小保方問題で揺れた理化学研究所が9月30日に、「父性の目覚め」についてのプレリリースを発表した。ほ乳類の場合、子は未発達のまま生まれてくるので、母乳を与えるなど親による子育て(養育)が欠かせない。人間は「胎児出産」といわれるように、胎児を産んでいるわけで、これは母体保護の目的もある。マウスにおいても、メスは若い時から子の世話をすることが多い。
そのマウスは出産時の生理的な変化によって、さらに養育行動が強化されることが知られている。それはあくまでメスの場合であり、オスは?となるとなかなかそうもいかない。交尾をしたことがないオスマウスは、養育にはまるで関心がなく子に対して攻撃的であるが、メスとの交尾・同居を経験して父親になると、自分の子ばかりか他人の子までも養育する。
この「父性の目覚め」現象に関わるメカニズムの1つとして、子の発するフェロモンを鋤鼻器(じょびき)という嗅覚器官で検出することが子への攻撃には必要であることと、父親マウスでは鋤鼻器の働きが抑制され、子への攻撃行動が抑えられると同時に養育を促すことを理研は発見していた。鋤鼻器は元々は口腔内の食物の臭いを感じる器官であったといわれる。
「父性の目覚め」現象は、鋤鼻器が退化している類人猿でも見られることから、嗅覚などさまざまな感覚入力を受けとり子への行動を決定する、より高次の脳領域に重要なメカニズムがあるのではと理研研究者は考えた。そこでまず、子を攻撃するオスマウスと養育するオスマウスを、それぞれ2時間、子と同居させることによって脳のどの部分が活性化されるかを調べた。
この結果、父親になる時には子への攻撃をやめ養育する、「父性の目覚め」が起こる可能性が示唆された。さらに、あるオスマウスが子を攻撃するか、養育するかは、2つの脳部位の特定物質の活性化状態を測定するだけで、95%以上の高精度で推定できることが分かった。今回明らかになったマウスでの、「父性の目覚め」のメカニズムは、すぐに人間に応用はできない。
がしかし、理研の研究は子に対する攻撃と養育という正反対の行動のそれぞれに必要な中枢の脳部位を詳細に同定し、その活性化状態からマウスの行動意欲が読み取れることを示した初めての研究成果である。こういった脳部位の働きを霊長類において調べることで、人間の父子関係の理解とその問題解決に役立つ知識を得ることにつながると考えられている。
昨日の記事で、こどもが大好きと書いた。が、遡ると自分は子どもは大大大嫌いであった。自分の子どもが生まれても煩わしくて一度も抱いたことも世話もした事すらなかった。お風呂も入れたこともなく、オムツはおろか、触ることさえなかったし、夜泣きが耐えられず、自分用の寝室兼個室を確保した。今思うと、妻が一人でどれだけ大変であったかと…
彼女の性格として何かを頼むことは一度もなかったが、こと何もしないことにおいては雄ライオンであったろう。全く興味が沸かず煩わしいだけだった。それが、急変したのは3、4歳頃の長女に何かに気づいて(その何かは覚えていない)、これではダメだ。まったく躾というものがなされてないなと、痛感したことだった。自分の、「父性の目覚め」は本能ではなかったろう。
「必要は発明の母」という言葉があるように、発明とか工夫は「必要性」からもたらされるとしたものだが、自分の、「父性の目覚め」はまさにそのことであった。「これではダメだ、躾がなされてない」が何であったか記憶にないが、とにかく躾の必要性を感じたのだった。結婚当初の妻、子を持った後、彼女は子ども可愛がることに関しては問題なく出来る性格。
けれども、その事が災いして子を客観的に離して見ることができないから、強い言葉や注意を与えることができない柔い性格と言える。管理職が部下の長所を探して伸ばすと同時に、短所や不足部分にも目を当てて、それらを改善させる役目を負う様に、そういった両極へのシビアな能力が必要となる。親を管理職に見立てれば、子育てとて同じことだ。
と、自分は感じた。したがって、「父性本能」とかではなく、管理職が本能ではなく義務と演技でなされるように、躾もそのようにすべきと考えた。当時を思い出しても、「父性の目覚め」というのは、意識的にも無意識的(おそらくだが)にもなかったと思われる。あくまで「躾」の必要性に動かされる何かを発見したのである。そうして今、「子どもが好き」と言う。
子どもという小動物はどれほど見ていても飽きない。何十年も前だが、これと同じことを言った母親がいた。そのことを自分は理解すらできなかったが、今はよく分かる。子どもは実に変化に富むこと変幻自在で、楽しませてくれる。幼児は常に何かの実験をしているようだ。子どもが、生まれながらに実験家であることに、忙しさに紛れて気づかないオトナもいる。
ハエの羽をムシって取ったらハエに見えない、アメンボウの足を全部とると、ただの棒。ゴキブリの足を取ると、「柿の種」ではないが、トンボの首を取るとそれに続いて長い物体が体の中からどんどん出てくる。それが脊髄である事も知らずに眺めている。カマキリが虫を食っているのをみて、「虫のどこが美味しいんだろ?」とクビをかしげるしかなかった。
なぜ犬がウンチの臭いをかぐのかを友だちと言い合った。「ウンチは人間にとってはクサイ臭いだが、犬にとってはすごくいい臭いなんだよ」と、そんな風にいえば誰もが納得した。本当かどうか犬に聞いたわけではもちろんないが、嫌な臭いならあんなに鼻を近づけてクンクン臭わないだろうとの空想である。家の柱時計を分解して怒られたこともあった。
子どもは実験をしているだけだし、実験材料は身近にたくさんあった。が、しばしば実験材料を間違えて親に叱られる。それでも陰にかくれてアレコレと実験材料を探す。幼児にとって世界は神秘である。したがって、探索して地図にしなければならない未知の領域である。イギリスの代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワースは、こんな詩を残している。
祝福された幼な子は、母の腕に憩い、母の胸に眠る
そのとき彼の魂は、母の眼から熱愛をひき出し集める
そのような感情は、
彼の眠れる暮らしに目覚めの風のようにそよぎ
そのとき彼の魂は、母の眼から熱愛をひき出し集める
そのような感情は、
彼の眠れる暮らしに目覚めの風のようにそよぎ
そして彼の心は、(諸力の最初の試みにおいてさえ)
素早く慎重で、同一のすべての要素や部分を
さもなくばバラバラで合体したがらないのを
ひとつの形に結びつけたがっている
そして、大きくなって
いまやすべてのものに
私はひとつの人生を見
それをよろこびと感じた
いまやすべてのものに
私はひとつの人生を見
それをよろこびと感じた
人は本来、喜びのうちに成長し、発達するように作られている。よろこび、楽しみ、これら生物学的衝動を知ろうとするなら、子どもたちが遊ぶときのはしゃぎまわるような、あの、純粋なよろこびを観察することだ。子どもは、自ずから楽しもうとし、その飽くなき能力をどこに潜めているかのように、まこと遊びにかけての能力において天才である。
また幼児は、かなり早い段階から微笑んだり、笑ったりしはじめるが、これは純粋に生理的、つまり、反射的であると考えられている。よろこぶから笑顔になり、笑顔とは笑った顔のこと。犬もよろこぶし、ネコもよろこぶし、ならば彼らは笑うのか?「犬が笑った」、「ネコが笑った」などの画像や動画の投稿をみるが、まこと確かに笑っているように見える。
「見える」であって、本当に笑っているという確信はもてない。「犬が笑うというのは本当なのか?」いろいろ当たってみたが、あくまでも判断による、主観によるというものらしい。ご機嫌な表情であるのは誰にもわかるが、人間のするところの「笑う」という定義でいうなら、犬は笑わない。ネコが喋るという人もいるが、それも同等の思い込みであろう。
喋るというのは、言葉を知ってるがゆえの行為だから、仮にネコがまんまといっても、その音を出せば飼い主が喜んで餌をくれるという、音に対する条件反射を学習したのであろう。もし、「ば~か」といっても餌はくれないが、「まんま」といえば餌をくれるなら、バカネコでないなら「まんま」というだろう。赤ちゃんが喋ったと喜ぶ親もいるが、アレも模倣である。
言葉は模倣で意味を覚えるが、模倣だけで意味を覚えないのがオウムや九官鳥である。こどもはどんどん言葉を覚えて成長していく。言葉を多く覚えるのが成長ではなく、成長するから言葉を多く覚えるのだ。この論理でいうと、知識をたくさん覚え、算数の問題をたくさん解くから賢いのではなく、賢い子であるがゆえに多くの知識を知り、勉強も得意となる。
これを勘違いして、せっせと知識をたくさん与えて、うちの子は賢いというのは、それを付け焼刃という。世の中には学問をやってもまったく意味のない人間もいる。学問は、それをするに相応しい人間の領域である。運動能力のない人間に無理やりスポーツをやらせることはしないが、バカに必死で勉強させようとする親が、バカなのだと思うが、どうだろうか。
どんなバカでもある程度仕込めば、ある程度にはなる。そのある程度になる事が昨今は必要のない時代になった。大学を出ただけで優秀と思われた30~40年前とは違うのだ。今の時代、少々の秀才は必要とされないのを知らない親は多い。少し前なら、大学は二極化と言われ、二極化の時代が長らく続いたが、いまは三極化の時代である。これからはさらにそうなるだろう。
三極化とは、①入るのが難しい大学、②一定の基準を満たせば入れる大学、③実質無試験で誰でも入れる大学ということ。全部の大学が試験を行う競争選抜制の時代はもうはや役割を終えた。早い段階に三極性に移行した方が、受験生の負担も少なくなるが、大学のエゴがそれを押し留めている。どの大学とていい学生を採りたいだろうから、自らは切り下げを提案しない。
大学三極化は、なし崩しで二極化を進むよりはるかにいい。なぜなら、中核の大学群は、資格選抜制によって一定の水準はキープされる。高校中退者にも門戸が開かれることとなる。受験のために即席の学力を予備校でつけ、レベルの高い大学に入る輩は少なくないのは、そういう大学に行けば将来が約束された感じを抱くからであろうが、そんなのはもはや幻想に近い。
ソニーやシャープなどの家電業界も苦境に喘ぎ人員を減らしだが、「良い大学を出た人は会社に残って下さい」などない。早期退職者は本人が希望すれば誰でもO.K、大学に有利・不利もない。シャープは9月末に3200人以上が希望退職したが、中でも若手社員の離職が止まらないという。会社に見切りをつけても辞められない中堅社員に比べて若手は身軽である。
勉学よりもコミュニケーション力やマネージメント力に長けたものが、ファーストリテイリングやダイソーなど有望企業で出世が見込める可能性が高いのでは?そういった資質は学問で身につくものではないし、勉強しか出来ない人間はそれこそ箸にも棒にもかからない。女遊びに長けた人間の方がずっと営業手腕を発揮する能力や洞察力を身につけていよう。
今後、大学は現実の社会ニーズに合わせたカリキュラム作りに精をだすであろう。企業と学生ニーズは一致をみるので、そのニーズに対応した大学は人気が出る。かつて日本の教育が求めたものは1億秀才社会だったのか。天才もバカもいなくていいが、みんなが秀才というラインを求めたのが日本型教育だった。賢い子は公立、バカは私立高校という時代もあった。
「うかうかしてたら県立高校入れないぞ!」という脅しも利く時代であったが、今はもうどこかの公立高校には必ず入れるし、むしろ私立に行く方が大変だったりする。だからか、秀才は相変わらず秀才であるが、だらけた子も増えた。勉強さえやっていれば何とかなるイメージはあったが、こんにちでは勉強しかできない子は東大出てもニートの可能性がある。
つまり、そこそこの秀才は必要とされない現代社会の反映である。少数の天才的秀才と、その他大勢はズルしない程度に働いてくれればいいという、そんな産業構造に進んでいる。中学、高校からセックス三昧の子も少なくなく、それは学校と家庭と規制や縛りが緩んだこともあるが、携帯や出会い系の社会情勢もあろう。いずれにしても難義な時代になったものよ。
中学生も高校生もオトナ顔負けの遊びをするなら、小学生くらいが本当の子どもに見えてしまうのも無理からぬこと。子どもたちを見て我が心が洗われるのは、真に小学生である。この子達の未来は分らないが、子どもたちの将来にもっとも大きな影響を及ぼすのは、何といっても親であろうか。親は大変なんだなと…、無垢な小学生を見ながら感じさせられた。
高2で自殺した野村陽子さんの死を予感する教師はいなかったろう。親も同様である。『あなたがこどもだったころ』(河合隼雄著:光村図書出版)に登場する10人の中の一人、元京大名誉教授日高敏隆の子ども時代の逸話がある。彼は小学生の校風が合わず登校拒否になる。懐にナイフをしのばせ自殺を考えていたという。そんな彼の親のところに学級担任が尋ねてくる。
担任教師は親と日高少年の前で、「君は自殺をしようと考えていないか?」と日高に言った。驚く親に担任は言った。「昆虫の勉強がしたい日高君に、軍国主義色が強い今の学校は彼にあいません。ぜひ、転校させてあげて下さい」。担任教師は転校先の校名をあげて親に進言した。日高少年はすぐに転校し、彼の個性は見事に開花、成長をしていった。
時代は違うが、軍国主義体制を美化する時代に、自殺を予見する担任教師の洞察は凄い。東大、京大に何人入学させるか、受験主義体制の有名高校も、「体制」という点に置いて変わらない。そんな中で、個々の個性を見極め、「君はここの学校には合わない。転校した方がいい」と生徒や親に進言する教師はいないな。なぜなら、彼ら自身が体制の犠牲者である。