポートする人間が必要となる。それが夫であるべきなのはいうまでもない。
ところが、ヒステリー状態の妻に意見すると、「あなたは甘い。何が判ってるというの?」、「私を敵にして子どもにいい顔しようとしている」。などと逆上する妻に、夫は口を閉ざすしかない。こういう事例は多く、ここに現代家庭の問題があるようだ。女が強いことの弊害は、夫の冷静な視点を無視するばかりか、頭に血が上った妻は、「余計な口出ししないで!」と凄まれ、尻込む夫はどういうことだ?
のぼせ上がった妻へのクールダウンは夫がするしかなかろう。それが可能か否かだが、子どもの教育より、妻のヒステリーが怖い夫が多い。夫の言葉を、「余計な口出ししないで!」と封じ込める家庭が問題であり、しかるに子どもが妻ひとりに手に負えるものではない。自分だけが子どものことを朝から晩まで考えているという妻の思い上がりが、夫を、「見ざる、言わざる、聞かざる」状態にする。
これはもう家庭とはいわない。自分だけの価値観でどんどん子育てをする妻が、家庭を破綻させ、心労の多い子どもを作ったとは、決して言い過ぎでない。自分も幼少時に同じ体験をしたからよくわかる。子育てなんかに興味はない、お前の仕事だという夫も確かにいる。どちらが悪いかではなく、二人のコミュニケーション不全の問題である。長期間、こういう状態の家庭は、修整のきっかけがない。
それらも離婚の多さの原因となる。夫婦の離婚と言うのは、夫婦の問題よりも、実は子どもを取り巻く問題が多い。愛が終り、子どもを取り巻く環境が良好といえないなら、もはや修復不可能状態夫婦の関係にとらわれることはない。さっさと離婚を決め、上手く行かない理由等に固執しない。そうして過去に決別し、前に進むべき。離婚が人生の汚点になる時代ではないのは、良き時代であろう。
ある社会学者のデータによると、現代人にとって心のダメージが大きい出来事の上位は、「家族の死」、「失業」、そして「離婚」である。離婚は配偶者の不祥事によって成される場合もあるが、結婚段階で明らかに相手選びを間違っているケースもあり、どちらにしても結婚後に二人の仲がこじれてしまい、「覆水盆に戻らず」というように、別れた方がよいという状況を無理に継続するべきではない。
かつては、世間や親戚などの対外的な理由で、破綻した夫婦がガマンをしながら居続けた。もちろん、子どもを片親にしたくないという思いもあったし、女手ひとりで生きて行きにくい時代や、弱者に対する法の不備もあった。それらが解消できたのも離婚を増大させている。それでも女性が一人で生きて行くのはまだまだ大変であるが、当面は憎しみ合いにまで成り下がった夫婦のストレス回避であろう。
もちろん、互いが努力をしたケースもある。自分たちの幸せ、子どもの幸せを考えて、もう一度やり直そうとしたが、人の性格なんてそうそう変わるものではない。明らかに間違った結婚はぐずぐずするより、早急に解消した方がいい。その後に、新たな伴侶を得て幸せになった事例は少なくない。離婚は男をダメにし、女性を美しくすることがある。もちろん、離婚後にりりしく成長した夫もいるにはいるが…
離婚のどん底を経験し、そこから這い上がった女性を何人か知っているが、彼女らは一様に美しい。輝いてもいる。負担が取れるということはこれほど人を変えるものなのか。自分も半ば親と縁切り状態にあるから判る気もする。心に負担のない生活がどれだけ清々しいかということ。「あの離婚があったから」、「あの離婚がむしろ自分に良き何かをもたらせた」と言って憚らない女性がいる。
ただしこうも言う。「今の私だったら、おそらく離婚はしていないと思う」。これが意味するものは、それだけ成長したということ。若いからガマンできなかったこと、耐えられなかったことは人間誰にもある。自分だって、今の自分が20歳の自分であったなら、別れない恋人はいた。あの女は本当に出来た女、立派な女だったと思える、そんな女性を袖にしたのは、自分の若さ、バカさ、至らなさである。