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「作家と読者」という関係 ④

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自分の経験で言うなら、母親に嫌われているよりも、母親を嫌う方が家には帰りたくないものだ。こんな風に考えてみるといい。自分を嫌ってる誰かと一緒に仕事をしたり、毎日顔を突き合わせることと、自分が嫌いでどうしようもない相手と毎日顔を突き合わせなければならないのと、どっちが嫌か?まあ、前者は他人事と思えばいいが、後者は耐えられない。

自分も家から出たきり夜まで帰らなかったが、安吾もほとんど家に寄り付かず、哀しみにつかれたように一人知らない町を彷徨い歩く子どもだった。自分の場合、寡黙で不器用で何かをしてくれるということはなくとも、精神的危害を加えない父が拠り所であったが、安吾は父についてこう書いている。「父の愛などと云えば私には凡(およ)そ滑稽な、無関係なことであった。

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父はほとんど家に居ず、顔を合わせるのは月に一度くらいのものだったという。父が居る時はなぜか父の部屋に呼び出され、硯で墨をすらされるのである。後に安吾は、父との関係を"墨をする関係"と書いている。ゴマをする関係と言うのはアリだが、父は安吾に墨をすらせることで何を見ようとしたのか?いろいろ考えられるが、父の本当の真意は不明である。

地元新潟の小学校での成績表は66人中3番とある。大正8年、新潟中学校(現・新潟高校)には、150人中20番目の成績で入学したが、第二学年になる頃から欠席が増え、極度の近視であるにも関わらず眼鏡ナシでは勉強にも身が入らず、安吾は進級できず落第する。生家への反発もあって、東京の中学に転校した安吾は母親から離れることとなるが、その思いをこう書いている。

「私は東京の中学へ入学したが、母と別れることができる喜びで、そして、たぶん東京では眼鏡を買ふことができ、勉強することが出来る喜びで、希望にかゞやいてゐた」。3年生で編入した間もなく、安吾は地元の友人に以下の手紙を送っている。「私は毎日々々面白くない月日を送っています。学校もつまりません。それでも毎日昼食後に寺の奥へ煙草を吸いに行くのが楽しみです。

何か一つ書いてやろうかと、つまらない戯曲を書き初めたが止めました。」さすがの安吾もホームシックにかかったようだ。落第もあってか16歳の中学3年生で、単身見知らぬ東京にあっては、方言や田舎者コンプレックスがあったと想像出来る。ホームシックと言うのは言葉に聞くが、自分は全く縁遠いものだった。18歳で地獄の家を離れたが、安吾もそうであったはず。

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家が恋しい、田舎が恋しいなどは、ただの一度もなかった。もちろん、部屋に電話もない時代である。一人暮らしをするからには孤独であるのは当たり前で、電車やクルマのない時代に徒歩で江戸に行くのが当たり前、風呂に入るなら薪で湯を沸かして入るのが当たり前、洗濯機がないから冷たい水をたらいに入れて洗い物をするのが当たり前の時代のように、である。

友人の電話は取り次いでくれない、女子からの手紙は破って捨てるような実家に比べると、すべてが天国であった。一人で居ることは何者にも束縛を受けない自由さがある。同じような境遇の安吾がホームシックにかかったのが不思議だった。一人暮らしが精神的に不安定という女性がいた。男はどうか?言葉にこそ出さないが、そのようなことを垣間見せる奴もいた。

一人暮らしがなぜ不安定なのか理解できない。寂寥感と思われるが、親元で満たされていたからか?親元に不満が多ければ、一人暮らしこそ安定である。実家時代の自分は、精神的に不安定であった。親元を離れ、自由で躍動の日々は夢のようであった。高いエントロピーの中にあってこそ、人間的な創造性がある。これこそが幸福なら、他に求める幸福とは一体なに?

足のワッかを外され、鎖を外された奴隷が、何も求めないで幸せに浸れるのと同じ気持ちであろう。過保護に育った人間はうんざりするほど周囲にいた。共通するのは自分しか見えていない人間である。甘やかされて20歳近くまで育った人間に、他人の気持ちを考えろなどと、土台無理なことだろう。そのようになってしまった今、毎日100回づつ100年言い続けても無理だ。

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甘やかされて育った人間は、それこそ口で言おうが、殴ろうが、蹴飛ばそうが、何をしたって直るものではない。ネコにお手を教えるようなものである。なぜか?人の気持ちを考えるというのは、人間の「能力」であるからで、甘やかされて、自己中心に育った人間にそういう能力は無い。つまり、身についてない。親が身につけさせてない、と言った方がいい。

何かを始めようとするとき、覚悟を決めて取りかかったりもない。この場合の覚悟とは、他人の気持ちがいかに大変だという事を知っているからこその覚悟である。そういう能力を身につける時期に過保護にされたのだから、身につかなかったのだ。甘やかされて育った人間は、本当にこれが顕著である。人間は、それぞれの時期に合わせて学ぶものがあるのを痛切に感じる。

それ以前に教えても、以後に教えても、無駄であろう。企業が躍起になって社員教育をするが、アレは付け焼刃であっても叩き込まねばならないものだ。坂口安吾の人となりは、彼の小説やエッセイから読みとるしかないが、安吾の人格が知りたいのではない。彼の書き物を通して、どういう人だったのかを自然に想像するのである。なぜ、知りたくなるのだろうか?

それは「文は人、人は文」であるからであろう。文から人を想起するのは、自然の成り行きである。19歳で中学を卒業した安吾は、食っていくためにやむなく小学校の代用教員となる。当時はそれが手っ取り早い食い口であった。小津安二郎の『一人息子』の主人公も、大きな志を抱いて東京の大学を出たが、職がなく代用教員である事を上京した母に隠して叱責される。


息子は代用教員である事の正当性を必死で母に訴える。散々努力したが職にありつけないなどと、母に許しを乞う姿は惨めであった。あの映画を見ながら、なぜ母に許しを乞わなければならないのか?母も息子の泣き言をいう惨めったらしい姿にうんざりしたのだろう。一人息子を女手ひとりで育てた自負が、息子のこんな弱々しい言葉となって返ってくる現実を小津は描いている。

そうは言いながらも仕事仲間の同僚には、孝行息子を持った幸せ者の母という虚飾を演じる。顔で笑って心で泣く母の姿を小津は、映画冒頭の「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」という芥川龍之介の『侏儒の言葉』につなぎ合わせている。まこと人間は「顔で笑って心で泣くもの」であろうし、それでも頑張って生きていくべきものである。

安吾は子どもたちが帰った教員室で、柱時計の音だけを聴きながら、ひとり物思いに耽るのが日課となった。このように書いている。「私は、"家"に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じてゐた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとゝ愛を感じてをり、海と空と風の中にふるさとの母をよんでゐた。

常に切なくよびもとめてゐた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂ふ気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもゐたのであつた。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であつた」。もっとも嫌う母にふるさとを見るという二律背反が安吾に見える。さすがに自分にそれはない。あの母が居るだけで、生まれ故郷を好きになれなかった。

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ひとり物思いに耽るのは安吾もそうであったように自分も好きだった。何時間そうしていても退屈はなかったし、そこには境遇の違う自分も登場したり、まだ見ぬ未来の自分の姿もあった。自分にとっての成長とは何か?をしきりに感がたこともあった。自分にとっての成長とは、一つ一つの自分の内部とケリをつけることだった。ケリとは和解であったり、対決であったり。

とにかく自分の内部にある感じ方を一つ一つ解放することが、情緒の成熟であろう。そして自分の内部の考え方に、善と悪を定義づけることでもある。曖昧にするよりは、悪はどう考えても悪であり、善は善であろうと、宙ぶらりんな思考は情緒の安定にはならないし、白黒つけるのは決して難しいことではない。親であれ教師であれ知人であれ、遠慮なく悪に落とし込んだ。

自分が行きたくないところには行かない、まずいと感じることはまずいと言い、したくない事はしない、これらのことは他人を害しない程度に行った。「No!」を言っても他人を害するものでない事は、何とたくさんある事に気づく。もし、自分の言葉が親の感情を害すると思わされ、思い込まされると、大人になっても自分の言動が他人を害するなどと気を使うようになる。

子どもは親の作る環境に大きく左右され、そこは怖いところだ。自分などは、こんな母親の言いなりになるくらいなら死んだ方がマシと思い、徹底反抗したが、それでも親の先天的気質は受け継いでいるのだろう。安吾もこのように言う。「私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じてゐた。

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子どもというのは親の暴言によってどれだけ傷つき、どうれだけ悲しい思いをすることだろう。しかし、親と言うのは子どもの悲しさなど一向に意に介さないようである。なぜなのか?どうして親は子どもの悲しさ、苦しさを洞察しないのか?自分も親になって分かるのは、やはり自分の子は自分の所有物との傲慢があるのだろう。それは子にとっても親にとっても悲しいことである。

まさに、「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」を示している。悲劇の救いは何であろう。『日本の悲劇』という映画がある。木下恵介監督作品で1953年に公開された。2013年8月31日に公開された小林政広の『日本の悲劇』は同名だが、リメークでもない、何の関連もない。どちらも観てはないが、個々の家庭の問題にこの映画が答を持つとも思えない。

人間の悲劇は個々のものである。「他人の腹は痛くない」ように、個々の問題と起こり、個々が解決して行くことだ。安吾の悲劇は安吾のもの、自分の悲劇は自分のもの。安吾は安吾で、自分は自分で解決するしかない。安吾は、日本人をダメにしたのは「家庭」であるとし、家庭を守ろう、家庭的なもの、家庭はこうあるべき、などの良識が日本をダメにしたとする。

「親がなくても子は育つ」という慣用句は子どもの頃から耳目にしたが、「親があっても子は育つ」という耳慣れない言葉を発明したのは安吾であった。前者は子どもの生きよう、成長しようという主体性であるが、「親があっても子は育つ」の意味は、それでも親か、よくそんなことが子どもにいえるな、できるな、などの間違った愛情(エゴ)などをたむける親をいう。

強引な親、傲慢な親が、自分の思う「いい子」を勝手に作り上げ、子どもをそのように作ろうとする。少しでも反抗しようものなら、勝手に罰を与えようとする。罰は親の好きなようなものがある日突然作られ、実行される。親のいう事を聞かない子、無視する子はいい子ではないと言う。誰がいう?世間なのか?安吾はいい子は悪い子、悪い子はいい子という。自分も似た考えだ。


「日頃自分の好き嫌いを主張することもできず、訓練された犬みたいに人の言う通りハイハイと言ってほめられて喜んでいるような模範少年という連中は、人間としてもっとも軽蔑すべき厭らしい存在だと痛感したのである」。これは『模範少年に疑義あり』の最後の一行の言葉。なぜこのような結論になるかといえば、不良といわれる子どものほとんどは親に問題がある。

親が子どもを不良にするといってもいい。そういわれて不良を持った親が、「異議あり」と言うなら滑稽千万。厳しくしようが、甘やかそうが、子どもの性格は親が作る。子どものことに親が責任がないなどあり得ない。手に負えない不良息子、不良娘をもった親は苦しめばいい。人間の尊さは自分を苦しめるところにある。満足は誰でも好む。ケダモノでも…


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