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『青春論』 ④

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親は子どもをダメにする愛情を持っている。それが愛情?と疑問は抱くが、親が愛情と思っているなら愛情であろう。「親は子どもをダメにする愛情を持っている」、はオトナの成熟した思考であり、当時子どもであった自分がそんな風な考えを抱くはずもない。その当時自分は、「このヒトの言う通りしていたらダメな人間になってしまう」という思いだった。

ヤブから棒に反抗したのではなく、母のいう事、する事一切がまともではないと感じた。自分宛の封書を勝手に開封して捨てるなど、誰に話してもあり得ない行為というし、ヒトに話すまでもない蛮行と思っていたし、友人からの電話を取り次がないで居留守を使うのも日常だった、親に頼んでも細くしてくれないズボンを、必死で自分で直せば勝手に捨てる。

タワシやカルイシですり込んだジーンズを勝手に捨てる。シャツの裾をズボンの中に入れろとうるさい、マンガを捨てる、『平凡パンチ』をエロ雑誌といって捨てる、など自分が気に入らないものを容赦なく捨てる、隠す、こんなバカ親がこの世にいるかと腹も立った。口うるさいとか、傲慢であるとかを超えたバカと、見下された時点で親も終わりである。

「親が嫌い」とか、「好きじゃない」いう奴はいたが、「ウチの親はバカ!」と言うのは自分くらいしかいなかった。あげく、バカに何をいおうが、まったく通じないことも学んだ。「このヒトほどのバカは、本当に死ななければ直らない」を強く実感した。母は現在86歳だが、妻や孫に対してもバカは相変わらずで、やはり死ななきゃ直らないの諺は正しいようだ。

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「親はあっても子は育つ」も面白い言葉だが、「バカは死んでも直らない」という言葉も実に面白いと思った。つまり、死んだら意識がないから直るという定説を、「バカは死んでも直らないバカのまま、棺おけに入っている」ということか。これほどバカな親を体験すると、自分が親になったときには絶対にバカではいたくないと思う。が意外と難しいのを実感した。

やはり、製造者の傲慢であろう。親は間違いなく子どもをダメにする愛情を持っている。虐待を受けた子は、自分の子に同じ行為をするように、人間形成に歪みのある状態で育てられて成人したこの本脳機能という奴は、更なる二次的歪みを生じる。拒食症や不眠症、働き生きることへの不能症、人間不信、劣等感、などなど様々な因子も植えつけられる。

奇蹟の歌声と称されたカレン・カーペンターは、最後まで母親の愛に飢えていたとされる。彼女の母は、頭もよくて何かにつけて秀でていた出来のいい兄リチャードを溺愛していた。「顔に自信がない」、「お尻が大きい」、「誰からも愛されない」そういうコンプレックスから拒食症にカレンは陥った。同じ心の病の有名人に、バイオリニストの五嶋みどりが浮かぶ。

この前まで少女だった彼女も10月で44歳。カレンは30歳の時に実業家と結婚したが、翌年には破綻し、離婚同意書にサインする直前(約束の6時間前)に彼女が死去したため、離婚が成立しないままになっている。死因は急性心不全という。巷では炭水化物ダイエットといって米・麺類をとらないのがいいと支持されているが、炭水化物を極度に制限するのは危険である。

イメージ 3炭水化物は人体のエネルギー源であり、心臓の拍節(鼓動)も炭水化物のエネルギーで動いている。カレンが母親と戦った記述はないが、五嶋みどりは、母親との壮絶なバトルの末に掴んだ栄光である。昨年夏、結婚の発表もないままに彼女の妊娠、出産のニュースが騒がせ、精子を買った(提供を受けた)と囁かれたが、彼女も事務所も夫の存在を明かさない。

五嶋みどりの結婚相手がどこの誰かなど興味ナシ。そういえば、「どこの馬の骨かわからぬ男」という言い方があり、これは中国の諺、「一に鶏肋(けいろく)、二に馬骨(ばこつ)」から来ている。鶏肋とは鶏の肋骨のことで、小さすぎて役に立たない。馬の骨も役に立たない上、大きすぎて処分に困る。「どこの馬の骨~」は、素性の分からぬ者をあざけっていう言葉。

みどりは20歳の頃から拒食症(摂食障害)と鬱に苦しんでいた。幼い頃から母に厳しく指導された彼女は、有名になって世界中で演奏活動が始まると、「同じ服を2度着るな。ホテルは一流。移動は車。身の回りのことは他人にさせる。贅沢な食事をする」がステイタスの証として強要された。身を引き裂かれるような苦悩の末、バイオリニストとして生きる決意をする。

五嶋みどりの青春、カレンの青春は自分の目には耐えられない様相だが、他人の青春はその人のものだ。確かにカレンの栄光は短かったが、「細く長く」という人生もあるように、「太く短く」という人生もある。カレンは後者であったが、摂食障害の影響でか、他界する直前の彼女の身体は30kg台、ミイラのようだった。自分の「生」を貫くというのは容易でないようだ。

人間は生物的に歪みやすい特徴があり、文化的にも歪みやすい。心理学、精神医学、社会学、教育学などの学者がこぞって非行や犯罪など反社会的行動を分析するが、コレといった断定を下せない要素が多すぎる。いかなる学問、いかなる研究を土台にした意見であっても、人によって考えが異なるというなら、結局は個人の見解や評論に過ぎないということ。

ある学者が言う。「どんな世界であれ、外から眺めていた頃のイメージと、その世界に身を投じてから見えてくるものとのギャップは存在する。学者の世界に身を投じた15年まえより、現在の方がより大きなギャップを感じている。それも悪い意味でのギャップである。(中略) 論文捏造や研究費不正流用で処分をされる学者の背後には、処分されないギリギリの学者も多い。」

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閉鎖的な学界や学者の問題を浮き彫りにさせ、失墜もさせた「STAP細胞事件」はつい先日のことであった。早稲田理工からハーバード研究室勤務を経て、日本の先端科学の本山と称された理化学研究所に配属された小保方晴子をめぐる一連の騒動が、「学者バカ」を如実に示した。不正も流用もしないスーパーのレジのパートおばちゃんの方が立派にみえる。

「持っている人」の弱み(苦悩)は、「持たぬ人」には理解しがたいものがある。世のため人のために尽力する学者も多いなか、一部に非常な社会的影響力を持つ学者が生まれる社会構造が出来上がっているからである。文系学者は政府の審議会や諮問機関で、国家の制度設計に大きな影響力を及ぼすが、理系学者は、研究費という競争的資金の争奪に苦闘する。

一人の学者が個人単位で巨額の研究費を使える立場にあるというのは、学者による個別の不正が社会的損失に繋がることを示唆しているといえる。嘘八百を研究成果と発表する学者の自尊心は、競争社会に身を投じる者の狂想であろう。『小保方晴子の青春』なんて、実話風映画にしたら面白い。彼女を茶化して面白がっているのではなく、あまりに杜撰、あまりに情けない。

「持たない」自分の青春に茶化されるものはないが、「持っている」者の宿命は、「持つべく人」がコントロールして生きていかねばならない。老子は、「他人に比べて秀でるものを持つことで慢心になるなら、いっそ持たぬ方がいい」と言った。「持つ」べく人の最大の任務は、「生かす」ことであろう。ACミランの本田が日替わりで、絶賛されもし、叩かれもする。

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「持っている」者の宿命だ。日本でチンタラやっていればこうまで叩かれ、吊るし上げられることはないが、世界の目は世界の標準プレーを要求する。スポーツ界に身を投じる選手は数字と結果に縛られるが、学者は10年、20年結果を出せなくとも叩かれることはない。安易な世界でもあるが、それは偏った見方で、実際はこれほど地道な世界はないだろう。

何の功績も喝采も浴びることなく研究を閉じる学者が大多数。しかし、メディアで持論を述べる学者は増大するも、意見は乱舞する。例えば少年が親を殺した事件について、A氏は「管理された教育が原因」といい、B氏は「甘やかされたのが原因」といい、C氏は「夫婦・親子ともども家庭崩壊が原因」と主張する。これはもう『群盲、象をなでる」である。

最終的には「分らない」となる。分らないから様々想像するものだが、分からぬことを分かる事は難しく、「分かった」と言っても真偽は不明瞭。親の育児の歪みについての文化的な見地からの断定は更に至難である。よって、「人間はわが子に取ってマイナスになる育児を行う唯一の生物」という点について思考する。「過保護」、「悪魔の愛情」などなど…

何事も便利なのは文明の恩恵だが、子育ては「力仕事」と自分に言い聞かせていた。楽はいいことだが、楽をしないいいこともある。この二つを照らし合わせた時、「楽をしないいいこと」の方が上回ったからである。最近は「食育」などという言葉も生まれ、これはレンジでチンの弁当を作る横着母に対する批判である。そういう母に限ってこのようにいう。

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「毎日のことだし、やってられない」。これが現代のママより、昔の母親の方が子育てに優れていたことを現す一面であろう。優れているのは、キッチンの設備や、豊富な食材、金銭的裕福さではなく、意識が優れている。何かにつけて優れた人間と言うのは、「意識」が優れているから生まれてくることを考えれば、意識の希薄な現代ママは秀逸な母ではない。

動物は小鳥でもライオンでも子をもつ年齢、つまり成長し成体になれば自然に育児本能は充実する。言い換えれば成体になった事が育児能力が備わったことを意味する。ところが人間は違う。「大人になった」ということは、必ずしも「正しい育児ができる」を意味しない。これが人間の育児の失敗の最大の要因であろう。自分は父親になった時、父親の自覚はゼロだった。

「子を持てば自覚が出来るだと?」そんなのあり得ない。大金を持てば金持ちの自覚は出来ようし、使うに余りある金を持ったことと、子を持っての自覚は大違いである。父親の自覚とは大好きだったパチンコを止めること、タバコを止めることもそうであろうが、物理的な自覚だけでなく、父親としてどうあるべき、どういう役割を果たすかという自覚が必要だ。

そのためには、「父親学」なる育児書を読むこともいいだろうが、何より大事と思ったのは、どういう父親が自分の理想の父親であるのかというシュミレーションであった。子どもが我がままを言ってるとき、グズっているとき、何かに興味をもっていそうなとき、あるいは持たせたいとき、イタズラをしたとき、叱る必要が発生したとき、その時にどういう父であるべきか?

イメージ 7それを考えた。そして結論を得るとその役を演じることにした。つまり、自分には夫という顔もあれば、外ではあらゆる場所に相応した様々な自分の顔が存在するように、親となったら父親の顔を増やす。したがって、あくまで理想とする父親を演じる虚像であるから、本来のだらしない自分とは違う。地でやるのが楽は楽だが、それでは理想の父親に程遠い。

父が他界していろいろ考えたことの中に、酒好き、女好きの父、世の中で浮名を流していたというそんな父だが、自分の前に存在していた父とはまるで違ったようであった。母との言い合いの中にいる父は、妻から見て許しがたい父であったようだが、それを言うなら父からみた母など許しがたいどころか、殺して煮て食ってもバチがあたらない女である。

相手がある以上、どちらかの言い分だけが正しいという夫婦など存在しない。父は息子の前では立派な父であった。何をしても叱らないという点において、あれほど寛大な人はいないのではと思えるほどに、息子の愚行を許す人だった。菓子折り持って怪我をさせた喧嘩相手のところに行くのを楽しむかのように、そして相手の親の前で土下座をするのだった。

これほど効き目のある躾はないであろう。父のその姿がいたたまれず、自省することになる。父は自分を一言も咎めない理由が不思議であった。聞きたいことは山ほどあったが、宿題を残して逝ってしまった。学問と違って確たる答えのない宿題は難しい。その代わり命ある限り思考することができる。当時も今も、青春期に父はまるで存在しない存在だった。

存在しないが、ああいう母であった故にか、とても大事な父であった。「ない物の方が、ある物より大切」ということか。一人で上京して以降、時々日記のようなものを書いたが、最後のくだりには父への想いを綴っていた。自分が生を受けたとき、父は34歳で、周囲と違ってずいぶん年食った父だったが、「あなたに早く孫の顔をみせたい」などと書いていた。

一度も叱らなかったことへの感謝も多く書いた。叱られなかったから助かった、有り難かったではなく、叱られない=信頼に対する感謝である。母は自分をダメにする女との危惧を持ったが、父はただただ空気であった。見えないが、なくてはならないのが空気である。いつも微風、大風も突風も吹かせない、穏やかな風である。その良さが分かったのは20歳頃。

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過保護、溺愛という風は一度も感じたことがない。が、おそらく父の心中はその気持ちが充満していたであろう。親子といえどもオス同士の交わりは、人間以外の動物にあっても、いかばかり距離感がある。その距離感は、遠慮という配慮ではないのか?父と息子はそういうもの。娘は父にとって異性でしかない。だから、分かり難いもの、分かり得ないものとの存在。

母と娘を見ていると、女同士は分かりすぎるから立ち入るのか、感性の世界観なのか、あまりに遠慮がなさ過ぎる。遠慮を思慮と置き換えれば聞こえはいいが、息子と父は同性理解があったとしても、相手の心に立ち入らない、越境しない事が不文律であろう。父と息子は、感情的馴れ合い関係であってはならないのかも知れない。


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