最近、外を歩いていると子どもに視線が行く。特に小学生ばかりに目が行く。話しかけたりもするが、小学5~6年生ともなると妙に警戒されることが多いので、下手に話しかけられない。見ていて心が和むのは1年生~4年生くらいまでか。5、6年生はもうランドセルが似合わないし、身長の高い子にランドセルは物理的にいっても酷だし、視覚的に見てもオカシイ。
以前は女性に視線がいったが、最近はもっぱら小学生だ。中学生も子どもであるが、天真爛漫さにおいては子どもとは言い難い。彼らはもはや思春期であり、近年の中学生は食い物のせいか、社会・風俗の変化なのか、近寄りがたい子どもであるが、小学生はいかにも子どもだ。「ボクは3年生だろ?」、「キミは4年生かい?」とすれ違いさま、追い越し時に声をかける。
大きなランドセルと三頭身の身体がアンバランスでかわいい。「未完成」の美しさともいえる。前を急ぎ足で進む少女がいた。1~2年生というところだが、懸命にピッチをあげて歩いている。が、大人が追いつくのは訳ない。追いついて少女に言った。「歩くの速いね、どっちが速いか競争しよ」、「いいよ、どこまで?」、「お嬢ちゃんが曲がるところまで…」
少女はさらにピッチを上げる。自分も歩幅を狭くして、「速いね~、負けそうだ」と言いながら。間もなく少女は左折する。「速かったね~、じゃバイバイ」といってお別れした。子どもは見ているだけで癒されるが、一緒に遊ぶとさらなる楽しさを味わう。ある日、2人連れの少女に話しかけたときに、明るく受け答えする子と、方や警戒心が滲み出た子であった。
明るく気さくな子と話していると、もう一人の少女がその子に耳打ちした。その様子をみて自分は、「バイバイ」とスタスタ少女から去った。おそらく、「知らない人と話しちゃダメ」と耳打ちしたのだと感じた。その子も家でそういう風に言われて大きくなったのだろうし、明るく屈託のない子は、のびのびと育ったのだろうし、少女の対比を感じながら二人の背後にそれぞれの家庭を見た。
昔こういう事があった。次女が3年生のときに暮らすのSちゃんと仲良しになった。次女はSちゃん宅に遊びに行くが、Sちゃんはこちらの家には来ない。理由を聞くと、線路より向こうには遊びに行かないようにと言われているらしい。確かに、遮断機のない警報機付き踏み切りを横切ることになるが、こちらがSちゃんの家に行く場合も同じところを通るわけだ。
「ずいぶん、お堅い親だな」と感じた。そんな発想は自分にはなかったし、警報機もあれば、そこは上り下りは直線で4~500mは見通しのよい踏み切りである。そこまで注意を喚起する親もいるのに驚いた。と、いえば聞こえはいいが実は嘘で、ホンネは「バカじゃなかろか」であった。その家庭にとってはちゃんとした理由のある決まりなのだろうし、それも決まりだ。
決まりというのはその家庭の親が決めるものだから、その家庭で稼動するばいいものだが、現実的に考えると家の決まりも学校の校則もオカシなものは多い。注意を喚起するのは悪いことではないが、本当に危険性があって喚起すべきものと、まったくそれに合致しないものとがある。そういう比較・検討もなされず一律に、「線路を越えてはいけない」ってどうだろ?
他の家庭の決まりに文句を言うとかではなく、親のキャパシティについて述べている。確かに心配性という親はいる。「何でそんなことまで心配するのだろう?」と思っても、心配性な親にとっては普通なのだ。どっちがオカシイかを比較検討して答を出すではなく、心配性の親を持つ子はどんな風に育つのか?そんな風に思ってしまう。心配するのはいいが、心配性はダメだろ。
心配性がさらに「心配症」にまで進むと気持ち悪い。ところが、「性」に「症」、いずれの親も普通と思っているからどうにもならない。近年の脆弱な子どもは、心配症の親が原因なのではないかと感じている。何事も「過剰」はよくないが、繰り返すなら「過剰」を「過剰」と思わないそこが問題だ。こんな親の言い分を読むと頭が変になりそうになる。
「家庭の躾けは厳しくやらねばなりません。子どもはやさしくするとつけ上がりますから、ビシビシと親の都合を強制すべきです。どんな立派な理由付けがあっても、所詮は親のエゴ、世間体でしょうから。私は家事が嫌いなんです。だから子どもが小さい頃からこき使いました。女の子、男の子の区別はしません。二人しかいないし、娘だけでは足りないので息子も使っただけの話。
夜だって毎晩というわけではないけど、子どもが食事を作れるように教え込んだことで、遊んで帰れます。「男女平等」ですから夫だけ遊んでいいわけないし。だから、子どもの躾けも兼ねて夕食作りをサボるんです。躾け、教育って子どものためでしょう?他人への挨拶、家の電話の応対、言葉使いも厳しくいいました。私が笑われないよう、ちゃんと躾をしているよう思われたいし。
ウルセエ、クソババア、なんて人の前ではいわないよう、言うなら家の中でと。塾なんかお金が勿体ないので行かせないし、子どもが分らないならちゃんと教えるよう教師に言いまくりました。それでも勉強ができなかったのは教師のせいだからかまわないですが、自分の考えをハッキリ言わない子だとバカだと思われるのは、私が困るので誰の前でも自己主張するように躾ました。
家庭の躾がなってない問題家庭とアレコレいわれますが、家庭の躾がなぜできないのか?それは私のように徹底して勝手な親になれないからでしょう。自分の子どもに限らず、自分だけが快適ならいい。躾や教育とは、自分の思うように他者を従える強者の論理であるとの、おぞましい面を自覚しないと、正義ヅラした親や教師は、子どもの生気を抜きとってしまうんですよ。」
読んで気分が悪くなろうがどうであろうが、親がこの方法で成功したかどうか。最後の数行、「躾や教育とは、自分の思うように他者を従える強者の論理であるとのおぞましい面を自覚しないと…」、これは野球監督でいえば星野仙一方式。その善悪よりも、そうしか出来ない人間の言い分だから、それを以て「躾や教育とは」とせず、「自分は」と主語を変えるべきだ。
躾や教育とは自分の思い通りに他者を従えることではないのよ。軍隊と間違ってるんじゃないのか?こんな能ナシの言い草は…。「教育」が学問重視の時代以前からあったわけだし、それがいつの間に「教育」が学問重視の世の中になった。最近話題の超英才教育ママが、息子3人をいずれも灘高から東大理Ⅲ(医学部)に合格させたと、本まで出版して自慢している。
凄い、羨ましいという人にとっては自慢になろうが、『週刊朝日』9月18日号に掲載された精神科医・和田秀樹氏との教育対談での発言に、「東大生でもマザコンは嫌だ」、「(息子は)大人になって女で失敗する」などと批判が殺到している、"カリスマお受験ママ"こと佐藤亮子さんが、『週刊文春』の取材に120分にわたって反論を述べているが、興味がない。
ただ、息子たちが次のような声をあげて母親を庇っている。「ネットでは僕達がまるで操り人形であるかのように思われていますが、心外です。恋愛についても色々言われているようですが、ちゃんと彼女もいるんです」などと…。息子3人に恋愛を禁じて灘高⇒東大理Ⅲに入れたなどと、得意満面本まで書いたことで騒がれているのであり、黙っていれば何もない。
憶測が事実であるかではなく、憶測は憶測であって、その憶測は母親がもたらせたもの。息子が心外と言うのもいいが、母親にも、「何で本を書いたんだ?外野がうるさくてやってられん」というべきであろう。火のなきところに煙は立たない。どんな憶測にせよ、公言し、書籍で儲けた代償だから、「受験に恋愛は無駄です」などの一連の信念批判は、書き手として受け止めるしかない。
3人の息子が親のロボットであったかどうかは、これから先に分かる事。彼らは今の段階ではいわゆる勝ち組になるんだろう。1988年10月25日早朝、一人の少女が自宅マンションの6階から宙に舞った。遺書がある事で自殺と判明した。少女は愛知県立旭丘高校2年の野村陽子(当時16歳)さんで、自殺の理由は、学校からの単位不認定通知書であったと親はいう。
旭丘高校は、2016年度愛知県高校偏差値ランキングでも東海高校(私立)に次いで第2位の超難関高。陽子さんの遺書には、「葬式やらないで」とあったという。名だたる進学校に籍を置きながらも、「何のために学校にいくの」、「物理や古文の勉強して何の役に立つの」などの人生不可解をしばしば口にしていた。30年も前のこと故に、地元の人さえ記憶の隅に消えている。
名古屋市東区に住む父野村勝さん、綾子さん夫婦は陽子さんの死後、「勉強ばかり詰め込む今の学校教育の中に、青年期の悩みや生き方に対する疑問に答え、受け止めてくれる体制がなかったのか」との問題提起を含む告発手記をまとめ、関係者350人に発送したという。一人の少女の自殺が難関進学校の体制に影響を及ぼすものではないが、親の気持ちであろう。
もちろん、旭丘高校に法的な責任は問えない。道義的な責任が問えるかといっても、進学校というのは高い意欲を持って勉学に励むところだから、そこで落ちこぼれた責任は本人にあって学校にはない。彼女の自殺は、自尊心の逃げ場がなかったと見受けられる。もっと楽にやっていける他の高校への転校という選択は、死よりも苦しかったのではないか。
偏差値レースから落ちこぼれる生徒はどこの高校にもいるし、そういう時に上記の選択肢を取れないのは本人と家族の問題である。他の受け皿を拒んだ彼女は死を選んだ。学校から成績と授業時間数の不認定の憂える通知書が親元に届いた時、父は娘に説明を求めた。陽子さんは「自分でちゃんとするからいい」と答えたが翌日親に無断で学校を欠席した。
偏差値70越えの高校に入学するような子は、小学・中学を通して全校でもトップクラスで、高校入学が決まった時点で将来は決まったようなもの。それが高校に入って成績が下降する理由は、つまるところ本人のやる気が削がれたこと。親は学校に疑問や悩みに答える体制が必要だったというが、それ以上に家庭が彼女を追い込んだのではなかろうか。
陽子さんの両親は、「娘は教育に殺された」というが、それは違う。成績が下降した時に親が子どもにどういう態度で接するかで、子どもはまるで違ってくる。県内はおろか、全国でも名だたるこの手の難関校は、強制的に勉強をさせるところであり、成績が下降して苦しむ我が子を追い詰める責任は学校にはなく、家庭の問題だ。本人以上に旭丘に拘ったのは親なのでは?
「陽子ちゃん、学校の勉強が大変みたいなら、もっと楽に過ごせる高校に転校したらいいんじゃないか?」。このような言葉を投げかけることも出来なかった親に、彼女の自殺の責任の大半があると自分は感じている。もっとも、こんなことは親が一番分かっていることだろうけど…。「親の心、子知らず、子の心、親知らず」というが、親の心は子どもには判っている。
むしろ親が子どもの心を分かっていないもの。いや、知ろうとしない親が多すぎる。何でも命令すればいいくらいに思っている親は多い。「成績が下がったなら勉強しろよ、遊んでるんじゃないのか?」これが普通の親だ。毎日毎日口癖のように「勉強しろ」という親に、子どもの心がどうして分かる?小学生低学年の子どもには、そんな呪縛に取り付かれた顔がない。
勉学に限らず、スポーツクラブでも、ピアノ教室でも、練習が厳しいから自分には向かないと脱落する子どもはさっさと止めるだろう。そこに向けて文句を言う親っているのか?そんなことをする前に、厳しくてもそこで頑張ろうとする子どももいる訳だから、それを考えると文句をいうのはお門違い。さっさと止めればいい。厳しいことは問題ではないのよ。
陽子さんも、両親も旭丘高校は選択ミスだったと断じて、次なる対策を取れなかったことが、彼女を追い詰め、孤立させたと考える。子どもの真の理解者は親であり、子どものすべての責任も親が負うわけだが、進学校に「勉強させすぎ」と文句を言っても、他の保護者や生徒からは理解を得れないだろう。親の慟哭は分かるが、親が受け止めるべきであった。
様々な苦悩を抱く思春期の子どもに比べ、小学生はピュアであることが人としてとても美しい。美しいというのは自分の感じ方である。子どもは真にこのようであるべきかなと思いながら眺めている。やがて訪れる思春期を前に、親が子どもに何を準備させたかである。強くくじけぬものを用意させたか、可愛いだけでわがままし放題にそだてたか。
我がままは厳しい社会にあっては弱さでしかない。厳しい社会にあって誰が子どもを追い込むのか?「それは親だ!」と自覚することだ。そうすれば見えてくるものがある。すべては親の責任だと思うことでしか見えないものもある。子どもの中の見えないものを見ようとするのが、親の最大の務めではないかと。子どもの心を自由に解き放つために…