夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう
青空に残された 私の心は夏模様
夢が覚め 夜の中 永い冬が窓を閉じて
呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき
夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様
目が覚めて 夢のあと
長い影が夜にのびて 星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき
青空に残された 私の心は夏模様
夢が覚め 夜の中 永い冬が窓を閉じて
呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき
夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様
目が覚めて 夢のあと
長い影が夜にのびて 星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき
陽水の歌詞は難解を越えて異常であろう。異常とはつまり正常でないことだが、正常の定義がこれまた難解であり、異常というのは実は人間性の、"異常"さも含めて、普通であったりする。人間そのものが異常であるなら、人間の異常は正常であろう。「自分は異常でない」と思う人間は、まだまだ異常さを秘めて、出す機会がないだけなのかも知れない。
「自分はまとも(正常)」と思っている人は、異常さを隠匿しているそのことにさえ気づいてないのかも知れない。少年Aの事件(正確には「神戸児童連続殺傷事件」)の検事調書が公になった時、立花隆は検事調書を掲載した「文藝春秋」誌に前文を寄せた。その表題を、『正常と異常の間』とした。これは彼が検事調書に目を通して感じたままの表題であろう。
「正常」があって「異常」があって、であるなら、その「間」とはなんぞや?例えば、「前」と「後」があってその間を「真ん中」という。「バカ」と「賢い」の間を「普通」と言ったりするが、「普通」とは何だ?この場合、「どちらでもない」、「どちらにも偏らない」場合を、「普通」と読んでいる。高校に普通科というのがあって、商業科、工業科に対して普通科という。
普通科のどこが普通なのか、説明せよといわれるとはた困る。「そんなのは当然だ」、「当たり前だ」という言葉も何を持っていってるか疑わしい。「当然」の基準、「当たり前」の基準は何なのか?その人が今まで生きた中で考えた基準が、「当然」なのだろう。よって、「当然」は人によって異なる。似た言葉で「常識」もある。「普通」もそのようだ。
あるとき小学生高学年だった子どもが、「友だちに家に泊まりに行く」という。「ダメです」と母親が言った。これは自分の考えを代弁してくれているし、だけでなく妻もそれは反対だったようだ。理由は、「先方に迷惑がかかるから…」というもので、何のどういう迷惑がかかるかという詳細な問題ではなく、半ば口実の意味での、「迷惑がかかる」であろう。
確かに友だちと一緒に布団を並べているだけでも興奮するであろうし、そのいい例が修学旅行や林間学校であった。楽しくて仕方ないから元気のいい男子は枕投げをして遊ぶのだ。女子は輪になってお喋りに花を咲かせる。友人と枕を並べて寝ることの何が楽しいかというなら、率直に言って非日常性という喜びではないか。だから、友だちのところに泊まりたいは分かる。
反対された長女は不満であった。なぜなら友人宅に泊まるなどは、問題なくやっているらしい。長女は、「そんなの普通だよ」といった。父が傍にいるので遠慮がちにいっているのが伝わって来るが、妻は「よそが普通でもウチでは普通じゃない」と言った。「何でウチだけダメなの?」長女は納得しない。「ウチの決まり。よそが普通でも関係ありません」と頑張る妻。
しぶしぶ引き下がったのを見計らって、「よそのダメも、ウチでは普通っていっぱいあるだろ?」と言っておく。実際そうであるし、食事時に子どもは他家の規則や、決まりのアレコレをいろいろ話したりした。友達にも「何でいけないの?ウチではそんなのうるさくないし…」と、そういうものがないとダメだ。あるから、我が家の規則には子どもも従う。
「躾」とは、何でもカンでもダメでは効果がない。時には子どもの視線、味方になる事も必要だ。父親が子どもに味方するのが面白くないという母親は多い。「私が毎日のことをアレコレ言ってるのに、都合のいいときだけでてきて、子どもの味方をする夫が許せない。(イライライラ)」などの不満はよく聞いた。父親の点数稼ぎと思って腹を立てる妻が多い。
点数稼ぎともいえるのか、妻の小言に意を唱える夫が多いのは事実であろう。そもそも子どもに対する点数稼ぎという発想が侘しいが、こどもにいい顔したい親がいるようだ。そういう時に悪人にされた妻の矛先は当然夫に向けられ、今度は夫婦喧嘩に発展する。喧嘩の仲裁に入ったら、その矛先が仲裁に向けられるのと同じ論理か。仲裁が公平でないとそうなる。
夫婦喧嘩にしろ、普通の喧嘩にしろ、どちらか一方を名指し批判すると、そうなる事は知っておくべきで、喧嘩の仲裁はそこが難しい。どちらの言い分が間違っているかを第三者が聞こうとしても、批判された側は相手の味方をしているとしか思わない。だから、「犬も食わない」とし、食うべきでないのが正しい。一方に加担する仲裁ならしない方がいい。
誰もが自分を基準にして、「オカシイ」とか、「常識がない」とか、「普通」と言ってる。自分は長女と孫の中に入って常に孫の味方をする。味方というより、長女(母親)の言い分が論理的でないから、男の子にそぐわないと思うからで、孫ももう中2となると、母親の小言には聞く耳もたない、それでも小言をいう母親を制止の意味もある。思えば祖父も祖母も自分の味方だった。
味方だったというより、母の言い分は独善的であった。祖父や祖母の言い分の方が理に敵っていた。この世の誰とて母の言ってる事は納得できないと思うだろうが、そこに気づかないところが不憫である。バカが自分で気づかない場合、永久にバカでいるしかない。治療は死ぬしかないと昔の人は言ったものだ。自分の発言がバカであるかないかは、知識を持たないからだ。
知識とは他人の考えである。それらに触れ、耳を貸そうとしない人間にバカが多いのは自明の理。人が自分の考えや価値観を基準にして、「当然だ」、「普通だ」と言っても、さまざまな選択から最良のものを思考するならともかく、まったく対案の思索なしに唯一何かを「良」とするのは妄信である。トマトに塩をかけて食す人は、砂糖をかける人を普通でないという。
果物の皮のむき方ひとつとっても、自分流が普通だと思っている人は他者の方法に異を唱える。どっちでもいいことをうるさくいう、それが母親であったりするものだが、母親には気づいてない事が多い。事の問題の多くは、自分を基準にして、「そんなことおかしい」とか、「間違っている」などと他人を判断していくこと。実に些細な事から大きな事まで多種多様。
人は色々なことを「当然だ」、「当たり前だ」と言って自分の物差しで他人を計っている。その事自体は、「悪」ではないが、物差しの質が大きく違うことだけは認めなければダメだ。知識や経験がすべてに勝る、理性が感性に勝るという、「絶対」はないが、相対的に思考した場合や、構築された論理には根拠を説明できることが多い。それに比べて感性は独善である。
「自分はこう思う」、「そう思った」、理由はない。直観だ。それが優れてる人は例えば自営業であれ、その感性で成功するであろう。自分で何かをするなら、自分の直観を頼りにやれば言いし、直観の責任もとれるが、全体で物事を動かす場合において、直観は説得力とならない。自分の意見を他人に理解させて、同意を得るためには論拠は必要である。
自治体の長が何かを行う場合、あるいは旧態依然なものを打破して変革を行う場合には、行為の論拠は必要だし、さらにその意義を説明し、賛同を得なければならない。大阪市長の橋下徹氏は、合理主義者でありながら強い問題意識を持って変革を掲げている。「過去の知事とは全く違った」。これが、橋下と対峙したかつての府庁幹部の共通した意見であった。
彼は政治を業とする政治屋ではない。ゆえに利害や既得権とは無縁であり、「政治の素人」であるがゆえに、物事を根本から思考し、そこに沸いた疑問点に一つずつ立ち止まって思考をするから、自らにごまかしがない。自分をごまかさない人間は他人をごまかすことはない。ある幹部の携帯電話には、深夜でさえ橋下の着信記録がびっしりと並んでいた。
問題なく任期を全うするためには、事を荒立てるようなことをせず、労働組合にも気を使い、議会対策を万全に乗りきることが必要だが、橋下氏のように、公開性を旨とする行政手腕は分かりやすく信頼も置ける。タレント時代にカメラの意義と怖さを知る彼は、ほぼすべての会議にテレビカメラを入れる。これは視聴者に抵抗勢力の存在を印象づける効用がある。
さらに彼はこうした手法を最大限に生かした、「交渉術」に長けている。府幹部の一人は「弁護士らしく、最初にふっかけて交渉で譲歩する。しかしもとはゼロのため、最後は少しでも引き出した側の勝ちとなる。とにかく口達者です」と言う。橋下徹はどのようにして出来上がったのだろう。誰にも幼年期、少年期があるように、彼の少年期には興味が尽きない。
陽水の『少年時代』は意味不明だが、「少年時代は何のためにあるのか?」と、こんな質問をされれば困るだろう。「生まれたら乳児、少し成長すると幼児、さらに学童期に入って少年期」、そうではないか?と、無難に答える者もいよう。考えてみるに人間の幼少年期は長い。子犬時代はかわいいワンちゃんもあっというまに成犬。7歳頃から老化は始まるという。
イギリスの生物学者J・Z・ヤング教授は、思春期の前に長い少児期があるのは、若者が大人によって容易に拘束され、教化されやすいということであり、その結果、集団にとっての利益が累積されていくばかりか、攻撃性や非協力性といったものの物理的決定要因のいくつかが、集団から取り除かれていくだろうことを示唆し、このことはとても重要なこととした。
確かに子どもの特徴は、非攻撃的、協力的という行動である。ヒトという動物は怒り、激情し、暴力行為さえ起こすが、それらはある特異な環境条件にたいする反応であって、何もない内的要囲から自ずとあらわれるものではない。しかし、それらが人類進化史の全般で抑えられてきたのは、食物採集を狩猟に委ねていた時代には人類社会は破壊的あり過ぎたからだ。
キューブリックの、『2001年宇宙の旅』の冒頭、人類の祖先であった類人猿が水の在処や餌を求めて争う場面が象徴的に描かれている。そういった荒々しい社会から、協力的な社会を発達させ、それが集団及び個人が生きうる唯一の道であったのだろう。人間の基本は動物同様、自己である。それが協力的な行動を規範にして社会を形成していったことで生き延びてきた。
幼少年期に家庭や外部からの仕込が重要なのはいうまでもない。が、反抗する子のはそれなりの環境要因があったというしかない。無慈悲な親によって幼少期に命を絶たれた子どもは多い。まさに親に殺されるために生まれてきたようなものだから、ヒドイ親である。命を絶たれることはなくとも、性格の荒い、キツイ親によって健全な心を育まれなかった子もいる。
子どもは両親からの恵みであっても、訳あって離別する親も少なくないし、橋下徹も母子家庭であった。昭和44年、東京で生を受けた彼は、母親が苦労して家計を支え、小学5年で妹とともに大阪府吹田市に引っ越し、さらに1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。いずれも、手狭な府営住宅から地元の公立学校に通った。橋下は当時の生活が、「自分の原点」と言う。
「小中学校ともに荒れた学校だった」という東淀川時代のエピソードは、現在の橋下を橋下たらしめた重要な何かがある。小6ですでに身長は170センチ、体重65キロというの体格だった橋下は、それだけでもかなり目立つ存在だった。あげく、「東京出身の転校生」は言葉の問題などでもからかわれやすかった。小学校では転校初日からいきなり同級生に殴られたという。
そんな中で橋下は、彼らと敵対するでも、手下につくでもなく、彼らの交友関係に自ら飛び込んだ。彼は青少年向けの著書、『どうして君は友だちがいないのか』でこう述べている。「要するに(ドラえもんの)スネ夫のような生き方といえばいいでしょうか、ジャイアンのような強い人とうまくつきあって生きていくのは、悪いことでもずるいことでもありません。」
が、いつまでも、「スネ夫」でいるわけにもいかない。成績も優秀だった中学時代の橋下は、言葉では自分をうまく表現できない、「ワル」たちの「代弁者」として、次第に存在感を増して行く。彼らの怒りや悩みを聞き、時には学校側との交渉の先頭に立つ。放課後の教室で、車座になって橋下の言葉にうなずく生徒たちの姿は、教師の間で、「橋下塾」と呼ばれていた。
中3時の担任教諭だった臼井は、「席替えや文化祭の出し物などでクラスがもめたとき、互いの主張を取り入れて解決するのが橋下だった。論理立ててものを述べる交渉術は当時から卓越しており、教師からみても、こちらが見透かされているような怖さがあった」と言う。立候補の際、地元の自民、公明の支援を取り付けたことについて当時、こう述べていた。
「実行力のない人とつきあっても政治はできない。僕は(元長野県知事の)田中康夫さんのように孤立したくはないんです。」
橋下は選挙中、「母子家庭」を全面に押し出し府民の情に訴えた。母親は躾に厳しく、「妹をいじめるな」、「目上の人を敬え」、「人を傷つけるな」の"3つの約束"を交わしていた。世間体を気にしたり、自分の生き方を押しつけるようなことは決してなかったという。大阪に移った後の中学時代の担任教諭も、「母親は進路についても一切口出ししなかった。
放任主義に見えて、実は懸命に生きる姿を背中で息子にみせる、そういう方だった」と話す。彼の出身北野高校に合格するためには偏差値70は必要だったが、受験前の橋下は44しかなく、荒れた中学でラグビーを続け、塾にもいかず、「ワル」たちとともに過ごしながら難関を突破した。そんな彼の15歳の春に芽生えた、「自信」は相当なものだったろう…。