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『中年論』 ⑥

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中年期は仕事や生活の大きな転換期、そんな中で強い不安に襲われる。不安はこころの危険サインといわれ、意識の底には葛藤が隠れている。これらの不安は、些細なことに心配で仕方のない「精神不安」と、動悸や冷汗などを伴う「身体不安」に分けられる。後者の身体症状は自律神経の興奮によるもので、狭心症や胃腸疾患などの身体疾患と思い込む場合もある。

また、不安には別の分類もあり、不安が発作のように襲う「不安発作」と、多少の波はあっても四六時中不安の続く「全般性(または浮動性)不安」がある。前者は「パニック障害」と呼ばれている。不安発作中には先の自律神経症状が嵐の如く起こり、ついには「死ぬのではないか」、「発狂するのではないか」という恐怖に襲われ、救急外来に飛び込むことにもなる。

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検査結果において異常は認められないものの、不安発作が怖くて家から外出できなくなる人もいる。確かに中年期は、身体的、社会的、家庭的、心理的に変化の多い時期であり、また、安定と不安定、若さと老い、獲得と喪失が共存する時期である。さらには、今まで積み重ねてきたものを問い直し、時には人生の危機に直面する時期でもある。これらが不安の温床となる。

これまで中年期は、老いと死に向かって衰えていく時期と否定的に捉えられていた。ところが人生80年となった昨今、人生は一つの大きな山ではなく、青年期から中年期の第一の山と、中年期から老年期の第二の山という風に捉えられ、中年期は第一の山の尾根であると同時に、第二の山の出発点との言い方もなされれている。女性にあっては更年期障害の問題もある。

更年期は卵巣の働きが衰え、ホルモンのバランスが崩れやすくなる時期で、50歳前後に迎える閉経から、安定する55歳頃までの期間をいう。25%の人は何の変調もなく過ごし、50%の人は軽い心身の変調を自覚するが、日常生活に差し支えるものではない。が、25%の人が更年期障害といわれる不快症状に悩まされ、家庭や職場でのストレスは自律神経に影響し、更年期症状を重くする。

更年期障害といえば女性の悩み、とされたのは過去のこと。男にも男性ホルモン低下による更年期障害はある。女性ほどの自覚はないにしても、「男性更年期障害」が広く認知されつつあることから、「自分もそうではないか?」と診察を求める人は少なくないという。「最近、パワー不足でね…」などが予兆であるように、男の悩みはED(勃起障害)であることが多い。

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できなきゃしなければいいと思うが、「三十させごろ、四十し盛り、五十ござ破り、六十濡れずとも…」と形容される女が御前にてせがむなら、充て木を添えておっ立てる。という奇特な御仁もいるのかどうか。これに加えて、「七十泣きのせがみ婆、八十這い婆の詩」(共に自作)と、長生きは男の地獄か。もあれば、「夫と一緒にいるのも嫌」という産後クライシスもある。

「夫は性欲の塊」として、夫に嫌悪感を抱き、性生活など考えられなくなる。女性の出産後に訪れることのある夫婦の危機であり、一定期を過ぎれば元に戻るケースも多いが、深刻なケースでは妻がセックスを拒否し続けて離婚につながる場合もある。このように産後豹変する妻たちを、我がまま・自己中というのか、嫌がる妻に強要する夫が自己中・我がままなのか?

「夫に子育ての相談をしても無関心。私が仕事から帰った後も育児や家事でへとへとなのに、求めてくる夫が性欲の塊のように思える。2人目が欲しいけど、これでは作れない」。夫が一方的に悪いわけでもない、妻が悪いわけでもない、だから折り合いをつけるのが難しい。妻の変化にショックを受けた夫が、寂しさから浮気に走ることもあれば、反対もある。

何にしても性生活の不一致が離婚の大きな原因であるのは、古今も、洋の東西も、変わらぬ男女の大きな問題であろう。中年が抱える大きな問題であり、単純であるが解決が難しい問題と言える。「そんなにしたいならソープでも行ったら?」などと平然という妻の言動が浮気の引き金になったという夫は多い。やる気をなくした夫の自尊心は、妻に触れることに嫌悪感を抱く。

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「母になって妻を捨てた」という妻がいる。その一言がどれだけ夫のやる気をなくするか、口に出さず黙っていても、態度が歴然であるなら口に出したも同じである。「育児を手伝ってくれない」、「子育てに関心が無い」という言葉を妻は夫に向けるが、その前に、「夫に無関心になったのはお前だろう?」という言い分が夫にある。妻の多くはそれに気づいてない。

妻を捨てて母だけになった元妻は、なのに夫に父を求めるが、夫には上記の腹に据えかねた言い分があり、それを口にしない夫は多い。目には目を、態度には態度で、示す男のプライドを理解しない妻。夫は益々子育てに無関心になって行くのは、結局男の意地であろう。夫も悪いが妻も悪い。どちらも後先ないが、夫には「お前が先に…」との言い分があるのだろう。

バラバラ家族があった。商社マンの夫は倒産寸前の状況下、東南アジアから風俗嬢輸入の仕事を秘密にし、妻は不倫、姉は白人留学生にレイプされていた。心やさしい弟にも公言しづらい秘密があったが、大学受験を控えたさ中、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことになる。山田太一脚本によるテレビドラマ史に残る名作、『岸辺のアルバム』である。


ホームドラマ全盛の時代に、「衝撃の家庭ドラマ」と銘打つほどに、「家庭とは何?」、「親子の関係はどうあるべき?」の普遍的な命題に正面から取り組んでいる。激情的な人間模様、生臭い話やどろどろした性の問題を内包する作品だが、圧巻は、自分たちの住む家が堤防決壊して流されている様子を眺め、それぞれが個々のことを水に流し、家族の愛を確かめ合う。

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このドラマの凄さは、正義感に満ち溢れた純真な性格の息子が、家族の秘密と欺瞞をブチ明けるところにある。すべてを露にし、さてそれから当事者たちがどのような省察をし、どのような新たな生き方をして行くかにある。真実と言うのは恐ろしいものである。真実をバラす方も、バラされる側も傷つく。傷つかないような真実など、お茶を濁す程度の真実であろう。

真実を突きつけられた家族がまとまったのは、確かにマイホームが流されて裸一貫になった事もあろうが、妻である八千草薫が自分の、夫の、娘の、息子の言い分や思いをすべて一心に受け止めたことであろう。真の省察とは、反省とは、こういうものであり、再生に向けた心の建て直しである。自身の罪、夫のプライド、娘の悲哀、息子の正義、それらすべてを受け止めた。

息子の告発は欺瞞家族が許せないと言う純真なものだが、家族を傷つけることで自らも傷ついた。だから大学受験を止めて、家を出て明日から仕事をしながら一人で生きてくと宣言した。ここの場面には彼が都合のいい甘えん坊から自立の勢いをみる。「食わせてもらってて、言いたいことはいえない」この言葉に道理を感じるし、甘えからの脱却が感じられる。

もし子どもが、親の意向にそったように生きていればいいとの考えなら、親がそのように教育したのだろう。親の意向に反して生きていくなら、小言を言われないためにも親から離れての自活がいい。親権の有する期間内なら、どのように親に反抗しようが、親は親権放棄はできないし、可愛くない子どもであっても受け止めなければならない、それが親というものだ。


親のいう事を聞かないからと、露骨に皮肉ったり、憎んだりはあまりにもである。「食わせてやってる」だの、「育ててやった」だのと、卑怯な言い方をする親もいたり、何と言うバカ親であろう。なんとしても子を思い通りに支配しようとする親なら、反抗するしか自我形成はできない。子どもの心に傷を残す言動の親は多く、それに負けてしまっては生の実在感を望めない。

といいつつも、トラウマやパニック障害に侵される子どもは多い。やはり子は親の被害者となる。親が子の被害者というのも一見み受けられるが、それらは幼少期から甘やかせるなり、対応を誤った代償であろう。親子の主導権が逆転するなど普通はあり得ないが、それも含めて中年期の苦悩と言えるかもしれない。本来なら起こる筈のない苦悩が、間違った子育てで発生する。

昔の子どもに比べて現代の子どもはしたたかである。理由はいろいろあるが、親の権威、教師の権威がなくなったこと、近所にいた怖いオジサンがいなくなった事も理由にあがる。これを社会学的に「家庭・学校・地域社会」力の崩壊という。こんなことは言われ始めて数十年になる。地元の広島市が『家庭・学校・地域社会が連携した取り組みの推進』というのをやっている。

どこの自治体でも同じようなことがなされているが、内容は、(1) 非行防止活動(環境点検・補導活動)、(2) 電子メディアと子どもたちとの健全な関係づくりの推進事業の二点で、(1) は、各地区の青少年指導員(平成25年4月1日現在、約800名)が地域の実状に応じて、自主的計画により地域内を巡回し、問題行為少年の早期発見、早期指導に努めるとともに、地域環境の点検・浄化活動を行う。

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(2) 青少年を取り巻く電子メディア環境において、「青少年の健全な成長に寄与することができるフィルタリング機能に係る基準」(平成25年8月1日に改正)に基づき、保護者、学校等、市民、事業者が一体となった取組を推進している。と、こちらは掛け声だけで具体的な方策はない。いずれも後手の対応とあっては、教育の理想(後手の対策に終始しない)には程遠い。

行政の生ぬるさは否めないが、こんにちの社会環境にあっては、これが現実であろう。昭和55年に起こった「川崎・浪人生金属バット親殺し事件」に激震が走った。あれから35年、子どもが平気で親を殺す事件は珍しくない。少年や青年による父親殺し、母親殺しにはいつも考えさせられるが、本当の理由は他人にも本人にもよく分らないのではないのではないか。

真実や理由はさて置き、自分の親に不満のない子と、いささか不満のある子と、どちらが多い?データはないが、なくとも後者であろう。至れり尽くせりの親であっても、それならさらに尽くせとの不満は生まれる。感謝はあろうが不満がゼロということはない。そういう時に人間は、感謝と不満を相殺するよう自らに働きかける。が、不満ばかりだと爆発するのだろう。   

「子どものことで悩み尽きない」という親は多い。悩みとは問題が解決できないこと。だったら解決するしかないが、それができなくて困っている。自分の子を意のままにできないというより、してはならないが、距離をおけば解決することもある。解決できない多くは、距離を詰めすぎる場合が多い。「あんたバカだね~、親の顔が見たい」と子どもに言ってやれ。

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親に責められた子どもは、親をあげつらうことで自尊心を癒す。どうせ言ったところで早晩直るものではないし、ならば子どものする事・成す事にいちいち干渉するのは止め、尖った物言いもせず、従来の親からキャラ変するのもオトナの対応か。子どももバカだが、同じように自分もバカだったなと、かつてを思い出せば親ヅラも控えられるかも知れない。

『中年論』の大半を「親」の問題に凝縮したのは、仕事の種類や生き方の指針といえども、状況はそれぞれだが、家庭問題は何はさて共通の問題である。中年で家庭を持たぬものもないではないが、ともかく所帯をもって子を育てるのは、人間の普遍的な営みである。よって、夫婦や親子の問題は、中年の親たちが背負うもっとも大きな課題であり、苦悩ではないだろうか。

簡単に、安易に予測したり、コントロールしたりできないものであるのを、子どもたちの中に認め、尊重することこそ上に挙げた、「親たちに与えられた課題」であろう。尊重されれば人間は嬉しいものだが、親の側にその想像力が欠けていることが多い。そこをおざなりにして、躾だの教育だの疑問である。子どもの起こす問題は、親への警告かも知れない。


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