Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

『青春論』 ②

$
0
0

イメージ 1

過去、青春については表題のあるナシに関わらず書き綴ったが、いざ『青春論』などと気負うと何を書けばいいのか。青春を振り返って思うのは、ポジティブな視点、ネガティブな視点の両方だ。苦あり楽あり、山あり谷あり、悲あり喜あり…、どれも青春、すべてが青春だ。怒りもあり静寂もある。人によっては暗い青春もあり、輝いてる青春もある。輝いてる青春か…

青春時代にもっとも親しまれていたカーペンターズというグループがあった。彼らを知らない世代も多くなったが、今にして思えば奇蹟のバンドだった気もする。カーペンターズの魅力はリードボーカルのカレンの透明感のある声と、実兄リチャードになる美しいメロディ、そしてハーモニーである。こういってしまえば音楽の魅力すべてを言い尽くしている。

奇蹟と言ったのは、カレンの美しい声であろう。それにしても「透明感のある声」とは異な表現であるが、それでいて的を得ている言い方であろう。透明とは透き通ったとの意味で、透明感のある湖、透明感のある海という表現にならい、透明感のある歌声とは、混じりけのない透き通った声、いわゆるクリアボイス。デビュー直後の岩崎宏美もそういわれていた。

個人的には夏川りみ、石川さゆり、今井美樹なども声の成分に不純物質のない透明感がある。国外ではリンダ・ロンシュタット、メリー・ホプキンの歌声が頭に浮かぶが、さて、カレン・カーペンターズの歌声に癒された青春時代、もっとも好きな曲が『青春の輝き』であった。美しい、本当に美しいメロディー、詞も美しい。この歌詞を訳した時の感動を今も忘れない。



I Need to Be in Love (青春の輝き)

The hardest thing I've ever done is keep believing
There's someone in this crazy world for me
The way that people come and go through temporary lives
My chance could come and I might never know

I used to say "No promises, let's keep it simple"
But freedom only helps you say goodbye
It took a while for me to learn that nothing comes for free
The price I paid is high enough for me

I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find

So here I am with pockets full of good intentions
But none of them will comfort me tonight
I'm wide awake at 4 a.m. without a friend in sight
I'm hanging on a hope but I'm all right

I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find


一番難しいのは信じ続けること
このいかれた世界の中に私のための誰かがいるってことを
日々の暮らしの中でたくさんの人が通り過ぎていく
チャンスはあるのかもしれないけれど それがいつかは私にはわからない

いつも言うの 「約束なんてしないで ややこしいことはやめよう」
でもでも『自由』なんて結局 あなたにさよならを
言わせるためのものでしかなかったのね
少し時間は必要だったけど、
物事が思うようにはいかないことを学んだの
代償はあまりにも大きかったけどね

わかってるの 恋をしなきゃいけないって
わかってるの 日々を無駄にしすぎたって
わかってるの こんな不完全な世界に完璧を求めていたって
今もそれを見つけようとしてるわたしはなんておバカさん

だからこんなにもやりたいことはいっぱいで
そのくせどれにも満足できないでいるわたしは 今夜もさびしい
午前四時だというのに一人で起きていて そばにはだれもいない
希望にしがみついている私 でも大丈夫

わかってるの 恋をしなきゃいけないって
わかってるの 日々を無駄にしすぎたって
わかってるの このほんとに不完全な世界に完璧を求めているって
そしてそれを見つけようとしてるなんてばかだってことも


イメージ 2


『青春の輝き』の原題は、「I need to be in love(恋をしなくちゃ)」である。『青春の輝き』という邦題は悪くない。つまり、青春=恋にかけている。恋に輝くのが青春ということだ。恋はloveで、「love・loveな二人」、「love・love同士」といえばいかにも青春だ。男と女が恋をすれば、一日とて離れられない気持ちになるし、そんな所から同棲がスタートする。

同棲とは字の如し、棲みが同じ、つまり一緒に棲む。住むではなく棲む。「棲む」は動物が巣を作ってそこで生活している状態、「住む」は人が家や場所を決めて生活している状態。どう違うのか?どことなく違う。「住む」には定住、安住というような、確たる居住的な感じ、「棲む」はそうではなくて、原始的な営みが感じられる。「終の棲家」などというように…

「同棲」がまだ社会的コンセンサスを得ない時代、不健全さ、後ろめたさがあった。あったけれども多くの人が憧れていたし、だからそこに踏み切る者も多かった。その前の段階として「通い妻」、「週末同棲」という言葉があった。言葉通り、恋人の棲家は別々であるが、いずれかの居住先に通う頻度が多い場合に「通い妻」というスラングを使う。それ以外は部屋に遊びに来る。

自分は年代的に同棲の経験はない。恋人と一緒に棲むなど考えたこともなかった。不健全というより、相手の親の手前であろう。男は別にどうこうないが、女性はそうもいかない。『同棲時代』という漫画が、青年漫画雑誌「週刊漫画アクション」に、1972年3月2日号から1973年11月8日号まで80回連載された。連載中の1973年2月、沢田研二と梶メイコの主演でテレビドラマ化された。

イメージ 3

反響が良かったのか、1973年4月に由美かおる・仲雅美主演にて映画化される。主人公を真似るように若者が同棲を始めるようになった。「同棲」という響きにあったエロチシズムは跡形もなくなり、恋人が一緒に棲むなど何でもなくなった。何かにつけて物事が一般化されると、一般化される前が一体何であったのか?それがそんなに特別なことだったのか?と思わされる。

慣れと言うのは不思議なものだ。それにつけても、「同棲」というのは、親の監視や社会的偏見から自由になるということなのか?こんな話を聞いた事がある。若い女と不倫していた男が妻子と離婚し、一緒になった。そうして数年たったある日、「何でこんな女と一緒になったのだろうか?妻子を捨てたことは後悔している」などと言った。よいことなどなかったようだ。

彼女が可愛く、いい女に見えたのは、愛人であった時のこと。そんなものかも知れない。そんなものだろう。男が苦悩し、悩み、自己と戦っているその事が、彼女を可愛い女にしていたのだ。そういう不安定な状況で戦ってる姿こそ男も輝いていた。そうして安定を得たときに、もう人間は戦うものがない。捨てたものは戻ってこないし、捨てたものに未練が湧いている男である。

確かに同棲は自由である。法的な権利も拘束力もない、義務もない、生活スタイルに対する社会的制裁もない。どちらかが荷物を持って出ればおしまいの関係だ。荷物らしい荷物もないであろう。パジャマと洗面用具と数着の部屋着…。近年は結婚の前段階で同棲する。それを良いとする意見もある。合わない同士が結婚、離婚して籍を汚すよりもいいかも知れない。

イメージ 4

それにしても人間同士というのは分かり合えるものだろうか?人と人が本当に分かり合えるというのは、どちらかが一方に追従している以外にないのではないか?異なる意見を持ってる同士が言い合えば対立するのは当たり前だし、人間は自分の感性で他人を捉えてしまうものだ。エゴイスティックな人間は、他人の無欲な行動を私利私欲からの行動と取るだろう。

素直でない人間は、他人の素直な言葉に腹黒さを見るだろう。嘘つきの人間は他人のいう真実を嘘とみるだろう。正直な人間は他人の嘘を真実ととるだろう。僻みっぽい人間は他人の感謝を欺瞞ととるだろう。女がくだらないことを言い、言いながらもそれを理解して欲しいという。理解するって、そんな幼児的言動を?と思いながらも「分かった!理解するよ」という。

その時の女の心理的満足感は、女の幼児レベルに落とした男の恩恵である。それでいいのか?まあ、自分はそんなことはしない。そんなことでオトナの女を喜ばす意味が感じられない。人を喜ばせるのは善意であるべきだし、悪意で喜ばせるというのは相手を見くびり、バカにしていることになる。そんなことなら喜ばれるより、普通に対応して嫌われる方がマシだ。

自分の嘘の中に存在する相手、相手の嘘の中に存在する自分…に、意味がある?「私のいう事を理解してくれないの?」と言われて、理解できない物はできない、できるハズがない。黙っていう事を聞けというなら聞くこともあるが、理解となるとそうは行かない。自分の場合、「オレのいう事を理解してくれ」という言い方はしない。これは無条件の押し付けだ。

イメージ 5

そうではなく、何かを言った後で「今の事を理解できるか?」と聞く。「理解できる」ならいい、「理解できない」も大事である。理解できないなら、理解できるまで尽くすべきであろう。相互理解とはそういう努力の上になされるものだ。女が何かを頼む前に、「私の頼みを聞いてくれる?」という。小中学生がいうならいいが、オトナの言葉としてはマヌケである。

それに対してマヌケ男が、「分かった、聞くよ」と呼応するが、その要求はとても聞けるものでなく、「それは無理だ」と言ったら、「聞いてあげるって言ったじゃない」と女は責める。まあ、ガキのじゃれあいならともかく、オトナの会話ではない。こういう場合、「頼みごとをする前に、『聞いてくれる?』みたいなアホなこと言うな」、と言っておけば二度目はない。

至らぬ者同士、アホでマヌケな同士の馴れ合い、それでも青春は輝いている。一人で生きるよりは不完全な二人の鬩ぎあいに輝きをみる。スゴロクの上がりは遠き彼方である。青春時代に大きな望みを抱くことに反対はないが、そんな希望や野心が若者を不安にすることがある。その場合の希望や野心とはどこかオカシイ。世間体?周囲への見栄?それを希望というのか?

そういう希望や野心は人をエネルギッシュにはしない。「○○で一応カッコつけておこう」そんなものを野心といわない。が、青春期に人は見栄を張るし、「カッコイイ!」が何にも増して大事。「カッコイイ!」とは何だ?人はどんなことを「カッコイイ!」と思い、「カッコイイ!」というのだろう。いろいろ思考すると二つの場合の「カッコイイ!」がある。

イメージ 6一つは長けた才能、能力の保有者などへの憧れ、もしくは天井人のような人を「カッコイイ!」と思う。もう一つは人間の抑圧から派生するカッコよさ。いうまでもない、人間は欲望の動物だ。だからこそ欲望に生きるひとを羨ましいと思う。その人が堕落した人間であっても、欲望に生きる人を「堕落の栄冠」などと思う。見下げる人間もいるが、妬み半分と思っていい。

人が堕落をとがめるのは、堕落への見果てぬ夢があるからだ。己に素直に生き、堕落してしまえばどんなに楽かと思っている。人間は日々見栄や虚栄で苦しんでいる。それは将来を重んじればこそ、出世を望むからこそであろう。出世も見栄もなければ人は今を犠牲にしない。果て無き未来のために己を殺している。ところが、見栄も体裁も構わず何かをやる人。

やれる人、やっている人、思わず「カッコイイ!」となる。そんなことを口が裂けても言いたくない人もいるが、それはそれで意地だからいい。つまり「カッコイイ!」は、人が奥底で望んでいながら、自分には決してできないことをやる人に思わず出る言葉である。トータルとして思考した、「カッコイイ!」ではないにしろ、思わず出る言葉。人間は抑圧の動物である。

それを理性という。渡辺淳一の『失楽園』は、日本経済新聞に連載されていた。多くのマイホーム企業人、経済人が、主人公に羨望を抱いたことか。自分の勇気のなさ、体制に縛られ、逸脱できぬも歯がゆさ、どかしさ、そして願望…。「カッコイイというカッコよさと、カッコのわるいカッコよさ」が、存在するのがわかる。カッコよさに憧れるあまり疲れた奴はいた。

他人の目を意識しすぎた疲れである。「カッコイイ!」とは抑圧された現代人の「疲労」を表す言葉でもある。無理は禁物だ、無理をしても続かない、疲弊するだけ…。この道理が分からない年代もまた青春期である。彼らが自身の深みに到れないのは、自らを偽っているからだ。受験勉強の成功者は決して満足していない。なぜならその代償がこれっぽっちだったり。

イメージ 7が、周囲はそれを認めない。「東大生」という栄誉を得た人間は、腐っても東大生である。東大に行かないと将来がないと思ったか、東大に入れば将来が約束されてると思ったか、この二つは微妙に違うがどちらかであろう。だから遊びたい気持ちを抑えて勉強した。であるならその代償がないのは不公平だが、これといった代償が叶えられる東大生ばかりではない。東大生という看板を下ろすことはできず、その看板を背負ったまま虚飾を生きる不幸。実際にそういう人間は、「所有の不幸」である。もって不幸になる事は多い。無学歴者を、「不所有の不幸」というが、彼らには適材もない、適所という働き場もない。どこでも適材、どこでも適所である。ところが、所有人間には適材だの、適所だのと、自他共に決めた何かがある。

散歩の途中、工事のトラック搬入を紅白旗で整理する警備員と会話した。「日給7000円だけど、楽でいいよ」。「確かに楽な仕事だね」。「カッコ悪いよね、誰でもできる仕事だし」。「カッコ悪いんですか?思った事はないけど」。「最近は大卒が多いよ、何でこんな仕事をするんだと、この間も若い大卒に聞いてみた」。「そんなこと聞くんですか?何でまた…」。

「何でって、カッコイイ仕事じゃないし、それに大卒が…」。「…、聞くのはちょっとイジメになるかも。何て答えましたか?」。「仕事ないんで、といってました」。「立派な仕事でしょう?歩行者を守る、なくてはならない大事なね」。「いいこといいますね」。「日頃から思ってることです。職業に貴賎はないし」。「きせん?」。「長話ですみませんでした。では…」

彼らはやはり大卒にそういう言い方をするんだろうな。聞かなくても分かりそうなものだが。聞くことが彼らの優越感なのかもしれない。ということは、聞かれる側には劣等感となる。社会には「歴」の差が優越と劣等の逆になる事もあろう。それも社会である。本来は多様であるべき人の優劣を、単純に学歴でみる社会に適応するためには、東大にもバカがいることを知ること。

東大=秀才という妄信を戒めて現実を知ることは、中卒、高卒、三流大にも賢く、有能な人間がいるのを知ることでもある。暖簾だけで老舗を評価するから、「赤福」や「吉兆」に騙される。学歴、家柄で人間を見るのを慧眼といわない。さらに言うなら、美人やイケメンが心ある人間か?ということにも派生する。外観だけでクルマを買うか?家を買うのか…?

イメージ 8


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles