「子」は親子の「子」で、その場合は血のつながりのある意味での「子」をいう。幼少年期の「子ども」と、親子の「子」の区別はある。「子ども」も「子供」も同じ意味だが、「こ」+「ども」の組み合わせの文字で、「ども」は、「子ら」、「子たち」の「ら」、「たち」と同じ意味の複数を表す接尾辞である。「ものども準備はいいか」、「ものども出あえ~」などに使われる。
「子ども」と、「子供」の表記でどちらが多いかといえば、圧倒的に、「子ども」ではないか。本ブログに、「こども」のことをたくさん書いているが、「子ども」表記が多く、然したる理由は特にない。昭和20~30年代頃にある人が、「子供」の「供」は、「お供」の「供」で付属物の扱いのようだ。「子どもは親の所有物ではない」と、「子ども」表記を提唱した。
その「ある人」とは、女性運動家で、教育評論家の羽仁説子である。夫は元参議院議員の羽仁五郎、息子は映画監督の羽仁進、娘は音楽教育評論家の羽仁協子である。よって、「子供」は差別表現だなどと権威的にこじつけたようだ。「ども」、「供」は単に複数形を表す「ドモ」であり、「親のお供という意味で供の字を宛てられた」という証拠は、見つかっていない。
「子ども」も「子供」も意味は同じでどちらも正しく、現在は交ぜ書きが浸透している。文科省は2013年6月より、公用文中の「子ども」表記を、「子供」に統一したが、「子ども」表記の柔らかさに対する好感もあってか、混用されている。丸谷才一は著書『桜もさよならも日本語』の中で、「想像を想ぞうと書くのはおかしい、だから子どもは子供が正しい」とした意見を出す。
「タカが子供、されど子ども」であるが、そんなことはさて置き、「子ども」といえば人はどのようなことを連想するだろうか。自分は、「無邪気」である。「無邪気」とは、「邪気」が無いこと。「邪気」とは人に害を与えようとする心。悪意ともいう。他にも別の意味で、"病気を起こす悪い気"、"物の怪(け)"の意味もある。子どもが無邪気なのは悪意がないからだ。
なぜ、子どもに悪意がないのか。なぜ、親は子どもに悪意を持ってしまうのか?子どもに悪意がない理由は、それは子どもだからである。親が子どもに悪意を持つ理由は、オトナだからである。「それって答えになっていないのでは?」と思う人もあろうが、説明するより理由を知りたいなら、子どもをじっと観察するといい。公園や学校帰りの子どもをじっと見るとよく分かる。
児童心理学や精神分析など、知識として頭で子ども理解するよりも、子どもの無邪気さは見て体験するほうがいい。子どもはなぜイタズラをするのか?そのイタズラには悪気もないから、罪もない。だから子どもは罪人ではない。壺井栄の、『二十四の瞳』で、子どもがイタズラに作った落とし穴に大石先生が落ちて骨折する。どうして子どもを責められようか?
イタズラをする子は悪い子と言われた。イラズラをしない子は良い子と言われた。それは本当なのか?自分はイタズラ大好き少年だったから、悪い子と言われた。悪い子と言われたが、様々な本から知識を蓄えていたので、「頭がいいのに悪い子」という言われ方だった。普通、イタズラ小僧は頭が悪い子らしいが、大人しい、いい子は退屈でしょうがなかった。
だから自分に素直でいたらイタズラが面白いと気づいたのだった。大人しいいい子の優等少年という、そんな肩書きなんかクソくらえ、屁でもくらえであった。「いい子」、「良い子」と世間で言われたい子どももいたのだろうが、そんな風に思われたいなどさらさらなかった。人に媚びないませたガキだった。反逆児的感性は、おそらく母親とのバトルから生まれたと考える。
母親との開戦は小学3年生から始まり、5~6年生辺りから度を増した。話を戻すが、イタズラっ子は世間でいう、本当に悪い子なのだろうか?「大人しい子」というのは、「大人らしい子」を縮めたもので、「大人らしい」=「手のかからない」との意味である。オトナの手を煩わさないということだから「いい子」というが、それを言い換えると便利だいうこと。
大人しい子は山ほど見たが、取立て何もせず、お行儀がよい大人しい子を、いい子だなど思ったことがないし憧れもない。むしろ、そんな子になどなりたくなかった。大人しくしてるなんか、こんな退屈なことはないだろうと、つい思ってしまう。さらにいうと、イタズらっ子に比べていい子というのは、行動力のない子、保守的で他人の目を意識した子ではないのか?
世間の、「いい子、悪い子」という定義、評価は子どもを将来的に良い大人にするためというより、とりあえず"手のかからない子"を求めているのではないのか?世の中を変革するような人間が、何もしないでジッとしたいい子であったためしがない。「憎まれっ子世にはばかる」とは、人から憎まれるような人間のほうが、かえって世間で威勢を奮うとしたもの。
子どもについてイギリスの小説家で詩人、優れた児童文学作家であるウォルター・ジョン・デ・ラ・メアは、1902年に童謡詩の処女詩集『幼年の歌』をウォルター・ラメル(Walter Ramal)名義で出版し、一部に注目された。彼の詩文集『ある早朝』に以下の詩がある。いささか抽象的ではあるが、象徴的な言葉を発している。その意味は概ね理解できるであろう。
"こども"とは 近未来の呼称である。
これこそが、
またこれのみが、
人類の王国を約束する。
子どもとは何であるか?において、さまざま浮かぶなかにラメルのこの詩がある。子どもとは自分子ども経験でいうと、「なぜ」、「なぜなの?」、「何のために?」、「どうして?」などと際限なく質問を発する生き物。発する対象者がない場合は、心の中で発する。子どもは、すべてのものについての、すべてを知りたいのだ。それを簡単な言葉で、「好奇心」という。
何時間ものあいだ、とても単純なことに向き合うこともできるし、単調なおもちゃにさえ夢中になることもできる。オトナなら誰も見向きもしない石ころや、棒きれのような何の特徴も価値もないものにさえ価値を与え、個性や歴史だって与えることができるし、また、手の込んだ筋書きさえ想像し、何日も、時には何ヶ月ものあいだ、冒険話をつくってしまうのだ。
家康や秀吉や義経や真田幸村について、オトナは歴史書を読み、正しい知識を持ち合わせようとするが、子どもにはそんなことなどどうでもいい。彼らには彼らなりの牛若丸や猿飛佐助がいるのだから…。見たとおりを口にし、見ない事は想像する。それはオトナも同じであるが、彼らの遊びはいつまで続くし、時にはなりゆきによって遊びの様相を変えたりもする。
何にも縛られない、自由な柔軟な、天真爛漫さこそが子どもである。知り得たことはスポンジのように知識として吸収していく。正しいことも、間違ったことも、そんなことはお構いなくである。オトナは、新しい情報を引き出すような質問を余りしなくなるが、それは見栄や羞恥が災いすることもある。「そんなことも知らないの?」と、言われる(思われる)のが嫌なのだ。
子どもにはそれがない。だから、知らないことをオトナのように知ったかぶりなどしない。知らないことは知らないのだから、素直に知りたいと思う。無知をさらけだしたくないオトナの悲哀がない。また、オトナは単純な遊びにも満足しない。オトナたちのレジャーや娯楽はお金がかかるものが多いが、子どもにそれはないし、その理由はお金がないからか?
いや、本当はそうではないが、近年の子どもは高価なオモチャをもつようになった。プレステだの3DSだの、おまけにソフトも効果である。さらには携帯というのも広義のオモチャであろう。オトナのオモチャと子どものオモチャの差が無くなった時代である。つまり、今の子どもは原始的なオモチャでは、満足しなくなってしまっている。その事は幸なのか、不幸なのか…
質問も回答も無意味、すべては時代の中のこと。オトナはやたら、「昔はこうだった、こんな風だった」などといいたがるが、そんなことを言っても始まらない。昔、子どもだったオトナが今の時代に子どもだったら、今の時代に合致した子どもになるに決まっている。よって分析的に、「昔はこうだった」ならいいが、「昔はよかった、今はダメ」などの比較に何の意味もない。
犬や猿はいつの時代にあっても犬や猿だが、それは個体も精神も犬であり、猿であろう。それに比して人間はどうか?人間という機能や個体においては、数万年単位の進化は別にして形状は変わらないのは、犬や猿と同様だが、人間の比率というは精神が大きな影響を及ぼす。理念を持って生きる犬や猿はいるのだろうか?おそらくそれを知る手段が見当たらない。
知能の訓練やテストはできるが、知識や知能や経験の集積からなる「理念」、「信念」を人間以外の動物に求めるのは無理があろう。人の人相ほどの違いはないが、犬や猿にも人相(犬相?猿相?)はあるし、行動上の特徴にも差異はある。しかしそれらは人間の行動的特徴に比べるとビビたるものであろう。人間の行動的特徴は、身体的特徴よりもはるかに重要だ。
オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツは、近代動物行動学を確立した人物で、1973年ノーベル医学生理学賞を受けた。1950年著作で、"人類進化の歴史において身体的特徴より行動上の特徴がはるかに重要」とした。動物の行動は種を維持するためにあると考えていたが、その後、社会生物学の発展により動物の行動は種のためより、自身のためとの解釈した。
ローレンツの変貌は、彼がドイツの社会学者アルノルト・ゲーレンの影響を強く受けたからである。ゲーレンはすでに1940年に、"人類の著しい特性は、一生のあいだ、発達しつづけること"とした。つまり、人類は、いかなる環境に出会おうとも、必要に応じて変化する能力を保持している"ということになり、この多面性が人類の特異な点とされる。
ローレンツはこれらの性質が、身体的なものだけに限らず、行動学上においてもそうだとした。協調したり、阻害されたり、朱に染められて赤くなったり、染まらずに孤立したり、主導したり、盲従したりと、あらゆる環境によってあらゆる人間のパターンをみる。乳幼児期にさえ、人見知りする子、愛想のいい子という特徴を我々は知るが、この差は何?どのように生まれた?
乳幼児期の人見知りが、オトナになるまで影響し続けるかといえばそうではない。人見知り、人嫌い、話ベタ、を克服した人は多い。これも、人間は一生のあいだ発達し続けるという事を現している。いうまでもない、発達させるためには学習や勉強が必要であろう。ピアニストやギタリストの手指の俊敏性や、アスリートの運動能力も学習(練習)の賜である。
短所・欠点を修整した人、長所をどんどんと伸ばした人、何もしないで普通の人、大きく3タイプに分かれるが、人間は長所を伸ばすほうがよいとされている。その理由として、短所は修整は出来たとしても、それが長所にまでならない。であるなら、長所はどこまで伸ばせるのかという発展性がある。勉強に不向きな子どもを無理やり勉強させる親って、○○か?
100人中ビリが80番になった、50番になったと喜ぶ親の陰で、やりたいことを犠牲にした子どもの多きかな。生れ落ちたときから、「生」はその子のものなのに、親に支配され、親の道を歩まされ、それが灘高⇒東大であっても幸せなのだろうか?と自分は思うからだが、「親に敷かれたレールを歩いたとして、それで勝ち組なら幸せに決まってるだろ」と、思う人間もいる。
親に自由を制限され、抑止され、ついには奪われた自分が、国王を追放するために動乱や革命を起こした如き戦いを挑み、勝ち得た「自由」というものに対する愛着や拘りは強烈である。何かを子どもに仕込み、それで何かに染めて、その何かが周囲より秀でたものであったとしても、子どもの自由を奪った親は懺悔をすべきと思っている。「結果よければ…」というが。
「子どもの自由を奪う権利は親にはない」と思っている。だから世界的なバイオリニストになった五嶋みどりには同情的で、彼女の親がどのように一生懸命であったとしても共感はない。灘高⇒東大3人の母親についても同じこと。これらはあくまで自分の好き・嫌いであり、自分の体験的な感性から芽生えたものである。子がある時期親の支配下にあるのは認める。
事実でもある。世に、「個人」という実態は真にあり得るのだろうか、との疑問は日々沸いており、長らく持ちつつ問題だ。すべての人間は、自分を社会化してくれる集団に結合している。社会は個人の集合体というが、その場合の、「個人」というのは、人口動態調査などの「個人」と呼ばれる物体の定義であって、よって、「個々」と言った方が正確かも知れない。
物理的にも生理的にも人間は孤立したものとはいえない。よほどの異常者でさえ、他の人々なしにはやっていけないだろう。どこにも属さない、何にも依存しない、「絶対個人」などというのはあり得ない。と、このような考えを押し出したり、口に出すなどすると、普通・一般的な会話はできないから、社会人としての社会通念、社会常識で十分に会話は足りている。
もし、絶対的個人を標榜する人間がいるなら、それは無秩序な人間であろう。彼こそ、「自分こそ全体であり、この世の自分以外は部分である」と考える。こういう人間とは誰も友だちになりたくないばかりか、付き合うことさえ躊躇われる。したがって、斯くの人間は孤立し、より絶対的個人に近づいていくことになる。いわゆる山にこもった仙人のような状態。
人に絶対的に依存しないというのは、乗り物には乗らない、食事もすべて自給自足であらねばならず、そんなことは絶対的にあり得ない。人間は人との関係という点で考えるべきもので、それがひいては人類への連帯の道を開く。「人は集団のために生きる」のか、「集団はひとえに個人のためのもの」か、昨夜のTPP交渉妥結においても考えるべくことであった。