「人間なんて呼吸をしているだけで奇蹟。それ以外はオマケみたいなもの」と言った人がいた。人間が背負う「業」の重さ、欲の深さをいってるのだろうが、「業」の払拭に何が災いし、何が問題かを考えれば、「呼吸だけで奇蹟」なんて言い方はなされない。アレもコレもと重い荷物を背負えば立てないように、身軽になることですっきり立ち、軽快に歩きたいが、「それができない」と嘆く奴はいる。
解決する気がないなら仕方がない。溜め込んだ物で溢れて部屋が片付かないなら、さっさと捨てれば綺麗になるが捨てられない。そういう人が、「部屋が片付かない」と口に出すのがおかしい。解決法が分かっているのにそれをせず愚痴を言う。『青春論』の記事で述べたが、若さとは心の中に魔物を同居させている。叶わぬ欲望を抱き、叶えた人間に嫉妬する。
受験に失敗すれば成功した人間を恨む。失恋すればラブラブの恋人たちを妬む。貧乏家庭に生を受けたものは金持ちを呪う、もしくは極貧をあげつらう。不美人は美人に嫉妬する。「嫉妬!」、この尋常ならざる心といかに付き合うべきなのか?『旧約聖書』によれば、最初の人間アダムとイブの間の子どものうち兄のカインは、弟のアベルに嫉妬して殺してしまう。
モーゼがシナイ山の上でイスラエルの神ヤァウェから告げられた『十戒』の第二条には、「偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから」とある。創造主である神様が嫉妬深いなら、人間が嫉妬するのは当たり前か。 人間の歴史を見ても、王や君主が優秀な家臣や親族を妬み、また家臣や親族が王や君主を妬んで、追放や殺戮の例は多く、小説・童話の世界にも描かれている。
オセロは妻に嫉妬の妄想を膨らませた挙句に殺害してしまう。白雪姫に嫉妬した継母は、毒リンゴで娘の殺害をたくらむ。こうして見てみると、嫉妬という感情には、相手を抹殺するほどの強い攻撃性が秘められている。嫉妬とは、自我の安定を乱す他者を亡き者にしたい、追っ払いたい、引きずり降ろしたい、そうすることによって自我の安定を回復したいという衝動であるといえる。
自我とは、幼少時期から親、教師、友人など身近にいる人たちの眼差しを受け、試行錯誤しながら築き上げた自分らしさで、自身の行動基準として働く。自我とは、「自分は価値ある存在」という自尊心に支えられている。その自我を脅かし、傷つけるものが周囲に現れる。自分より優れ、自分より価値があると映る他者の存在である。すると人間は、自尊心を守とうと躍起になる。
揺さぶられ、不安定になった自我の安定を回復するためには、この邪魔者どもを自分より下に引きずり降ろしたい衝動に駆られるが、それが嫉妬という衝動であろう。 なんとも嫉妬はウジウジした無力な憎悪であろうか。相手に嫉妬しているにも関わらず、「嫉妬なんかしていない」と自分を誤魔化す人間は多い。なぜなら、嫉妬を認めることは、自分の劣等性や敗北を認めることだからである。
明らかに嫉妬しているのに、プライドの高い人間は嫉妬を認めたくない。「あんな程度の奴に嫉妬なんかするはずない」と人に言い、自らにも思い聞かせようとする。確かに嫉妬は見苦しいが、それを隠そうと躍起になる感情は憐れである。どのように取り繕うとも誤魔化せるものではないし、言葉の端々に現れるものだが、隠そうとする人間には気づかない。
「お前、嫉妬してるんだろ?」と言ってみる。その際、人が己の心を隠すのは、実に難しいものだと分かる。自分よりも上格上と認めざるを得ず、ならば尊敬すべき対象であるべく相手を、自尊心が拒否する。自分と違う能力をもっている相手を認められないほどに、自分の有能性を認めようとする人間は、実は愚かな人間でしかないが、その愚かさを認めたくない。
認めることで己の自尊心が失われる、その程度の「能力」の持ち主である。「金持ち喧嘩せず」とは、真のお金持ちは人にお金のある事を見せびらかせたりはしないもの。学者は専門分野に長けているから学者で、自分にない能力をもった数多の凡人に対し、それを認めたくない学者は、「学者バカ」にもなりきれない「似非学者」。学者は「学者バカ」であるから有能である。
「学者バカ」は学者の誇りであり、似非学者とは一線を画す。たかだか自費出版で書いた一冊の著書を後生大事にする学者はそれですべてが終っている。社会的影響力のある学者には執筆依頼が絶えず、自称学者の高慢な態度には、「悲哀」の文字が相応しい。我々は何かを信じなければ生きてはいけないが、何かを信じる対象が宗教であったりする。
あるいは学者であったりする。芸術家の場合もある。親、教師であったり、友人である事もある。どういう対象でも裏切られることはあるが、言われた言葉がウソであった時に対象を責める。ましてやウソばかりであったなら、その対象を信じなくなる。自分が最初に、「もう、何事も信じない!」と断をくだしたのが母親。次に教師全般であった。全般だから特定の教師ではない。
彼らは取ってつけた綺麗ごとしか言わない人種と判断した。次に学者である。こちらは学者全般というより、特定の学者、もしくは学者気取りに騙されたということ。「富士山大噴火」、「地球温暖化」、「公害問題」、「原発は安全」、「食品の安全」、「経済の動向」、「教育問題」、つい先日、世間を大騒ぎさせた「STAP細胞」…。まこと学者のウソは少なくない。
世間を騒がせた『買ってはいけない』本は、『「買ってはいけない」は買ってはいけない』となり、『「買ってはいけない」は嘘である」』に落ち着いた。コレに類似する書籍として、『99.9%は仮説』(竹内薫著)、『「あたりまえ」を疑う社会学』などがある。10億円以上を売り上げたとされる、『バカの壁』は酷評されても出版不況下、人気ある著述家の本は売れる昨今だ。
昨今は、年間六万点以上の新刊が出る時代にあるが、本は出ようともそれらは玉石混交であって石も混じっている。石ばかりが多くなると玉は見えにくくなる。買って失望する読者もいるが、石を玉と信ずる読者も少なくない。養老氏のように、東大名誉教授という肩書きと、一流出版社の権威と信用で売り飛ばして利益を得たといわれる『バカの壁』。
この本からの引用は、当ブログで一行足りとない。理由は養老氏の、「常識とは異なる解や見方を提供する」その姿勢に異論はないが、解釈や論理展開がお粗末過ぎて説得力に欠ける。常識とはかけ離れた言葉の定義、針小棒大な解釈、それに加えて解読の困難な文章で誤魔化すなど、権威者が斯くも杜撰なら、好き勝手に書く自分らバカに罪はない。
権威者が権威書きすれば自ずと権威になるが、バカが権威書きしてもバカはバカで利益も得てない、権威と信用を失墜させることもない。養老氏は、「柳の下にドジョウ」と味をしめてか同種本を次々出すが、権威者がバカを誤魔化すロジックの多用に腹が立つ。「お金持ち喧嘩せず」の立場には、サイレント・マイノリティを貫くしかないが、養老氏への嫉妬にあらず。
東京大学名誉教授という彼の権威は動かないが、学歴エリートに騙されないことは可能。彼らに共通する利己主義が、実質的に社会の標準的な規範となっている以上、学者や学歴エリートの規範を超える行動は土台無理。ならば騙されない方法として、一見利己的に見えない彼らの言動を懐疑する。あたかも社会正義の理念に基づいた発言と思っている学者は多い。
彼らのロジックの共通点として、目的に関する議論と手段に関する議論を意図的に混同させる、そういう戦略をとる。養老氏などはタバコの害についてもそうであるように、公にすると批判を受けるであろう利己的な、「隠れ目的」なるものを必ず内部に秘めていて、その手段を社会的に認めさせるために、誰もが納得するであろう「理念」を立てる、もしくは内に隠しもっている。
科学分野の研究者なら、その「隠れ目的」なるものは、自らの知的好奇心の満足であるが、そういう名目で研究予算の獲得はできない。そこで、社会に役に立つという「理念」を持ち出し、自らの研究がそれらの有望な手段であるとアプローチをする。批判者に対しては学問の勝ちも分からぬ者と見下す。この手の学者というのは結構いる。彼らは「進歩的文化人」の自負をもつ。
由緒ある学者は世のために働けばいいし、妄信することもなければ憎むこともないが、エリートに劣等感をもつ人は少なくない。劣等感は憎しみに移行する。相手を憎みながら、なお憎んでいることは、自分が劣者であることを示すゆえに、憎しみを否認しなければならない。このように嫉妬は複雑な感情だが、恥も見栄もなくストレートな嫉妬感情を現す人もいる。
精神科医で国際医療福祉大学大学院教授の和田秀樹氏は、嫉妬感情には、「ジェラシー型嫉妬」と「エンビー型嫉妬」の2種類を指摘する。「ジェラシー型嫉妬」とは、学校や職場などの現実社会において、「あの人ようになりたい」、「あいつには負けたくない」という具合に、目標相手をライバルとして定め、"自分の実力を伸ばすことで勝ち抜こう"という、ポジティブな嫉妬を言う。
「エンビー型嫉妬」とは、嫉妬の対象となっている相手をただ羨むだけで、自らの実力を伸ばそうとはせず、代わりに足を引っ張ったり、悪口を言ったりすることで相手を貶め、相対的に自らの立場を上にしようという、ネガティブな志向の嫉妬をいう。嫉妬も用い方、生かし方では自己にプラスになる場合もあるが、自己愛が満たされないと、「エンビー型嫉妬」が持ち上がる。
人間の一生というのは、幼児期における同性の親への嫉妬(エディプス・コンプレックス)に始まり、兄弟・姉妹への嫉妬、友人への嫉妬、同僚への嫉妬、恋人や配偶者への嫉妬など、まさに嫉妬のオンパレードであり、人間の歴史は嫉妬の歴史ともいえなくない。これは人間が人に愛されたい、人から認められることを求めるあまり、密かに孤軍奮闘し、傷ついた自我の歴史でもある。
「青春期は魔物が同居する」としたが、嫉妬は青春期に限定しない。人間は「四十で不惑」、「六十で耳順」と孔子はいう。「耳順(じじゅん)」とは、修養ますます進み、聞く所、理に適えば、何らの障害なく理解しうるとの意。つまり、理に適わぬことはしないと言の域に達した年齢にある。これらはあくまで理想であって、ともすれば人間は人を殺めるほどの強い嫉妬感情を抑えられなくなる。
物事を思考し、答を出すための基準として「理」を重視する。「理」とは「道理」である。「道理」とは、物事の正しい筋道だが、そんなことを考えるようになったのはいつごろからだろうか?道理を物事の価値基準とするためには、道理が分かっていなければならず、長い人生体験からそれが見えてきたからかも知れないが、見えてきた=出来ているではない。宗教の教義が規範となる人もいる。
思想家の主義・思想を規範とする人もいる。世の「道理」といっても一つではないが、道理をいえば、「お前がそれを出来ているのか?」といわれることもある。幼児期から目指して生きてきたわけでもないから、身についていない道理は多い。道理を言って反発する人間は、道理以外の価値基準を持っているのだろうか。好き嫌いを規範にする者は多く、彼らは個々の嗜好が道理のようだ。
好き嫌いを価値基準とする人間に道理は伝わらない。また道理を規則や法や慣習と勘違いする者もいる。「規則」や「法」は人間の決めた社会道徳であって、道理とは別である。その辺りは複雑な点もある。ならば、守るべきは「法」か「道理」か、それも場合によってで決められない。「法」を無視しても「道理」を守らなければならないこともあり、「道理」は捨てて「法」に従うべきことも多い。
先日、映画『網走番外地』(1965年:東映)第一作を観た。自分の青春期にシリーズとして人気を博し、何作も作られた。健さん(高倉健)主演の作品だが、劇中小学生の真一(高倉健)と幼い妹を持った母が、食うために飲んだくれ男と再婚するが、地獄の日々であった。足蹴りにされる母に、真一は「ここを捨てて出よう!」というが、女手一人で2人の子を食べさせられない母は、自らに我慢を言い聞かす。
ある日の食事時、妹のご飯のおかわりに父が皮肉を言う。「仕事は半人前で、飯だけは三人前か!」、妹は食べるのを止めたが、真一は「遠慮しないで食えよ」といった。真一の態度を腹に据えかねた父は、真一に味噌汁をぶっ掛けると、真一は父に突っ掛かる。その場面を観ながら、こういう場合に子どもが親を殺めることになってたとしても過失であって、罪の情状は大いにされるべきである。
頭に血が昇ると見境がつかなくなるヒステリー実母を思い出す。人間が「罪」という敷居をまたぐとき、本当に「罪」なのかという疑念。敷居をまたぐとは日常言葉だから、考えることなく暮らしているが、踏み越えなければならないときもある。凡人と非凡人が居るとする。凡人とは平凡な人間だから、服従を旨として生きねばならない。法を踏み越える権利ももたない。ところが、非凡人はどうか?
非凡人は非凡人であるがゆえに、あらゆる犯罪を行い、勝手に法を踰(こ)える権利を持っている者をいう。真一が父に食ってかかり、床に押さえつけた父親の口にご飯をこれでもか、と押し込んだ彼は、何をされても権威・権力には黙って従う凡人に比べて、非凡人である。したがって彼がそこで父親を刺し殺すのも彼の権利であった。それは、非凡人の彼にとっての当然の権利である。
その意味で自分は非凡人ではなかったが、親に反抗する非凡人というのは、当然の権利としてそれをやる。その事について「親不孝」だの、「ドラ息子」だの、ありとあらゆる汚名を吐かれるが、そんな言葉に屈して凡人として大人しくできるはずがない。親ともいえない親にイビられて自我崩壊と戦い、親を殺めた少年や少女に理解を持つ。彼らは過ちを犯したが、真に人間であったと。
「何も殺さずとも…」と部外者は言う。が、彼らにすれば殺すしかなく、できれば跡形もなく焼却したい気持ちであろう。「何も殺さなくとも…」などは、それくらいの恐怖に怯えるのを知らない人間の戯言だ。親を殺すのは、罪にも勝る安寧であり、傷をつけただけなら、後に回復したとき仕打ちの怖さ、睨まれる恐怖である。「人間なんて呼吸をしているだけで奇蹟」も納得する。