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「作家と読者」という関係 ⑤

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坂口安吾に『青春論』というのがあって、かなり早い時期に読んだけれども、これのどこが『青春論』かとガッカリした事がある。青春論とは、青春を論ずるものであるから、青春を論じてもらわねばならないが、安吾の『青春論』は、4部に分かれていて、1.わが青春、2.淪落に就て、3.宮本武蔵、4.再びわが青春、という構成だ。「淪落」とは落ちぶれること。

「わが青春」の段の中で安吾は自分は70歳になっても青春ではないか、それくらいに青春と言うのは何時から何時というような区切りのない呼称と述べている。安吾は道半ば49歳で他界したが、老成せざる者の愚行が青春という定義なら、自分は永遠に青春であろうということだ。その段にて安吾は青春についての象徴的な話しとして、世阿弥の『檜垣』について述べている。

檜垣寺に毎朝閼伽(あか)の水を汲む百歳にも見える老婆の話である。老婆は若き頃は都で美貌を蓄えた白拍子であった。話の筋は省略するが、若い美しい自分に執着して、老醜の苦しみが強すぎて往生できなかったようだ。僧の前で在りし日の姿を追うて恍惚と踊り狂ったことで妄執が晴れて成仏できたと、安吾は解釈している。それほどに女性と言うのは若くて美しいことが大切なのだ。

たとえ老醜となろうとも、身は朽ち果てて魂だけになってしまっても、澄んだ水、夜空に照り輝く月を見て、舞に興じる刹那に若く美しいままに永遠に生きているのである。坂口が『檜垣』の話を宇野千代に聞かせたら、宇野はよほど胸を打たれたのか、それ以来謡曲にのめり込んだという。1897年から1996年までほぼ一世紀を生きた宇野だがこの話を聞いたのが40代の半ばだった。

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安吾は自身の過去について斯く述べている。「愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは『後悔すべからず』ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。」

安吾の論には必ず理屈がつく。ひねくれた思考と言う指摘もあるが、ひねくれたなりに理屈で収めるところが安吾たるゆえんだ。彼は論理の人だし、いわゆる理屈コキであるが、かといって感情的でもある。論理的な人と感情的な人は、どう転んでも水と油で、だから女は男を理屈コキと攻め立てる。男は女をその場限りの後先ないバカと罵る。まあこれは仕方あるまい。

論理的で感情的な人間というのもいるにはいるし、その点安吾はそういう人だ。理性に薪をくべれば、感情の水位もあがってくるような、彼の頭脳の仕組みである。一般的にヒトが貶したり、バカにしたり、嫌がったりするつまらないものをワザと誉めてみせるという論理遊びを好む。自分もそうだが、これが結構面白い。多勢に無勢と言うのは、多数派には敵わないという意味だ。

そんなことはない、勝って見せましょうというのが少数派である。『枕草子』の清少納言も同じような感性の所有者である。西洋にはもともとレトリックという学問があり、相手を穏やかに(あるいはムリヤリ)説得する術を学ぼうということだが、この学問の枝葉の、さらに枝葉なところには、「逆説的賛美」というものも存在する。言葉を変えると天邪鬼といわれたりする。

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自分なども『枕草子』の影響もあってか、逆説美に感動する。美人よりも不細工な女に感動する。物心ついた時から、気づけば少数派でゴザった。不細工な中からいいものを見つければより輝くことになる。美しいものからは欺瞞や虚飾を探し出す。そうでなければ面白くないだろうに。美しいものを美しい、不細工なものを不細工といって、どこが面白いのかである。

『痴愚神礼賛』は、ネーデルランド出身のルネサンス人文主義者、デジデリウス・エラスムスのラテン語による 諷刺文学である。痴愚の女神は、世の中のあらゆることどもが自分のおかげを蒙っていることを自慢する。なかでも人間の生命をもたらす生殖行為は、下品な器官がかかわっているが、それこそ自分の専売特許たる情念が駆り立てるところのものなのだと主張する。

「皆さんに伺いますが、神々や人間はいったいどこから生まれるのでしょうか。頭からですか?顔、胸からですか?手とか耳とか言ういわゆる上品な器官からでしょうか?いいえ、違いますね。人間を増やしていくのは、笑わずにはその名もいえないような、実に気違いめいた、実に滑稽な別な器官なのですよ。」とまあ、こんな風に、『痴愚神礼賛』は笑いの文学である。

「これは痴愚神たる私の意見ですが、気違いになればなるほど幸福になるものです。ただしそれは、私の領分内のさまざま狂気沙汰にかぎりますよ。もっとも実際は、この領分というのがじつに広いのでしてね。そのわけは、人類のうちで、あらゆる時期を通じて聡明で、一切の狂気を脱却しているような人間は、おそらくたった一人もいないからです。ようするにちょっとした違いということです。

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つまり、南瓜を女だと思う男は狂人扱いにされますが、それは、そういう思い違いをする人間がごくわずかだからですね。ところが、自分の細君がたくさんの情夫を持っているのに、自分は幸福な思い込みから、我が妻こそペネロペの貞淑さを凌駕すると信じ込み、鼻高々になるような男は、誰からも気違いとは呼ばれません。つまり、こうした精神状態は、多くのご亭主たちに共通のものだからです。」

エラスムスの主張は逆説そのもので、『痴愚神礼賛』は単なる風刺文学ではない。そこにはルネッサンスの時代が生んだ、開放的な笑いの精神が息づいている。彼がこれを書いたのは16世紀初頭の1509年、トーマス・モアの客分としてロンドンに滞在していたときである。痴愚神のラテン語名 Moriae は、モアのラテン語表記 Morusに通じ、エラスムスはこの著作をトーマス・モアに捧げた。

すでにルターによる宗教改革運動が芽生え始めており、ついに1517年、ルターはカトリックとの断絶を結実させた。エラスムスは生涯カトリック教徒として過ごしたが、宗教の腐敗を嘆きながらもカトリックを否定することなく、人間的な宗教として復活させることに意を砕いた。『痴愚神礼賛』は、エラスムスの問題意識からカトリックの内部批判の書と受け止められてきた。

救いと快楽を金銭によってあがなっていた当時のカトリック教会の腐敗を、痴愚神というカトリックの女神に自賛させることによって、逆説的にあぶりだそうとしたと解釈されてきた。それにしては、痴愚神の自画自賛があまりにも度を過ごしている。書かれた当時は空前の反響を呼んだが、全編にあふれる度を超えた猥雑振りがヨーロッパ人にとっては胡散臭いものになっていった。

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安吾の『青春論』になぜ「宮本武蔵」が登場するのか?安吾はその理由を述べている。まあ、自分も同じか。「この表題で何で○○の話がでてくる?」みたいな…。「突然宮本武蔵の剣法が現れてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかも知れないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは寸毫といえども無いのである。

僕には、僕の性格と共に身についた発想法というものがあって、どうしてもその特別の発想法によらなければ論旨をつくし難いという定めがある。僕の青春論には、どうしても宮本武蔵が現れなくては納まりがつかないという定めがあるから、そのことは読んで理解していただく以外に方法がない」、安吾。自分はあらゆることは繋がりがあるとしたが、安吾は彼なりの理屈がある。

安吾の、『青春論』に宮本武蔵の関連を読みとろうとする必要は無意味であろう。安吾自身が書きたいから書いているのである。といいながら、武蔵と『青春論』の関係が気になる自分である。よって、安吾に文句は言わず、彼の思いを探ってみた。武蔵はその生涯で60数度仕合をし、一度も負けなかった。それは一か八かの絶対局面にあって、奇蹟の術と安吾は讃える。

ところが28の若さで引退し、『五輪書』なるものを書いた武蔵を鋭気衰えた下の下の行為と批判する。60数度仕合をし、一度も負けなかったことを誇示するよりも、生涯やり通して欲しかったと安吾は書いている。「そのうち誰かに負けて、殺されて、そうすれば彼も救われたし、それ以外に救われなかった武蔵であった」との意味は何をいってるのであろうか?

イメージ 6武蔵の剣法は敵の気おくれを理由するばかりか、自身の気おくれまで利用し、これすら武器に用いる剣法であり、溺れる者藁をもつかむというさもしい弱点を武器にまで高め、之を利用し、勝つ剣法であって、これこそが真の剣術と安吾は言うのである。なぜなら負ければ自分が死ぬ、だから是が非でも勝つことの極意こそ剣術の極意というのは、確かにそうであろう。しかし、武蔵のような生に執着する剣術は当時は受け入れられなかった。巨人軍のV9を果たした常勝監督川上哲治が嘆いていた。「勝つことを強いられ、勝つことだけを考え、それを実践したのに、なぜそれがファンに受け入れられないのか、自分には理解できなかった」と晩年川上はこぼしている。常勝球団巨人軍にとって絶対不可欠なことが「勝つ」という事である。

川上の嘆きは当然であろう。武蔵の時代の武士の心得は『葉隠』にあるが如く、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」であった。武蔵の「生」に執着する剣法を真髄としながらも、都甲太兵衛と勝小吉を引き合いにだして安吾は武蔵の批判をする。太兵衛も小吉も「いつでも死ねる」という覚悟を持った人物で、その姿勢について武蔵は「これぞ剣法の極意」と称している。

ところが武蔵の歩いた道はそうではなく、いつ死んでもいいという覚悟もない、胆の据わらぬ彼が編み出した独自の剣法は、凡人凡夫の剣法であると安吾はいう。一体どっちなんだ?ある面武蔵を評価しながら、ある面こき下ろすという定まらぬ視点を安吾はもつ。そんな武蔵が『五輪書』で勝つことの秘伝を説くなど、その満ち溢れた自信が、安吾には我慢ができなかったようだ。

わずか28歳で仕合を止めて剣術書など書くより、己の剣法を試し、さらに磨きをかけ、それで斃れてこそ武蔵足り得る。勝つためには「卑怯」も術と言い切る武蔵の勝負第一主義は、形式主義の「柳生流」美学には到底及ばず、通用の余地がなかった。純粋で臆病な武蔵の『五輪書』は、自分の実力をはみ出したところで勝敗を争う、人間の「蹉跌」をカバーする指南書である。

「蹉跌」と言えば、何より石川達三の『青春の蹉跌』であろう。これから花開こうとするエリート青年の、人生の思わぬつまずきを描いた小説は、シオドラ・ドライサーというアメリカ人作家の『アメリカの悲劇』という作品と酷似する。これを映画化したのが、1951年にアメリカで公開された『陽のあたる場所』だ。成功を夢見る青年は、裕福な家の娘と恋に落ちる。

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彼女と結婚すれば、自身が望んでいた以上の素晴らしい伴侶を手にいれられるし、心に描き、夢見ていた仕事での成功も手にできる。ところが、男には秘かに付き合っていた貧しい女性がいて、別れようと思っていた矢先、彼女から妊娠を告げられてしまう。「なんということだ」、あと一歩で成功をつかみかけた時の、思わぬ告知であった。男はどんな決断をしたのか…。

松本清張の『砂の器』も栄光と挫折の悲しい物語である。2005年にイギリスで公開されたウディ・アレン監督の『マッチポイント』という映画も、主人公の元テニス・プレイヤーが、成功が約束された上流階級の女性と、スカーレット・ヨハンソン演じる肉体美溢れる女性との間で揺れる青年の心の葛藤を描いている。いずれの作品も骨格的には『青春の蹉跌』と同じものだ。

『青春の蹉跌』は映画になり、萩原健一と桃井かおりが主演した。常に冷静に、論理的に物事を考える賢一郎が、遭遇してしまった思わぬ出来事と、彼の人生のつまずきが起こした悲劇よりも、桃井の豊満な肉体に圧倒された。若いというのは、物事の本質よりもデザートの方が主体になる。若さが物事を誤るのは悲劇というより、喜劇という見方が今はできる。

「青春をどう生きるか」という命題は、言葉としては意味を持つし、大事なことかも知れない。しかし、多くの人は、「青春をどう生きた」という回想であろう。「青春をどう生きるか」のような堅実な生き方よりも、殺伐と生きた青春時代こそ、「青春を生きた」と言えなくもない。青春が貴重だというが、それが分かるのは青春を過ぎてからであり、多くの人は後悔するだけ。

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「アレをやっておけば…」、「コレもやっておけば…」などと、誰もが悔いる。自由を標榜し、自由人である事を目的とした自分に、やり残したことはない。それが今の自分の幸せであろうか。もし、自身の青春に後悔があるというなら、「若いうちでなくてもやれる」と言い含めて行動してみたらどうか?若い人でなければやれないと言うようなことを思うなら、それは自縄自縛であろう。

「生き方を変える」のは難しいかも知れぬが、青春を取り戻したいなら視点を変えること。そうすると自ずと行為もできよう。生き方を変えるとパワーもでよう。自信も持てる。青春期と言うのは、御幣を怖れずに言えば、「バカ」な時代である。したがって、壮年者が青春に立ち返りたいなら、「バカ」になることだ。それなくして、「青春したい」は、言葉のお遊びである。

「バカ」にならなきゃ得れないものもある。卑屈な人生を送ってきた人でも、自分に素直になる事はできるだろう。若い時は「素直」である部分と「素直」になれない部分がある。素直に生きた人は青春を横臥したが、素直になれなかった人の青春というのは「絵に描いた餅」であったろう。今なら「素直」になれるかもしれない。そのコツは、「人生は短い」と念じること。

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  山本有三

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