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『青春論』 ⑥

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 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう


この言葉をおいて高野悦子は青春のさなかに散った。同時に20年の短い生涯を終えた。昭和44年6月24日未明のこと。鉄道自殺だったが、「勇気があるよな」と言った奴がいた。「あれを勇気というのか?」と自分は正した。「そんなことできないだろ?」と彼は言った。「しないでいいことをしたんじゃないのか?勇気ってすべきことをすることだろ」と返した。

当時の自分はそのような考えだった。今もその考えは変わっていない。「死ぬことは勇気のいることなのか」、この答えは謎だが、死にたい人間が死を選ぶのは、勇気ではないのではないか?勇気とは死にたくない人間が、危険を犯して危機に瀕した人を助ける行為ではないか?まちがったら自分の命を落とすことになりかねない、それでも救助に向かうような…

自殺する人間は、実は死にたくない気持ちが強いという。そうであるなら自殺は勇気なのか?「謎」と言ったのはその辺のところだ。死にたくないが、それでも死のうとする理由は、生きていることへの絶望感であろうか?そのことが死にたくない人間を死に向かわせる大きな理由だろう。論理的にはそういうことになるが、死ぬ人間の実際の気持ちは分らない。

経験もなければ体験もできないことだ。自殺の是非を思考すると、「死ぬなんてバカだよ」という言葉がどうしても出てくる。これが案外、無造作な言葉に思うのだが、バカだから死ぬのではなく、死ぬからバカだと思うわけで、実際問題、頭のいい学者や優秀エリートが自殺するのをみるに、彼らは賢い人間である。むしろバカより賢い人間が多く自殺するのでは?

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統計があるわけではないが、そんな気がする。そういう時に「賢さ」って何だろうと考えてしまうのだ。自分は人間の賢さには二つあると思っている。一つは専門知識に長けた優秀者で世間では頭の良いと言われる人間。もう一つは人間としての賢さ、これは分別・道理に長けた人間か。いずれの頭の良さを決定するのは脳であり、人間の脳は大きく4つに分かれている。

一番奥にある脳の働きが反射調節、次いで本能行動、その次が適応行動、そして一番表面に4番目の脳の働きとして創造行為という知能の働く部位。知能の働くが優れているのを「頭のよい賢さ」といい、適応行動を統合している3番目の脳の働きが、「人間としての賢さ」、「人間としての立派さ」であり、「あの人は教育を受けてないが立派な人」がこれに属する。

また、「あの人は人間としてはダメだが頭はよいみたいだ」という人もいる。この場合の頭のよいは、単に高学歴である場合にいわれる。賢いにも二通りあるように、バカにも人間的なバカ、頭の悪いバカの二通りがいる。「人間としての賢さ」は、親の育て方など、毎日の生活体験が重要であるからして、家庭における躾の役割が大きいが、個々の自己向上心もある。

「いい大学にいって賢くなりたい」そういう時代はあったが、現代はいい大学に行く理由は就職などの有利さであろう。「末は博士か大臣か」というのが、かつての男の子の理想とされ、そのために勉学が必要であった。一生懸命に勉強すれば博士になれる、大臣になれるというのも、見方を変えると滑稽であるが、それが男子の最高の栄誉だったのだ。

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今の子どもは「大きくなってお金持ちになりたい」というらしく、これも夢といえば夢ともいえなくもないが、即物主義の時代の価値観であろう。「幸せとはお金のあること」なのかも知れない。『安っぽい幸福より、高貴の苦悩を』といわてもピンとこないかもしれない。これは哲学者の理想と言うのではなく、「安っぽい」とは何か、「高貴」とは何か?である。

「安っぽい人間」、「高貴な人間」という言い方をする。そこから「安っぽい」、「高貴」を考えてみればいい。安っぽいと高貴は対義語であるが、人によって意味の深度は違うから各々は考えればいい。もっとも分かりやすい例を言うなら、お金が欲しい、お金が自分の幸せだと、それで体を売る女を、「安っぽい女」というが、安っぽい人間は安っぽい幸福を求める。

金で女を買う男を自分は安っぽい男だと思っている。この議論は友人といろいろ尽くしたが、自分の考えは、金で体を売る女が安っぽいなら、当然それを買う男は安っぽいという論理である。卑しい人間に媚びたり貢いだりする人間は、卑しい人間以上に卑しいという考えを持っている。だから、自分はそういう女も男も大嫌いである。理由は、自分を卑しくさせるからだ。

これを発見し、納得したのは映画『赤穂浪士』のシーン、セリフであった。勅使饗応役に任ぜられた浅野内匠頭長矩が、指南役である高家筆頭吉良上野介の強欲さに対してこのように言う。「賄賂によって動く政治をワシは卑しむ。卑しい人間の意を迎えることは、ワシを彼らよりは卑しい人間にすることではないか」と、なぜかこの言葉が自分の胸を打ったのだった。


このブログにも度々書いた、「男は女に驕って当たり前」という態度の女が、自分の前にいたことはない。男がすべてにおいて支払いをするのは、男の甲斐性という世代的な感覚を持っている自分だが、だからこそ上のような態度、言い草をする女はイラン。恩着せがましさも抱かないし、感謝も求めないが、「要求はするな」、「黙っていろ」という気持ちであろう。

口に出されると、卑しい女に思えてしまうのだ。主体性が失われ、女に媚びているような気にさせられる。それが嫌でたまらない。映画では浅野の考えを純粋としながらも、友人脇坂淡路守は家来を一括する。「殿がそのような考えであったからと、家来には家来の才覚というものがあろうというもの。相手は吉良じゃ。犬には犬の喜ぶ餌を与えるべきではないのか?」

淡路守の進言に片岡源五右衛門は、「主命に背けと?」驚く。「それで万事が収まればよいではないか。主命に背いたことの咎は腹を切って収めればよい」と、このやり取りはスゴスギる。どちらが正しいかは分らないが、このセリフは殿中松の廊下における刃傷事件があったことの前提で書かれたものだから、すべては後出しじゃんけんであるが、共感を得た。

このように二つの対立する考えに答を出すのは至難だが、「いずれに理あり」という問答には心を奪われる。哲学者の苦悩とはこういうことであろう。『安っぽい幸福より、高貴の苦悩を』という言葉に魅了はされるが、実践するのは並大抵でない。「加害者であるより、被害者の方が精神的に楽である」というのも、言葉の意味はわかるが、実際その場において苦しい。

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かつて「私生児」という語句があった。今でも使うこともあるが、「非嫡出子」とか「婚外子」という言葉を使われる。いうまでもない「嫡出子」、「婚内子」とは婚姻という形態から授かった子をいう。「嫡出」の語を正統とする意見もあるが、子にこのような一定の価値観に基づく表現をとるべきではないとの批判から、「婚内子」がいいとされれている。

「私生児」以前には「日陰者」という呼ばれ方をされていた。何の罪もない子どもを、このような呼び方で差別をするのが平然とあった時代である。日本人同士外の子を「あいの子」、「混血児」などといった。「あいの子」とは、第二次世界大戦後、日本に駐留していた米軍人と日本人女性の間に生まれた子どもを、侮蔑の意図を込めて、「あいの子」と呼んだ。

これは、「昨日まで敵国だった国の人間の子供を生みやがって!」といった気持ちを表した言葉であろう。水商売女性や身を売って生活する女性が多かったこともあり、父親の存在すら不明だから、「私生児」、「日陰者」とも言われた。日陰に生まれ、日陰に育った子どもは、日向の人間をどのように捉えていたのか。なぜ日陰ができるかは時代の責任、国家の責任である。

恋愛は文化ではないが、結婚は文化である。食欲も文化ではないが、食欲を三度にしたのは文化であろう。婚前の性交渉を禁止する文化もあれば、一夫多妻制の文化もある。いずれにしても結婚が文化である以上、合法的な婚姻から生まれない子について、とやかく言われる。繰り返すが、恋愛は文化ではない。したがって結婚した後にでも人を好きになる。

イメージ 7むしろそうなるのが普通である。文化は自然を抑圧するし、その抑圧を当然と受け入れている人はそうならないのか、あるいはなっても隠している。いけないことだからである。不倫や浮気は、起こること自体が自然であろう。奨励ではなく自然といっている。行為を抑止する人もいるが、分らない程度にやる人の何と多きこと。悪事は分らないようにするものである。
悪事をするなと言っても無駄だ。人はそんなに立派ではあるまい。だから陰でしなさいというのもおこがましい。いわずともそうするであろう。人は誰でも抑圧を嫌う。自分は抑圧を嫌うのに子どもを抑圧するのが親である。だからそういう親は何かにつけて、子どもにからかわれる。何かを注意すれば、「お母さんだって○○してるくせに」などといわれてむかつく。

「○○」とは浮気のことではない。それこそ子どもには最大に隠しておきたいことだろうから。子どもは自分が注意されたときの親を親と思わない。同じ人間として親に非があれば非難をする。だから、子に注意するという事は、親が完璧でない以上、矛盾を孕んでいることになる。言い返さない子どももいるが、だからと言って何も思っていないわけではない。

そんなことも理解しないで、親ズラする親のオメデタさ。口に出す子ばかりではない。口には出さずとも親をじっと観察しているのに、親は子を理解できない。ならば、せめて認識をもつことだ。同じように、人間は完全に相手を理解できない。青春期に大きな間違いをする理由は、人を正しく捉えてないということ。にも関わらず、若さゆえのジコチュウ、傲慢がでる。

考えてみるといい。あの日、あの時、自分は相手の何がわかっていたのか?心の中まで考えて見たのか?そんなことは考えもせず、自分の思うままに行動し、発言していたのではないのか?若いというのは、何と無知であり、不誠実であろうか。青春期を顧みて思うのは、人に対する思い、洞察に関して言えば、今の100分の1もなかったであろう。それが青春なのだ。

至らぬ者同士が織りなす日々は、ともすれば互いが誤解し合って離れていく。自分のどれだけも相手は知らず、相手のどれほども自分は知らず、知らない同士が勝手に判断し、間違った答を出す。それが青春であろう。すべてに正しい答を見つけられないのは今もそうだし、だから正しくないと言うよりも無知である。唯一救われるのは、互いが無知であることか。

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無知で青春をやれたのは、相手も無知であったからだ。「青春とは何だ?」この命題に対する自分の答えはただ一つ。「青春とは無知である」これで言い尽くしている。成熟など予測もしない、5年後、10年後にどういう考えになるかなど、考えもしない。ただ、今を生きたというその残骸が青春である。残骸とは悪いものの言い方だから、青春には残照もある。

「無知」とは否定的な意味ではなく、肯定的な意味もある。肯定を強めていうなら、青春が無知であるのは特権である。これは三島由紀夫も言ったことだが、三島がいわずとも自分の中に生まれた言葉。「青春の時期は、いつの時代でも恥多く悩ましいものだ。もう一度やれと言われてもお断りしたい」。これは吉行淳之介の言葉だが、彼が言わずとも同じ思いだ。

バーナード・ショーはこういった。「青春?若いやつらにはもったいないね」。つまりはこういうこと。青春期にある若者は、青春の価値を知らない。今が青春であるのに何もその価値を知らないでいる。青春も人生の一時期であろう。ならば彼らは人生の価値すらも知らないで生きていることになる。青春とは、回想するしか分かりようがない。と、ショーは言う。

やはり青春の価値は青春を終えて分かるものだし、平和の素晴らしさも、戦争があるからこそ感じられる。3.11東北大震災ですべてを失った小学生の女の子、彼女の次の言葉が耳から離れない。「何もかも失ってみて、今まで満たされすぎていたのがよくわかりました…」。彼女がそれらの事に気づいたのはいいことだが、あまりの代償を思うといたましい。

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