『中年論』という表題で何を書く?当初思ったが、案ずるより産むがやすし、書いてみると結構面白い。批判アリ、賛同アリ、共感あり、否定もアリ…、「あらゆることは視点を変えるだけで形を変える」が、物が変わるのではなく、意識が変わるのだ。青春期も中年期も、「恋」は必然のものであり、それについてここにもさまざま書いた。すべては自分の視点で眺めたもの。
恋愛する二人といえ、それぞれの眺める視点は同じ様に見えたとしても、「同じように見えた」という自分の視点、思いであろうである。相手が何か発したことと、自分の価値観が同じであった場合、相手が自分に合わせてくれているのかもしれない。「相性」と言う言葉がある。「相性がいい」、「相性が悪い」という。それを「相性占い」で量ろうとするのも笑える。
何を持って「相性」なのか?人間の情動はさまざまであるから、すべてにおいて相性がいいという事などあり得ない。一卵性双生児であっても微妙に違う。同じ人間などあり得ない。そう考えると人と人との相性なんてのも、思い込みかも知れない。そのように言い合いながら距離感を縮める言葉のツールかもしれない。だから自分は「相性」なんてのは重要視しない。
相性とはむしろ、合わせて行くものかも知れない。あまり無理に合わせてもしんどいだけだし、ストレスもでるし、差し障りない程度に人は人と合わせるべきで、その加減乗除を少年期から学んでいくのであろう。人間関係は縦と横の関係だけではない、斜めの関係というのもあり、これを正四角形で現すなら、縦・横・対角線。対角線は縦+横より短い距離で結ぶ。
四角形の右下角を基点に、CからDに上がり、Dから左に進むとAに到達するが、Cから対角線を斜めにAを結ぶと、C-D-Aの距離より短い距離でAに到達する。この数値を有名なピタゴラスの定理でいえば、一辺の長さが1なら√2となる。つまり、1+1=2の距離が、1.1414となる。垂直に上がって水平に進んで、2で到達する距離関係が、1.14となる。
遠きは近きを秘めている。縦の関係はハッキリするし、横の関係も分かりやすい。斜めの関係は未知である故に謎だ。抽象的な言い方だが、これが多くの男女関係(恋愛関係)であろう。最初は遠いが俄然近くなる要素を秘める。が、この関係ほど難しく、世に多くの離別や離婚が存在する。さらに複雑なのは妻帯者などとの、いわゆる禁じられた恋であろう。
森山良子に『禁じられた恋』という曲がある。♪禁じられても逢いたいの、見えない糸にひかれるの 恋は命と同じただひとつのもの、誰も二人の愛を壊せないのよ…と歌っている。沢田研二には『危険な関係』という曲がある。歌詞は省くが人間の恋愛の歴史には、"禁じられた恋愛"が、連綿と続いている。昨今はこの長ったらしい言い方を「不倫」の二文字とした。
「むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも」
この有名な歌は大海人皇子が、兄嫁である額田王の歌に応えて詠んだ恋の歌である。まさにイヌやネコのさかりの歌と形容されるほどに『万葉集』には多くの恋、禁じられた恋の歌が多い。が、この時代の道ならぬ恋の歌の特徴は、今の世のいうような後ろめたさがまるでない。その理由は、当時の結婚制度と現代がまるで異なった形態であったからであろう。
夫婦同居でもなく、一夫一夫制も確立されていない妻間婚(つまどいこん)にあっては、性を社会規範で縛ることもなかった。好きと思えば心赴くままに相手女性を訪ね、愛の交歓をいたすのである。女性も夫以外の男から言い寄られ、その相手が気に入れば愛しあう、という大らかな時代であった。昨今の不倫全盛時代は、当時の自然な型を踏襲している。
おおっぴらにはできないゆえに、陰に隠れてというところが違っているだけ。ちなみに、『万葉集』における、「逢おう」は、「やる」ということの意味。もちろん、逢瀬(密かに会うこと)も多くあった。この密かに逢うというところが、人間にとっては刺激に作用する。「禁を破る刺激」は誰でもたまらんものよ。人間はその刺激を味わいたいために規則を作るのか…。
子どもにとって規則とは守るためにある。全くクルマの往来のない見通しのいい住宅地の交差点に、一人の小学生の少女が駆け足でがさしかかった。急いでいたのだろう。信号が赤に変わってクルマの来る様子は視界にない。少女の視線に入らない高い位置から自分はみていたが、少女はじっと信号が変わるのを守って、青になると急いで駆けて渡った。
その光景を見ながら、やがてこの子も世の規則を守らなくなるのだろうと、思う汚れたオトナの自分であるがゆえ、少女の光景が微笑ましく感じられた。誰も見ていなくても規則を守るという体に染み付いたものが、いつ、どのように、消えていくのだろうか?成長するということは、何かを失うことで別の何かを得ることだが、「覆水盆にかえらず」の慣用句が頭を過ぎる。
自分にも無垢な少年時代はあった。半世紀も前である。「人は別々の視点で同じ風景を眺め、時間を生きている」と上に書いた。恋する男女も、夫婦も、親子も、みんなそうである。「Splitscreen: A Love Story」というショートムービーがある。2人の人物の視点を同時に並べて、彼と彼女が出会うまでを描いているのだが、同じようでも微妙に違う日常や風景である。
恋は一度きりのものではないし、人の数が多いように恋の数も多いが、独身男女はともかく、一夫一婦制の縛りが人間の自由恋愛を抑止する(場合もある)。一夫一婦制は定住型社会の中から必然的に生まれたもので、恋の芽生えを抑制しておとなしくして一生を過ごすなら、安心というわけだ。もし、多くの人間が気持ちの自由なるままに人を好きになったらどうなる?
国家、社会、家族から保証された安穏生活は脅かされ、ひいては国家体制の基盤を脅かす危険性さえ孕んでいる。恋愛肯定者は、恋愛することで心が豊かになるとか、成長するとか、綺麗になるとかいうが、それが事実であっても、中高年の恋は得するばかりでなく、失うものもある。気持ちのままに人を愛し、恋にはじまり、恋愛を始めると互いが大きな犠牲を払う。
人は恋をしたいが故にセックスをするのか、セックスをしたいが故に恋をするのか、それは一概に断定できない。ならば、なぜひとはセックスするのか?このことは誰もが自分の問えば自と答えはでるであろう。セックスへの欲望が薄れてくると人間は恋をしなくなるという現実はあるが、それでも茶飲み友だちは欲しいというご婦人方は、ようするに喋りたいのだ。
女にとって喋るという事はストレスの発散であり、そこは男とまるで違う。喋るための茶飲み友だちなら、家でじっとするか、バイクやクルマをぶっ飛ばすか、パチンコや釣りをする方が煩わしさからの解放になろう。このように定義する研究者もいる。「結婚生活が狭量、怒り、敵意に陥る最大の理由は、程度の差こそあれ、性の不満足から出ている無意識の恨みである」。
円満な夫婦が50歳を超えても「週に2回はする」というのは、まさに驚きであるし、それを円満と言えるところに凄さを感じる。双方とも浮気は御法度、する気もないと豪語する夫婦は、決して豪語などというものでもなく、当たり前に一穴主義者である。なぜ、他に目が向かないのか聞いた事がある。「面倒くさい」といい、「かあちゃんで十分だ」とも言った。
面倒臭がり屋というのは短所にいわれるが、これに関しては申し分のない長所である。青春期、青年期には物珍しさも相俟って、セックスに興味が薄れたなどあり得ないが、近年の草食系の若者は根っから興味がないというから、一体どうしたものかと考えてしまう。興味がないものに関心を持てというのも酷だが、異性に興味がないというのが腑に落ちない。
現代の若者でなければ分らないことか?"異性を知る"というのが、我々青春期の最大関心事であった。女性をコマすということができないのが災いし、出来ないことを嫌いと言ってるのだろうか?人間は、「出来ないこと」を「しない」、「したくない」という自尊心を見せる。女性が怖い、おっかないというなら、それは現代女性の自業自得であろうか。
「戦後に強くなったのは女性と靴下」と言われた。誰がこの言葉を言い出したのか?元朝日新聞記者でジャーナリストの門田勲氏の著書、『古い手帖』(朝日新聞社出版局:1984年)の中に、「伊予の之ミカン山でわたしを案内してくれながら、ここらの農家のカカアどもがほんまに強うなりくさって、という話の中で、協同出荷組合のオッサンがわたしに聞かせた言葉だった」とある。
これはもう口にオデキができる程言われ、耳にタコができるくらいに聞いた言葉だが、皮肉半分である。女性の強さが当たり前になったこんにちにあっては耳にすることすらなくなった。ならば自分が新しい言葉を作って進ぜよう。「戦後、ストッキングは強くなり破れにくくなったが、女性の膜はなんと破れやすくなったことか」。以下は中高年女性に寄せるエッセイだ。
「私の知人に60歳を機に、家中のいたるところ十カ所に近く、鏡を置いたという人がいる。それくらいの年になると、もう年だから外見はどうでもいいや、という気になる。その気の緩みが古めかしい服を着て、背中を曲げ、髪がぼさぼさでも気にしない、という結果を招く。しかしそれくらいの年だからこそ、人間は慎ましく努力して人間であり続けなければならない。そのためには差し当たり、姿勢を正し、髪も整え、厚化粧ではなくても、品のいい生き方をした老人でいなければならない、と思ったからこそ、その人は鏡うぃ十枚も置いたのだろう。私はその話にいたくうたれた。別に新しい洋服をかわなくても、高い宝石を身につけなくても、背筋を伸ばすだけで人は5歳は若く清々しく見える。私が欲しかったのは後姿の見える鏡であった。(中略)
人は自分の全身像をなかなか掴めない。ことに後ろ姿などほとんど見る事がない。私は二枚の鏡で、後ろ姿を確認したと思っているが、人間というものは卑怯なものだから、多分自分が見ている時には、少し姿勢を正して、自分をスマートに見せているに違いない。だからそれは実像でもなく、真実でもない。人はついに死ぬまで自分の実像を眺めたことがないまま死ぬのである。(中略)
もっとも自分の心身双方の実像を見据えたら、絶望的になって始末に悪いのだろう。人が自殺せずに行きながららえるためには、自分を実際よりよく思い込むという欺瞞が必要なはず。しかし、この頃、長い間の教育の偏りから、自分自身を知らされることなく育っている少年・少女、青年たち、いやいい年の大人と老人までがいるようになったのをみると痛ましい思いになる。」
エッセイに読むまでもなく、自分のことは自分より他人がよく知っている。他人は自分と話すとき、自分の心の動きや表情を感じとりながら話す。自分は相手ばかりを見て話す。だから、自分は相手をよく知り、相手は自分をよく知ることになる。自分の姿形をちゃんと見ていれるのも相手である。相手の姿形をちゃんと知るのは自分である。自分は自分を知らないものだ。
それにしてもだ、女性と言うのは自分の姿形が気になるようだ。身だしなみ以上に気になる何かがあるのだろう。自分をよく見せたい、よく見られたい、合わせ鏡に映る自分の姿は虚像である。実際に自分はどのように映っているのだろうか、それを知りたいと、そこまで感性に現れるのである。そこまで他人にどう映るかという、男からみる女性はある種化け物だ。
鏡なんか見ない日が多く、気にもならない。男は造作無くも、無精でいい分楽である。大昔、鏡は金属鏡であった。金属や石などを磨いて使っていたと考えられ、現存する金属鏡のうちで最古のものは、紀元前2800年エジプト第6王朝の鏡である。当時の鏡は、銅がメインの「銅鏡」であった。日本に最初に鏡が伝わったのは、弥生時代あたりと言われている。
弥生時代から古墳時代にかけて、中国の鏡が数多く入ってきた。それらは姿・形を映すというよりも、お金持ちの人々の宝物や祭事の器として重宝された。鏡が作られる以前の、更に昔は水鏡であった。水面に映る自分の顔に惚れ込み、池に落ちて亡くなった美少年ナルシスの逸話がある。中高年になって顔の小ジワが気になり、高価な化粧品を買う女性は少なくない。
聞くところによると、ドモホルンリンクルは高いらしい。確かに鏡に醜い顔が映るのはショックだろうし、『四谷怪談』のお岩は半狂乱になった。アレは毒によってそうなったわけだから同情もするが、可愛らしい少女が鏡を覗き込むと、そこには化け物の姿が映る、という事態が実際にあった。26歳のダニエル・ナルティさんは、13歳ごろから自分の姿が化け物に見えるようになった。
2008年の英国のDaily Mailオンライン版によると、これは一種の思春期の病であり、ダニエルさんはその病に侵された。ダニエルさんは、「15歳になると、必要なとき以外は外出をしませんでした。他人が私の姿を見たら化け物と違いないと思い込んでいましたから…」。16歳で友達付き合いもやめ、自殺願望を持つようになった。中学校の成績は優秀だったが専門学校に進んだ。
彼女は身体醜形障害(BDD)であったが、BDDとは診断されず、一般的な抗うつ剤が処方されていた。26歳現在(2008年)ダニエルさんの症状は大幅に改善し、もう鏡を見ても化け物が映ることはなくなったし、以前ほど他人の目が気になることはなくなったが、いまだに「やはり自分は醜いのではないか」という想念に支配されそうになることがときどきあるという。
BDDに詳しいエイドリアン・ロード医師は、「BDDと診断される患者の数は年々増加の一途にあります。ダニエルさんの場合、彼女を一目見ただけの他人には、(人並み以上の容姿を持つ)彼女が何を心配しているのか皆目理解できないでしょうね。彼女は、それだけ重症だったに違いありません」と言う。日本では「中二病」という思春期病があるが、「中年病」もあるらしい。