青春が終ると中年か?その前に青年がある。ならば『中年論』の前に『青年論』か?「青年の主張」はあるが、「中年の主張」はない。『青年論』で何を書くかも難しいが、『中年論』ならなおさらである。何を書くべきか、書くことがあるのか、見当もつかない。そんな状況の中、『中年論』と気負ってみたが、そのように追い込めば何とかなるだろうくらいの気分である。
『青春論』はさまざまに想いを寄せる時期だが、『中年論』として書きたい何があるか?正直いって何にも浮かばないが、それでも書いてみようとした。青春が終ればすぐに老年というわけでなく、脂の乗った時期が中年なら、何かあるはずだと。「青春」は25歳くらいまでといったから、ならば「青年」は26~29歳くらいが妥当か?異論もあろうが30歳はいかにも中年だ。
中年の後に壮年を置くなら、30~45歳が中年、45歳~60歳が壮年、60歳を超えると老年と適当に区切ってみた。適当という言い方は好きではないが、そんなこと考えたこともないし、今の今考えて数字を当て嵌めてみた。定義も根拠もないが、無理やり決めろと自らにせかされて出した数字。ということで、短い期間の青年は省いて、『中年論』とやらを思考してみる。
何が頭に浮かぶのやらさっぱり分らない白紙というのも面白い。中年は実は壮年と同じ意味で言われる。中年と壮年を分ける必要はないが、分けた理由はせっかく言葉があるからだ。人間を、少年期、青年期、中壮年期と分けたときに、中壮年期というのは安定した時期であり、あるいは危機を孕んでいる時期ともいえるが、中年期はなぜ斯様に相反する時期なのか?
中年期があまりに複雑すぎるからではないか?つまり、いろんな状況下で様々な実体がある時期ではないのか?例えば心理学という分野で現されるのは、「乳幼児心理学」、「児童心理学」、「青少年心理学」。最近、老人問題がクローズアップされてきたのは、老齢社会に移行しているからで、老人問題が、「老齢心理学」という新たな学問研究を呼んでいる。
そんな中で「中年心理学」ってあるのか?といえば、聞いた事がない。何故かを考えてみるに、中年心理は研究対象にならないというよりも、心理がどうこういうより、おそらく、職種や情緒の成熟度や既婚・未婚など様々な理由があり、その膨大なケースから中年を一律に縛れない、定義できない、よって心理学の立ち入る分野ではないのかも知れない。すべてはつたない想像だが、思考して見ればそのようでもある。サラリーマンもいれば野球選手、サッカー選手、プロボクサー、企業の役員、商店のおっちゃん、いい年こいてひきこもり、フリーターもいる、中年対象は何も男に限らない、中年女性も存在する。寺の僧侶、パートのおばちゃん、ソープのおばちゃんもいる。これらすべてを、「中年」とひっくるめて、一体何が定義できようか?
「青春」は青い時代の不安心理などが共通の定義となり、老人も枯れた人間の不安心理は共通であろう。老人の誰もが死に向き合う時期でもある。安保法案成立をめぐる昨日の国会中継を見て感じる何かは人それぞれだが、あの方たちの多くは立派な中年だ。やってることの多くはパフォーマンスと見ている。デモの多くの人は日教組か、組合からの寄せ集めか?
チベット問題では多くの僧とそれ以外の若者の焼身自殺があった。自らの死を賭して訴えるという凄みを感じたが、それから見ると本気度はどうなのだろう?議員の誰か一人でも焼身自殺でもするなら、時世は転換するかも知れないが、誰がそのような死をもった抗議をする者がいよう。だから本気度がないとはいわないが、本気度のレベルは段階があろうというもの。
その前にJR火災事故の犯人が逮捕された。さすがは警察も商売というか、プロである。よくぞ見つけたものだと感心させられた。最近は「泥棒を、捕まえてみれば警察官」というのも珍しくはないが、教育界にも不行き届きな先生もいる、金融関係にも手クセの悪いのもいる、医師や弁護士にもお金大好き人間がいるように、どこの世界にもマヌケはいるものだ。
JR火災事故の容疑者は子どもの火遊びかと思えば、なんと42歳のおっさんであった。この件とは無関係の8月9日夜に発生したJR京浜東北線沿線火災も、41歳の会社員であった。逮捕後の調べに対し、「火を付けて死のうと思った」と容疑を認めているという。菅野正彦容疑者は、「ティッシュペーパーにライターで火をつけた」と話しており、アパートは半焼した。
菅野容疑者は放火後、自室の窓から脱出し、巡回中の同署員に発見されたが軽い火傷を負っている。京浜東北線は約1時間40分にわたり運転を見合わせたほか、並走する東海道線も一部区間で運転を見合わせ、計約2万9千人に影響が出た。損害賠償を試算すると軽く億単位になる。死のうと思って火をつけたが、怖くなって窓から逃げ出す人間を表現する言葉があるのか?
損害賠償支払い能力もないであろう。事件は死者もなく、数年の懲役刑がいいとこで、こういう奴に監獄はただメシにありつける天国か。「火付け盗賊・打ち首獄門」の時代もあったが、現代は罪人は少しとっちめて世に放つことになっている。JR火災事故の容疑者野田伊佐也(42)には驚いた。彼のバカげた行為にではなく親から20万の援助で生活しているその事。
野田容疑者の父は著名な版画家で、東京藝術大学名誉教授の野田哲也(75)であるという。親がどこの誰であってもそれはいいが、42歳まで一度も職に就いたことはなく、親の仕送りで生活しているというその事も、野田家の問題だから結構だが、問題は彼の動機と言ってる事のアホ臭さ。「電気を大量に消費するJRが許せなかった」といっちょ前のことを言う無知男。
若さとは無知、無知は特権といったが、おっさんにも無知はいる。確かにJRは膨大な電気を必要とするし、自前の発電所を所有するのは現在JR東日本だけとなっており、そのJR東日本も自前だけでは足りず、駅や踏切、通信設備など場所によっては電力会社から購入した電気を使っている。JR東日本の場合、年間62億4千万kWh(発表資料)となっている。
内訳は、自社火力発電電力量21億kWh(34%)、自社水力発電電力量14億3千万kWh(23%)、東電などからの購入電力量21億1千万kWh(43%)と、自社用発電設備だけでは電車は動かせない。そのため電力量の不足が言われた東日本大震災後の計画停電のとき、JR東日本路線で多くの運休があった。市民の足、公共のインフラといえども、ないときは節制する。
野田容疑者が立派なことをいい、バカげた事をやるまえに、一人で飯も食えない人間が他人のふんどしで相撲を取るなである。どうせ食えない自称ミュージシャンなど即刻止めて、川崎駅前で人力車の仕事でもせーよ。文明批判をする奴が、エレキギターもってデカイ音を出して、大量に消費するからとJRを批判するなら、己は文明にあやかっていることを止める事。
文明どころか、オムツも取れない状況でこの言い草は笑止千万である。親の仕送りに批判はあるが、それは他人の家庭のこと。それによって我が子が起こした失態を、雨戸を閉めて逃げ隠れしない親父であるからいいよ。堂々、メディアの前で醜態晒していたのは、責任を感じていたからだろう。その事よりも多くの迷惑をかけた住民への責任は拭えない。
今回の事件において、鉄道評論家の川島令三氏はその損害額について、「かなりアバウトな単純計算」と断った上で、「特急券は本来の到着予定時刻よりも2時間以上遅れた場合のみ払い戻されるので、それを勘案すると、単純な比率で影響が出た全人数の半分より少し多い約5万2000人が払い戻し対象となる。特急券の料金約5000円としてかけると、2億6000万円になる」と算定。
さらに先頭車両の損害が大きかったことから、1両を丸ごと交換するとして、「16両全体で約40億円なので、1両は2億5000万円くらい」と推測する。双方を加えると5億円の換算になる。今はないが、昔は子どもが線路に置石をするのは流行った。まかり間違えば脱線する危険性も高い。子どもの頃は学校で口酸っぱく注意をされたが2013年に子どもの置石事件があった。
線路上に置き石をしたとして、京都府警八幡署は6月10日、列車往来危険の非行事実で、同府八幡市の小学生の男児(10)を児童相談所に書類送致した。電車好きの少年で、線路に置き石をし、「どうなるか見たかった」と、6件の置き石していたという。2011年8月には33歳の男が京阪線線路上に、2012年には53歳の男が名鉄名古屋本線線路上に置き石で逮捕されている。
置き石(列車往来危険罪)は、危険度が大きく、他の犯罪に比べて特に重い罰則が定められている。往来危険罪(刑法125条)は、2年以上15年以下の懲役刑が定められており、これによって死者が出た場合、死刑または無期懲役刑となる。鉄道に対する妨害行為は、重大な事故を惹起する危険性が極めて高く、野田容疑者の行為も置き石と何ら変わらぬ危険行為である。
父親である野田哲也氏は息子の逮捕を受け、「音楽なんかやっても大変だからやめたほうがいいじゃないかと言ったことはあります。どうしてもやめられず一人で住みたいと言うので、あまり干渉しない方が良いと考えました。生活できないので仕送りしていた。表現なら音楽でもできる。芸術家なら作品で訴えるべき。なぜこんなことになってしまったのか」と話している。
音楽が悪いわけでなく、売れないことが問題でなく、このような偏った考えを抱いてそれを実行に移すことが愚かであろう。野田容疑者が自己実現に向けて音楽にひた走ること、それを理解し協力する親がいることは幸福なことである。中年と言うのは、一般的に安定した時期であろうし、順風満帆といわずとも、問題のない日常生活を送っている者は多い。
が、それでも何が起こるか分らないのも人生である。大体において自分の人生というものが見えて来て、将来の見通しが立っている矢先に、その軌道が一変するような天災、人災を経験する人も多い。自分に降りかからずとも、子どもや身内や親戚など、自分は何にも悪くないのに、突然に不幸や苦悩の中に突き落とされるのだ。自分にもあったが、封印している。
起こった事をアレコレいいたくない性分でもあり、頭の中から葬っていることもある。力の及ばぬことは及ばない、よって後悔すらも無意味である。そのような思いがけないことで人生の軌道を狂わされた、それ以後は生あるかぎり、その事を嘆いて暮らしている人もいる。『光市母子殺人事件』と言うのがあった。「母子殺人」といい、「妻子殺人」といわない。
被害遺族の本村洋氏は、最高裁第1小法廷が被告の上告を棄却したことを受け記者会見の席で、再婚していることを語った。「2009年に籍を入れさせていただきました。1人で生活し、いろいろと精神的に参っていた私を、支えていただける方と出会うことができました」。再婚にいろいろな意見はあるが、先へ進むことを選択した本村氏の考え方を尊重すべきである。
悲哀を持ち続けることが何の供養になるであろうか。誰があのような被害にあった妻子の事を忘れるものがいよう。「忘れたい」、「忘れるべき」というよりも、「忘れずにそれで先に進むべきである」。いつまでも死んだ子の年齢を数える親もいるが、その事自体は責められない。ただ、同じことをいつも人に話したい、聞いてもらいたいというのはどうだろう?
そこについては批判的である。最初は誰でも同情はするが、だんだんと「またか」と思うようになる。愚痴というのは聞かされるのは嫌なものだし、愚痴の多い人から人は離れていく。不幸の上塗りはすべきではないのよ。実際、他人には関係のない事だから。「過去・現在・未来」という時の流れが分類されている。厳密にいうと、どれも定義は難しい。
今がその瞬間なら、1秒後は過去であり、昨日や一昨日も十分過去であろう。10分先は拡大すれば未来であろう。「今」と言う言葉は、「瞬間」ではないし、「今」はいつまで「今」なのか?同様にいうなら「瞬間」とて1秒を1000に区切ることもできるが、瞬間湯沸かし器を購入したが、「どこが瞬間か?」とメーカーに文句を言い、あしらわれ、訴訟を起こす人などいまい。
瞬間とは、「眼のまたたき(Blick des Auges)」に由来するドイツ語「Augenblick」は、すでに中世高地のドイツ語では時間的意味を与えられていた。後になって過去と未来の間に存する「今」という、きわめて短い時間的規定を有する語として使われるようになった。 友人に聞かれた事がある「過去っていつごろ?」。自分はその時10年と答えた。「10年ひと昔」をもじった。
「じゃ、未来は?」と聞かれ、100年後と答えた。理由は「一世紀が100年単位だから」とした。「じゃ、あなたの未来ってないの?」と言うから、「人類の未来や、地球の未来はあるけど、オレの場合は将来だな」といった。「未来と将来は違うの?」というから、「当たり前だろ?」と言ったら、「どう違うのよ」というので、「字が違うだろ」と煙に巻いておく。
「未来」とは、現在や過去に対する客観的な時間の概念を表し、「将来」とは、具体的な人や物(会社など)が、これから先に持つであろう主観的な時間。未来はずっとずっと先、将来は適度に先。よって「近未来」といい、「近将来」はない。将来はそれほど先ではないから「近」は無用。青春期の若者が、「将来は中年になる」はいいが、「オレの未来は中年」は変。