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『青春論』

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イメージ 1安吾は『青春論』の中で「淪落に就いて」の段がある事は書いた。それとは別に『淪落の青春』という表題の短編を書いている。前の記事にも書いたが、「淪落」という聞きなれない言葉は、落ちぶれること。落ちぶれて身をもちくずすこと。彼は都度自らを淪落者といっている。安吾はまた同じことを書くクセがあり、それはクセというよりも彼一流のクドさでもあろう。

同じことを繰り返して言ったり、長々と言い続けたりで、相手をうんざりさせることをクドいというなら、自分も負けず劣らずクドい人間である。クドさは嫌われるが、クドさを弁護する言葉があるなら、「一生懸命」、「熱心」と言うのが当てはまるかも知れない。当てはまっても、はまらなくとも、される側、聞かされる側にとっては、いい加減うんざりであろう。

「1回言えば分かるよ!」と、しつこい母親に子どもは必ず言う。言うけれども、それはクドさに対する反抗であって、1回言って分かるような子どもなんかそうそういない。母親はいかに自分がクドいか知らぬつつ、あるいは認めつつも、母親の子どもへの口うるささは、あれはもうクドさを越えた精神病ではないかと思ったこともある。いうまでもない自分の母親だ。

人間があそこまでクドくなれるものだろうか?という問題提起もさせられるほどの異常さであった。あそこまでクドくなれるのは、もはや相手(子ども)のためというより、自分のためではないか?という結論に達した。つまり独り言の域であろうということだ。なぜなら、相手(子ども)が聞こうが聞くまいが、そんなことはお構いナシに速射砲ごときの言葉である。

何かを言い聞かせようとするなら、言い聞かせるために、言い聞かせるような言い方をすべきと思うのだが、決してそのような言い方はしない。例えば電気をつけっぱなしにしていたとき、「電気消せ!」と、その言い方は、まるで軍隊の上官の命令である。「突撃せい!」と同じ言い方である。軍隊なら黙って従うと思うが、親なら別に命令違反もクソもない。

確かに「突撃せー!」の方が勇猛だし、兵士にも勇気を与えるだろう。「さあ、突撃しましょう!」こんなオカマな上官などキモイわ。母親と言うのは何を勘違いしているのか知らんが、製造者の傲慢とでもいうのか、いちいち命令口調であり、それだと子どもは義務感であるとか、言いつけを聞こうと思う以前に反発する。小野田さんは、「反発は甘えだ」と言った。

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確かにそういう場合もあろうが、本当に言い聞かせたいなら、「電気を消そうね」とか、「またついてるわよ」とか、「無駄をなくそうね」とか、やさしい言い方があろうというものだ。母はある時父にこのように注意された。「そういういい方は反抗するだけでダメだ。言い方を変えろ!」その時母は、「1回言っても聞かない子に、やさしくなんか言えるか!」と言った。

彼女の男勝りの言葉は凄みがある。父はその言葉に対して返し言葉もあったと思うが、そういう投げやりな物の言い方には口をつむぐ人だ。おそらく、「言っては見たがダメだな、こりゃ」という感じだろう。加藤茶や志村のバカ言動に対して、「ダメだこりゃ!」と、いかりや長介が毎度いうのは出来合いコント。だから面白いが、家庭の中のドタバタはコントにあらず。

母親の言う、「1回言っても従わないのに、やさしくいってられるか」というのが教育的効果として正しいと思う母親は、この世に誰一人としていまい。たとえ重量が軽くても、一応脳ミソのある人間は、そんな言い方が子どもにプラスになるとは思わない。ではなぜ、そんな言い方になるのか?ショートしやすい性格だからだである。よく使うショートとは?

ショート・サーキットの略で、意味は短絡。普通のサーキット(回路)には、電流が過大に流れるのを防ぐために負荷(抵抗)が取り付けられている。ところが、ショートさせると一瞬に過大電流が流れ、発熱どころか、電流量によっては発火、爆発することもある。つまりショートした母親は、発熱、発火、爆発していることになる。これは子どもにとって大被害である。

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なんでそうなるのか?冷静という抵抗を飛び越えるからだ。電気回路のショートが良いわけがないように、脳回路のショートがいいわけない。電気回路のショートも、電気機器のためではないし、堰き止めた電流が勝手に流れたいだけだ。脳回路も同じことよ。子どものためではなく、自分が面白くないから勝手に発火、爆発であり、これを傍から見るとバカ親という。

勝手に負荷(抵抗)を飛び越えないよう、ちゃんとした回路を保つべきである。何度いっても電気を消し忘れる子というのは、遡れば幼少時期の親の躾の問題であろう。それをしなかった親が、今になって何をいってるんかいなである。それなのに今さら躾とムキになって、しかもその言動は躾になっていないにも関わらず、ショートするなんざ、バカ親である。

忘れものが多い子どもは、自分がそうしたのだと自覚し、声を大きく怒鳴って解決するものではないし、もっと原点に立ち返って、別の方法を模索するしかあるまい。そうやって毎日毎日、ドリフのコントをやる事が楽しいとか、生き甲斐ならいいけれども。自分のことは棚に上げて子どもが、親の背中を見ていないとでも思っているところが、バカだと思う。

「何よ、この部屋!ちゃんと片づけなさい」と言ったとする。「お母さんだって、いつも机の上とか散らかしてるじゃないか!」と、当然子どもは言う。そこで何と答えるのか?「今日はきれいにしてるでしょ!」とでもいうのか?それは、子どもに片づけろと言うために即席に自分がきれいにしたのか?そんなインチキが通用すると思うならバカでしかない。と、バカの三連発。

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子どもが乱雑な部屋をなんとも思わない環境に、親が育てたのだということに気づかないのだろうか?「いや、気づいているけど、でも、親として言わなければならないでしょう?」と親は言う。親として言わなければならないのは、親としてキチンとしていなかった、躾もしなかった、だから後悔していても仕方がないから言うのだという、「今さら」の論理である。

どうしてもっと小さい頃からキチンと躾をしなかったのだろう?と、ほとんどの親が思うこと。「ああもしておけばよかった」、「こうもしておけばよかった」と思う人が、後悔をする人である。子育ておいてそう言うことが多いのは分かるし、それほどに子育てに苦しんでいる。だからと言って、命令口調が効果があるのか?後手を引いた段階で高圧的になって効果がある?

「風邪はひいても後手ひくな」という格言もある。子ども一切が親の思うようにならないのは当然としても、自分の場合は子育てに何の悔いもない。「愚かといえば常に愚かであった僕が、唯一信条として果たせたのが『後悔すべからず』である」と安吾もいうようにである。真似ているのではない、安吾もそうだったということ。後悔してもはじまらない事は多い。

「後悔しても始まらないから後悔しない」というのも消極的だが、それでも後悔しないのは、変な欲を持たない意味においていい。数十年前の世相は、「末は博士か大臣か」と息子を持った親の願いであったが、これはもはや死語。まず、耳にすることはない。いかなる職業であれ、フリーターであれ、親は後悔しないのがいい。現にひきこもりであっても後悔しない親もいる。

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それも一つの親の形だが、社会に適応し、自分なら一人で生きていけるよう最大努力をする。まあ、そうは言うけど簡単ではないし、だからそんな風にはならないように最初から躾けるよ。子どもはある日突然、ひきこもりになるというものではないし、仕事をしないで親に依存して食って行ける、という価値観を持つものではないし、様々な局面において予兆はあるものだ。

そこを見抜いて適切に対処するのも親の力量である。子どもに苦労する親は、親の力量不足であったか、横着であったか、勉強重視で生活感を身につけさせられなかったか、何か欠けたものがあったと思われる。小さい子どもを持った親からよく聞く言葉で、自分が大嫌いなのは、「もう少し大きくなったら分かる」、「大人になったらできるようになるでしょ」など。

これが安易でなくてなんであろうか?今できないことが大人になったらできるというのか?こんな言い方は横着な親、ズルい親、いい加減な親である。「今できない事は、大人になってもできない」と思うべきである。確かに本人の意識や努力で克服できることはあっても、基本的な生活習慣や態度は、無意識に内面化されるから、知らず知らずのうちに身についてしまう。

無意識の内面化ほど怖いものはない。好きな諺や慣用句は山ほどあるが、「歳月人を待たず」と言うのも実感させられる。朝起きて、一日は24時間もあるし、それはそれで長いものだが、過ぎてみてこれほど早いのも時間である。安吾の文章を読んで感じるのは、過度に切迫感をもった人だ。「良識」を否定し、「良識」から「真」は生まれないとした。

イメージ 6自身を堕落させることで、政治や社会を斬りまくった。松下幸之助のような成功者の名言は何ひとつない。安吾と幸之助は丁度一回り違いの午年である。安吾は丙午だ。おそらく安吾の言葉に「松下幸之助」などの文字はない。場違いも甚だしく異なる二人である。生身に生きる安吾にとって、経営の神様の言葉、経営術などどうでもいいこと。

安吾は1955年に他界したが、その年幸之助は全国長者番付で日本一に輝いた。そんな年だが、安吾には何の興味もなかったろう。彼は権謀術数には騙されない性質であり、文学界とて権謀術数に長けてはいるが、そこらあたりも見抜いていた。世の中で美談になる出来事にも騙されない。「きれいごと」の中にインチキやウソが充満するを見抜いていた。

文学ですら美辞麗句の巣窟であるのに、商売がキレイなはずがない。安吾はお人好しの日本人が陥りやすいインチキに溺れる体質を徹底して暴いたのだ。宮本武蔵の欺瞞も、彼の『青春論』には不可欠だったように…。『デカダン文学論』では島崎藤村を不誠実な作家といい、横光利一の文学的懊悩を、真実の自我による血肉のこもった苦悩にあらずと避けた。

藤村も横光も、「真実の人間的懊悩を、真から悩んで突き止めようとはせず、処世の便法によって処理し、終生自らの肉体的な論理によって、真実を探究する真の自己破壊というものを、凡そ影すらも行いはしなかった」。「藤村も横光も糞マジメで凡そ誠実に生き、かりそめにも遊んでいないような生活態度に見受けられるが、彼らは文学的には遊んでいる」と手厳しい。

青春時期に学ぶことは遊ぶことであろう。遊びの本質は自分に素直になる事である。人がどうでも、視線がどうでも、己に忠実に生きること、それが即ち遊ぶことである。遊びから得た経験は、他の何事にも変えがたいものである。「自分に素直になる」というのは、自分を真から見つめることでもある。自分は自分の求めている物を偽ってはいないか?

そういう自問をすることだ。他人の評価の中で生きていないか?そこを見つめることも大事なところだ。他人の目を気にし、縛られる生き方から脱却することだ。だから安吾を読むのである。他人の目に振り回されたり、他人のちょっとした言葉に悩まされたり、人と違うことに不安を抱いたり、青春は傷つきやすいものである。だから安吾を読めばいい。

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もちろん、他にも自分を啓発してくれる本はたくさんあるが、自我の探究という点において恰好なのが安吾の言葉である。敗戦に打ちひしがれて、誰もが戦争を憎み苦しむ、そんな同胞に対し、「戦争は人類に多くの利益をもたらしてくれた」という安吾の『戦争論』の書き出しは、なんともショッキングである。が、打ちひしがれても起こったものは起こったのだ。

どう嘆いても、どう苦しんでも、戦争の始まる前には戻れない。ならばこの際、戦争のいい面を見つめ、それによって戦争を肯定してやろうではないか。戦争はいけない、泥棒は罪だ、などは誰でもいえる。が、言った人間が戦争を止められるのか?泥棒に言い聞かせ、この世から盗っ人をなくせるのか?敗戦の苦悩を癒すことができるのか?安吾の辛口は、実はやさしさである。

ニーチェは悩める人に同情すべからずといった。同情は彼自身の力で立ち上がり、立ち直ることを遅らせるし、阻むこともあるといった。病める人には柔らかいベッドを与えず、堅いベッドを与えるべきといった。越王勾践に父を殺された病める呉王夫差は、自らは薪の上で寝ることの痛みで、その屈辱を思い出すことから生まれた、「臥薪嘗胆」の言葉が過ぎる。

青春とは病む時期である。病み、苦悩し、耐え忍ぶ、それら一切が己の糧になると、その時は誰も気づかない。が、間違いなくそれらはプラスになる。その時、その場では到底思えないが、「これは絶対自分のためになる」と、信じることはできる。絶対という言葉は好きではないが、「絶対に糧になる」と言い切りたい。自前の『青春論』の最大の要旨がこれだ。

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