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『青春論』 ③

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『青春論』と題したからには青春を突きつめて考えたい。青春と言っても人生と同じように3つに分けられる。つまり、自分の青春、他人の青春、一般論の青春である。青春について書くなら自分の青春が的確であろう。なぜなら、自分と言う人間はこの世でただ一人である。他人の誰にも青春はあるが、この場合の他人とはとりあえず自分に近しい人をいう。

それでも何十人、ともすれば百人超える。彼ら、彼女らにもそれぞれの青春があったはず。一般論的な青春とは、これも他人の青春だが、近しい人に限定しない他人であるから、その数は何千万人、何億人となるが、「一般」とはそういうものだ。「一般論」とは、ある特定の、または個々の具体的な事柄を考えず、広く全体を論じる議論、もしくは考えだ。

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世間に広く認められる論ともいえるなら、一般論的青春も述べてみる。他人の青春は近しい知人、友人の青春について知りうることだが、とりあえずは自分の青春だ。「青春とは何か?」の基本概念は様々ある。サミュエル・ウルマンは、「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う」といった。少し長いが、長文ブログなので彼の『青春』という詩を置いてみる。


青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か

曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる
事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして
偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる


イメージ 2なるほど、言い得ている。が、言い尽くしてることもない。「若さ」も心の持ち方というように、多くのことの答えは一つではないし、物怖じすることなく、自分の考える青春、過ごした青春を記せばいい。とりあえず、世俗・一般的なある時期についての、「青春」に限定しよう。誰も青春期を過ごしたが、人によっては嫌な青春、辛い、苦しい、そんな青春もあったろう。
それでも青春を回想できるのは、現在があるからだ。とりあえず、「死なないでよかった」ということになる。その時期に起こったことは、「青春」の罪ではないが、罪を、「青春」に押し付ける人もいるにはいるが、起こしたのは自分である。自分の意思で起こしたものでないなら、「青春」の時期に起こったということだ。嘘も秘密も失敗も、「青春」の罪科ではない。

繰り返す。単に、「青春」の時期に起こったにすぎない。到底一言でいえない青春を、一言でいうなら、自分が人間で周囲も人間で、人間社会に生息する以上、人間関係に青春の基盤、基軸があったように思う。その辺りを回想し、青春を顧みながら解き明かしてみたい。「自分の青春」という前に、まず「自分」についてだが、「自分とは誰か?」である。

自分は自分というしか答えようがない。が、少し思考を広げ、問い詰めると、自分とは自分を認識できる何かが、自分を自分と定義しているようだ。その何かは何?というなら、それは「脳」であろう。となると、「自分とは脳である」といえる。自分の脳が、自分を自分だといっているのである。この世に生を受け、「自分」を意識しなかった時期もあった。

ところが、だんだんと自分を意識することから、自分という存在を認識し始める。その頃には自分の手足や身体は自分のものだと、そんなことを改めて考えなくとも、人のものでない以上、当然自分のものであるのは理解にある。「心」はどうか?手足や身体は自分の意思で自由に動かせるが、「心」は自分の思うように支配できるのか?正解は「出来ない」。

自分の心を支配する何者かが存在する。それが誰かといえば親。幼稚園や学校に行くころになると、「先生」と言う人たちも支配者として顔を現すことになるが、それまでは親が自分の心を支配する。なぜ親は子どもの支配者か?子どもは親によって作られるゆえの製造者特権である。支配者でない親もいるし、言葉に御幣があるかた保護者という言い方がなされる。

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「あなたが、こちらの子どもさんの支配者さんですね?」なこたぁ、社会では言わない。だからといって支配者という言い方が間違っているといえないような支配者的な親もいる。が、それでも社会にあっては保護者と呼ぶ。支配者的な親に支配者といっても、「違いますよ」と言うだろう。「失礼ね~」と怒るかも…。など意識にない親がほとんど、だから保護者と呼ばれたい。

それなら文句はない。日本で用いられる「保護者」とは、特定の個人に対して、個別の 法律に基づいて、保護を行う義務がある者。保護を行う以上、危険なことは制止させ、危険な場所への立ち入りを禁じたり、その他、保護者として子どもに様々な命令を発する義務を要する。これは権利ではなく、あくまで保護者としての義務である。なぜ権利でないのか?

子どもが主体であるからだ。養育は権利でなく義務である。そこをはきちがえない事。親は子どもを作り、産んだら自動的に保護者の命を授かる。子どもが頼むわけでもなく、法によっても義務と定められている。何も法など持ち出さずとも親が子を保護するのは本能に思えるが、一概にそうともいえないのが人間である。となると法で縛る必要も出てくる。

高等生物にとって、親が子どもを育てるのは、親にとっても喜びであり、幸せである。それはまた子どもにとっても幸せであるという共通の生物的現象である。小鳥でも野生の動物でも、親はイキイキと子どもを育て、子どもは親に育てられることでイキイキと成長する。これが一般的な動物の親の子育てであるはずだが…。人間の子育てはそうもいかないようだ。

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生物としての自然な法則からみるとズレがある。つまり、生物としての機能としてみると、不合理なところがあり、それが子育てにおけるトラブルとなる。なぜ人間は他の生物と同じでありながら、子育てに失敗するのか。理由はたくさんあって、学問的に解明しようという途上である。が、「人間という生物」は、極めて子育てに失敗しやすい奇妙な生物である。

育てる側に理想が高いというのも一因である。理想といえば聞こえはいいが、「欲」といえばどうであろうか?否定する親は多く、「欲だ何て心外、こどもの幸せのため」というだろう。そもそも「正しい育児」というものが人によって様々いわれ、個々の価値観によって育児書が書かれ、育児の基本概念より、人間の欲や競争心を煽る社会に移行して行った。

「育児とは何か?」という根本的議論はされるけれども、どうしても根本よりオプションの方に心がよれて行く。しかも、それが社会のニーズとまで叫ばれると、そんな育児書を教科書代わりに正しい子育てなどできるはずがない。いや、それらのどれもが、「正しい子育て」という時代だから、どれも間違いではないということになる。コレが現代社会の育児の現状だ。

育児とはいうまでもない、子どもの人間形成であり、保育学、児童学、人間教育学など、多くの部分で共通する。それすら困難で難しいのに、高文明になれば新しい価値観が問題を困難にする。日本が昭和30年ころを境に高度経済成長を遂げ、先進国の仲間入りした。先進国型社会は、「育児崩壊型社会」という病に感染するように、世界の先進国はこの病に侵されている。

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未開型社会に比べて、欧米先進国型社会になるにしたがって、家庭が崩壊し、親子関係が崩壊する。これは、親の子育てが崩壊するから起こる現象だ。何より怖ろしいのは社会環境が人間を洗脳することで、無意識に根本育児が崩壊することさえ気づかない。日本社会をみても、昭和30年以前の昔の母親は、現代ママに比べて驚くほど育児が堪能であった。

自分の育児はなってないということすら気づかないのが、現代社会の育児崩壊の特徴である。間違ったことさえも、「私の育児は正しい」とする親が、子どもに問題が現れたときに初めて、「なぜ、こうなったのだろう?」と驚き、ある親は「しまった」と気づき、別のある親は、「失敗だった」と非を認める。にもかかわらず別のある親は育児の失敗に気づかず悩む。

これらは雑多な価値観が進んでいき、教育産業の隆盛がブランド力を煽るなら、誰しもそれにあやかろうとする日本人的な悪しき付和雷同性であろう。他の動物は本能で子育てをするが、人間は本能習性以上の高度な要求を求めることで、多くのものに影響されやすいのであろう。自由主義社会は選択の自由はあるが、真に自由を求める人間は他人や周囲に影響されない。

つまり世間体にも影響されない。世間とは人であるから、人に影響されない確たるものをもつ人を自由人という。自分が親の拘束から解き離れ、望み、目指したものは「自由」の二文字であり、それが度々、自分を解放する自由にまで高められていった。自分の青春期というのは、自己を解放するための戦いであった。が、原初期は自己は解放するも他人は拘束した。

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他人を解放することが真の自己解放である事に気づかなかったのだ。その命題は結婚して子を持ったときに、親という製造者としてのエゴとの戦いでもあった。親というのは不思議なもので、自然に子を持つと無意識にエゴになりやすい。だから、自分がエゴであるかどうかも、分らない、見えない。そういう無意識の自分を見つめるもの、諭すものは何であったか?

無意識の自分の非を見つめさせるものは何であったか?無意識を指摘し、指導してくれる誰かが周囲にいるわけではない。人間の親はなぜ我が子をダメにするかは、人間の親が、「悪魔の愛情」を持つ生物になったからである。「悪魔の愛情」とは何か?それは子どもが親を悪魔だと思うことで認識される愛情である。自分の母親が悪魔だと感じたことは、青春期の勝利であった。

小学三年生あたりから、薄々違和感を持ち始め、思春期時期のもっとも関心事項である、異性に対する母親の断固とした態度、仕打ちが、親を悪魔と認識した。青春期は思春期ともいい、言葉の違いで区別はない。自分が悪魔の親を実感したことが、自分が親になったときに、悪魔であるかないかを都度、客観的に見つめられるようになった。これも悪魔の親の恩恵である。

「悪魔を知らずして悪魔が分かろうはずがない」の論法からすれば、悪魔を見たことが悪魔を知らしむことになる。悪魔の親に苦しんだなら、悪魔の親になりたくない。しかし、一般的に子どもは、親にされたことを踏襲するといわれている。親に虐待された子は、自分が親になって子を虐待するという。なぜか?「やられたからやり返せ」の論法ではない。

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やられた(虐待)ことが、当たり前だと感じて内面化されてしまうのだ。したがって同じ轍を踏まないためには、「虐待行為」を批判すればいいとなるが、それは言葉の上のこと。殺人は悪いと知っていても実際に殺人を起こすのは、人が嫌(憎い)だから殺すのであって、殺人の善悪良否の問題ではない。だから、虐待を非難するだけではなく、虐待した親そのものを非難しなければダメ。

そういう親を徹底して嫌うことで、虐待行為を非難することになる。自分が徹底して母親を嫌悪した事が、母から受けた「悪魔の愛情」一切を否定できた。本当にしたくないこと、本当に嫌なことは、徹底嫌悪すべきである。「目の上のコブ」と言うのは用例としてはかわいいものだ。自分の目の上には悪魔がいた。自分の青春期の入り口は、悪魔との熾烈な戦いだった。


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