青春期と中年期のもっとも大きな違いは、青春期は独身、中年期は家庭を持つことではないか。ただし例外もある。19や20歳で婚姻した者もいるし、40代で独身もいる。30代で独身というのは普通といえるほど珍しくない。結婚適齢期というのは、結婚に適切であるとされる年齢であり、様々な社会においておおよそ決まっている。女子の場合は出産年齢の限界という問題もある。
日本産婦人科学会によれば、高齢出産とは「35歳以上の初産婦」を指すが、高齢出産は様々な問題を孕んでおり、次のようなリスクが言われている。① 流産が増え、子どもが無事に産まれる率が下がる。② 病気にかかりやすくなる。③ 赤ちゃんの発育に影響が出る。④ 難産になりやすい。高年齢になるほどに卵子が老化し、受精卵の染色体異常が増加しやすくなる。
ダウン症などの発生率が高まり、流産や早産、死産も増加する。高血圧や尿タンパクなどの症状が見られる妊娠中毒症をはじめ、「前置胎盤」、「胎盤早期剥離」などの合併症の発生頻度が高くなる。また、妊娠前から太り過ぎだった妊婦は、妊娠高血圧や妊娠糖尿病のリスクが上がり、血流が悪いなど母体の体内環境が悪化すれば、胎児が低栄養となり、発育が阻害される。
痩せすぎの母親も問題を孕む。痩せた妊婦から生まれる赤ちゃんは、低体重児であることが多く、出産時に体重の少ない赤ちゃんは、将来、糖尿病や心臓病などの生活習慣病を発症する可能性が高いということなどが分かっている。産道や子宮口が硬くなっているため、物理的にも難産になりやすく、帝王切開の確率が高まるなど、高齢出産は赤ちゃんにも母体にも影響が大きい。
ガンは人間の老化現象といわれるように、年齢が上がるにつれて罹患率が高くなるが、子宮内膜症や子宮筋腫なども年齢が高くなるほど発生しやすい。高齢出産は、そもそもそういうリスクが高い時に妊娠してしまうことだ。反面、メリットもないわではない。出産すると若返りホルモンが分泌され、高齢出産の人は同年代の人より若々しい、経済的ゆとりの中で子育てができる。
情緒(精神)が安定していて、余裕を持って育児できる。ある程度の年齢を経てから出産することで、ゆったりと子育てできると答える母親が多い。確かに豊富な人生経験を生かして大らかな気持ちで子どもに向き合っていけるであろう。また、30代、40代で赤ちゃんを産んだ女性は、子宮体がんのリスクが下がるとの研究もある。あらゆることにメリット、デメリットはある。
高齢出産とは違うが、アラフォーで結婚願望が大きい女性は選り好みもいいが、早期閉経(早発卵巣不全)の問題もある。一般的には50歳前後で迎えるといわれる閉経だが、20代~40代でも起こる。日本産科婦人科学会では、43歳未満までに起こる閉経を早期閉経としているが、20代の女性で1,000人に1人、30代で100人に1人と割合は少ないが、妊娠しないならOUTであろう。
中年になるとやはり体も朽ちてくるし、その延長が寿命ということなら、老化を早めないことにも気を配せる時期でもある。中年とは何か?と問われるなら「魅力に溢れた時期」と答えるであろう。若い時はムチャクチャだった。思考も行動もなにもかもが、だが、それはそれでよかったというより、そうしかできなかったであろうし、何もしないよりはした事に悔いはない。
中年と言うのは強烈な、「二律背反」に支えられている。男と女、老と若、善と悪、静と動、愚と賢など、挙げればキリがないが、安定と不安定という軸で見れば、これほど情緒が安定している時期は無い。が、一触即発の危機を孕んでいる人も決して少なくない。職業、家庭、社会的地位などの観点から統計調査をした学者は、中年がいかに安定した時期であるかを強調した。
青春期や老齢期なら、「自分は○○だ」とか、「○○で悩んでいる」といって共感を得ることは多いが、中年になって「自分は○○だ」といっても、周囲と大きく違っている場合が多い。特に子育てや子どもにまつわること、配偶者にまつわること、収入や仕事にまつわること、人間関係の苦悩などは、共感を得ることの方が少ない。自分が青春より中年がいいとした一番の理由…
それは人間関係で苦悩したことだ。上手く行かなかったというのではなく、気を使った、あるいは相手に使わせた、簡単なこと(今に思うと)なのに、解決法が分らないなどと、とかく周囲のことが、周囲の人間を含めて分らないだらけの中に生きていたように思う。分らないから苦しい、分らないから悩む。人間が悩む大きな理由は、解決したいことができないからであろう。
今は青春期に比べて、はるかに物が見える。見えることが正しいとは限らないが、様々な可能性としていくつにも見える。その中から正しいであろうものを選び出せばよいが、青春期には物事がまるで見えない。一つのことだけに終始することが多く、それだけ余裕がないのであろう。つまり、物を買うときにじっくりあれこれ選ぶ心のゆとりがない、そういう状態である。
物事が見え過ぎるくらいに見える現在の方がずっと、ずっと生きていて楽しい。先ほど一瞬、自分を中年と言ったが、60過ぎて中年はないのだろう。が…、なぜだろうか老人だの、老齢期だのという自覚がない。では何歳くらいに思っているのか?とそういう数字的なものでもない。若いと思ってはいない。思っていることは、何で自分が老人であるのか?それが不思議。
老齢年金もらって老人と思わないとは不届きかも知れぬが、アレは60歳になったら貰えるもので、老人になったから貰っているわけではない。という理屈が通用するとは思わないので、ここに書くだけで声を荒げて言ったりはしないが、確かに年齢というのは人によって、凄まじいギャップがあるものだ。60過ぎて「自分は老人」と思う人はいるだろう。思わぬ人もいるだろう。
それだけのことだ。だから自分はふと中年といったが、面倒くさいが中高年なら現実的かも知れん。最近は平均寿命もどんどん上がる時代で、50年前は男・67.74、女・72.92であった。どちらも13年程度延びていることになる。したがって昨今は60歳以上を老齢者とは言わず、高齢者という。老人といわず高人…と、はいわない。高人だと何のことだか分らない。
多くの人が同じ思いであろう。40歳になっても、「何で私が40歳?」、50歳になっても、「何で自分が50歳?」の意識であろう。数字は数字として増えるとも減ることはないが、数字と意識のギャップは誰にもある。同級生のクソジジ~やクソババ~どもに、「年をとったな~」というと、「バカ、お前だって同じだろ?ワシラ同級生だ!」と言われてしまう。が、10歳は上に見える。
どうしてこんなに変わるものだろうか?あの頃はみんな中学生顔、高校生顔していたのに、そりゃ中には老け顔もいたが、同級生を疑うことはなかった。今は、「同級生?」を疑いたいくらいに、クソジジ~、ババ~である。一番顕著なのは洋服だ。なんか知らんが1980円のポロシャツなんか着腐っているし、女は女で、おばさんコーナーにおいてあるような電柱体型服。
マツコのようなデブ隠し服を着てる奴はいないが、皆さん御年相応な井出達である。「お前は何でそんな、VANとか着腐って、一体何歳だと思ってるんだ?」とは言われない。昔から、「お前は何を着ても似合うよな~」が、自分に対する称号だった。洋服には拘ったし、一つの楽しみだった。だから、自分が何が似合うというより、自分に服を似合わせる気でいた。
大層な服を着るわけではないが、服負けしない程度に現在も着ているつもりだ。何でもいい、何を着てもいい、となったら確かにクソジジ~かも知れない。いつかそうなるかも知れんが、アメリカ爺さんのように、周囲におもねることなく、着たいものを着て生活したい。もはや立たないんだから一人オシャレである。女も一緒、服を楽しむのは気持ちが若返るという。
若い女は脱ぐためにめかすが、中年女が脱いでは見られたものではない(見れる女もいるが)。ならば脱がないためにめかせばいい。どうせ脱がないなら、補正下着で血圧上がらない程度に締め上げ、頑張ってスリーサイズ下の洋服を着ればいい。デブが悪いとは思わないが、デブだと着る服が限定される。ダイエットしてスリムになったら、洋服を着る楽しみも沸く。
さて、女性も中年となれば何かと悩ましいことよ。夫婦なら使い込んだ体がどうあろうと然したる問題ではないが、独身女性はとりあえず本体も売りの重要な要素である。案ずるなかれ、女に飢えた男なら選り好みはしない。エロスというのは、若い時のみ重要ではないし、中年においても大切である。人間はあくまで「個」であるが、エロスの力は合一への欲求だ。
エロスという合一・融合は、男女の身体的結合で表現されるが、それが真に「合一」であり、「融合」と言えるのか?若い頃なら異性に対する物珍しさ、新鮮さ、好奇心、余裕のなさから、相手に夢中になる事もできる。が、それは相手の体に夢中になるのであって、一たび使い込んだら別のものが食べたくなる。この世に異性は一人ではないから、仕方のないことだ。
「性より愛を大事にしなさい」と言うけれど、なぜそうすべきかが分らないのが若さである。「愛」と言っても他人への愛だけではないし、自己愛だって愛ではないか。好きでなくなった、興味が薄れた相手との生活をガマンして存続することは、ストレスではないだろうか?夫婦であれば互いが個々の時間を持ち、それが空気のような夫婦という続行の秘訣であろう。
寝室を別にして干渉し合わず、子育てに食い違いもなくなるほどに成長すれば、わざわざ離婚をする理由もないし、現状でやれないことはない。これが大部分の夫婦ではないだろうか?互いが年数をかけて愛深まる夫婦というのは、新婚当初から気ままに浮気もし、好き放題で妻を泣かした夫が、それらから脱却して足を洗った暁に、懺悔が愛に変わるものだ。
男が自分の不甲斐なさを認め、「よくぞ今までガマンしてついて来てくれた」という改悛が愛に変わっていく。男というバカな生物は、自分の至らなさに気づいたときは強いもの。代わりに自分で気づかないときは、テコでも動かない。浮名を流したどうしようもないダメ男の晩年こそ、妻を一途に愛するものだ。そういう男の気持ちと言うのは、同性としてよく分かる。
じっと耐え、ガマンした妻に訪れる光明だ。最近の女はそこまで耐え、我慢ができない。だから離婚が増える。昔は離婚は近所の恥だったが、今はそれもない。目の前のダメ夫が20年、30年後に改悛して見違えるようないい男になるなど、想像もできまいばかりか、「冗談言わないでよ、3年だってガマンできない」と気丈なところを見せる現代のお嬢さんだ。
夫婦円満のコツは、1にガマン、2にガマン、3、4もガマン、5もガマンであろう。若い頃はマジメで何も問題ない夫より、どうしようもないダメ夫であったほうが、中高年過ぎて至福の愛に満たされる妻になるかも知れない。但し、それはガマンをしたことへのご褒美である。妻に苦労をかけたのを実感する男ほどいい夫になる。ガキ大将が立派になるようにだ。
男はそういうものであろう。迷惑をかけたことに対する報いの分かる男こそ、男の情である。そういう男の心を若い女は知らない。遊んだ男ほど大人しくなるということを。どうにもならないエネルギーを出して、出して、出しまくった男ほど悟りの域に達する。自分はガマンして耐え忍ぶ女性を女の鏡として仰ぐ。どうしてもその部分に男はひれ伏すしかない。
口が達者で言い合いして男を言い負かして、妻にひれ伏すような男などヘタレみたいなもので、男が本当に女に敵わないと懺悔する部分は、忍耐とガマンである。それが女になくなったというなら、今後、立派な男は現れないのではないか?なぜなら、男を真に魅力あるものにするのは女である。言うまでもなく、口うるさい女でないことだけは念のために…