安吾はまさに言葉の産婆、産婆術を持っている。産婆は聞かなくなったな、今は婦人科医というが、その婦人科医も少子化のせいかなり手がいない。子どもを身ごもると鉄道やクルマで隣町の産科・婦人科医の元に通わなければならない。子どものころ、婦人科医は羨ましいと思っていた。なにしろ、ただで飽きるほどナニが見れるわけだが、それでもなり手が少ない。
これもAVビデオ氾濫の影響か?というのは根拠のない想像だが、友人のレントゲン技師が、しきりと役得を自慢していた。羨ましいと思いながらも、「このドスケベが!ちゃんと仕事しろよ!」と、悔し紛れに言っておく。安吾の文で印象に残っているのは、100や200どころではないが、『文学のふるさと』にある童話赤頭巾ちゃんについての考察には目から鱗であった。
一般的な赤頭巾ちゃんの話は、お婆さんに化けた狼と知らず、親切にした赤頭巾ちゃんは、狼に食べられることになるが、最後に狼のお腹から赤頭巾ちゃんが助け出されてメデタシメデタシ。これは日本人向きに脚色されたもので、実際はあっさり狼に食われるのだが、安吾は赤頭巾ちゃんの親切を、自己責任論で断罪する。我々はその考えに突き放されてしまった。
性善説を説く東洋思想にあっては、亀を助けた恩返しや鶴を助けた恩返しというような、善意に対して見返りを説く話は日本にも多いが、西洋では「赤頭巾ちゃん」のように、尽くしても優しくしても殺されるのである。アリとキリギリスだって日本ではアリはキリギリスに同情したと変えられているが、アチラでは「お前みたいな怠け者はいいザマだ」となっている。
幼少期から自己責任を徹底して教える欧米と、善意には善の見返りがあるなどと言う、子どもを見くびった考えのさであろう。そういう平和ボケた日本人に対して、安吾は問題提起をしてくれた。「人に親切にするということは、何の見返りも望まずにすべきであって、自分がしたいからするというものでないなら、最初からすべきではない」という考えには畏れ入った。
赤頭巾ちゃんのように、親切にした事で殺されたとしても、「それですら文句を言わないという気持ちでこそ親切はすべき」との自己責任論に感銘した。それこそが本当の親切であろう。人に何かを施し、あるいは親切にしたといいながら、何のお礼もない、見返りもないと文句を言う人間がいる。それのどこが親切?相手に恩を売る、貸しを作る、という善意なき親切は、見返りがないと不満をいだく。「そういう虚偽の親切ならしないこと」と、安吾は言葉を突きつける。言葉を始めて目にしたとき、自分の善意の欺瞞と、醜い欲に気づかされた。印象的な言葉は、『悪妻論』にもある。「夫婦は、苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。いたわるよりも、むしろ苦しめ合うのがよい」。
この言葉も人間が成熟ないし、充実しないことには到底理解を得れない。当初自分は、この言葉に否定的だった。幸福至上主義という考えに蹂躙されていたこともあるから、安後の言う、「人はなんでも平和を愛せばいいと思うなら大間違い、平和、平静、平安。私は然し、そんなものは好きでない。不安、苦しみ、悲しみ、そういうものの方が私は好きだ」をさっぱり理解できなかった。
しかし、人間の存在をよくよく考えてみると、平和、平静、平安、幸福だけを愛し、不幸、苦しみ、悲しみを好きになれないとなると、人間はなおさら苦しむことになる。「人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる」。この、安吾の徹底した「生」の肯定、「生」に対する態度からすれば、苦しみや不幸を否定し、そこから逃れるためには人間は生きていられない。
多くの自殺者が苦しみから逃れるためであるなら、安吾のいうように不幸や苦しみや悲しみは、人間が生きて行く上での必然とし、友としていくべきであろうと…」。「夫婦はいがみ合うのがいい」という考えも、言葉のまえにある、「夫婦は、苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ」、よいう考えにある。このように、人間の悲喜こもごも一切を肯定するのが安吾である。
巨人軍の長嶋茂雄が現役時代、「プレッシャーから逃げてはだめ、プレッシャーを楽しむべきだ」といったのも、同じような考えである。嫌なこと、苦しいこと、悲しいことがない人生ってあり得ない。ならば、そういう事が起こったときは、そのことから逃げるのではなく、それらを愛し、解決に向けて取り組んでいってこそ人生。嫌いな食べ物でも好きになれば食べられるようになる。
「納豆なんかとても食えない」、「ピーマンなんか…」でも食べられるようになった。そういう話はたくさん知っている。嫌いな物に前向きになったことで人間は変わるんだろう。そういえば、D・カーネギーもこう言っている。「疲れるのは仕事のせいではない。心の持ちようが悪いのである」。安吾も長嶋もカーネギーも言わんとするのは、「プラス思考」である。
プラスに考えればすべてのマイナスはプラスに変わる。不幸は幸福に、プレッシャーは遊びに、疲れは元気に…。安吾の多くの言葉は、「プラス思考」という言葉のない時代に、それに殉じた考え方を提示しているに過ぎない。そういう考えで見ればそれほど奇抜なことを言っていないともいえる。「エントロピー」という語句は、にわかに浸透し、耳にすることも多くなった言葉。
エントロピーは自由度、躍動度と訳されているが、50年以上前から言われていた言葉である。自然界の法則を考える時、エネルギーは常に減ろうとするが、エントロピーは常に増加しようとする。水は高いところから低いところに流れ、高い温度は低くなろうとする。これが自然界における物の考え方である。そこに「安定」という言葉をはめてみたらどうなるか?
安定とはエネルギーの少ない状態を言う。エネルギーが少ないと物は動こうとしない。それが安定である。つまり、向上や変化も望まない替わりに、低減・後退も望まない。一切のものは安定しようと狙っている。人間も少年期から、青年となり、結婚し、家庭を持ち、安定していく。結婚や家庭は何とエネルギーのないもの、エントロピー(自由度)のないものであろうか。
さらにいえば、人間の最大の安定は「死」である。死ねばエネルギーもエントロピーもゼロである。そういう安定を望んで旅立って行く人もいる訳だ。確かに、増加しようとするエントロピーと、減少しようとするエネルギーの矛盾は解決される。死は完全なる自由である。それを拒否する人は、悲しみや労苦を受け入れようとする人であろう。人間は神のつくった最大の矛盾だ。
その矛盾に果敢に挑み、激しく引き裂かれることこそ、人間が存在する意義であり、証明に他ならない。死ぬ人には死にたい選択があるのだろうから、人の選択を否定はしないが、批判は多いにすべきである。自殺を評価をするのも自由なら批判も自由である。苦しさに耐え、強く生き抜いた人を批判するも、評価も自由である。押し付けもいいが、自身が判断するのがいい。
せわしい現代社会に生きるなら、その制度や人間関係に衝突を見ず、苦労もせずに安定を望む人は多い。安定はエネルギーを必要としない分、楽だからである。しかし、人間が安定に耐えられる生き物であるかは疑問であろう。平和ボケの人間ほど浮気や不倫に勤しむようだ。そんなことやってられない忙しい日常なら、当然ながらそんな暇はない。が、それでも刺激を必要とする人はいる。
安定を肯定するなら、じっとしていればもたらされるが、それで生きていることになるのか?と不満なら違法と知りながらも裏を生きようとする。人の選択をアレコレいいたい人はいるが、そういう人はたいがいバカである。批判は心ですればいいし、批判は自分の糧にすればいい。何かにつけて他人を攻撃しなければ気がすまない人はいる。それを批判するのも自由である。
心にもない、口だけの正義を振りかざすなんか、誰にでもできる。「言うは易く、行うは難し」という慣用句を知ってか知らずか、おそらく知らないから恥とも思わないのだろう。大上段に正義を振りかざして相手を追及し、責め、あるいはコキ降ろしたりで、欲求不満を解消する人たち。芸能人の不倫や浮気が露呈すると出演番組のスポンサーに「降板させろ」と抗議する。
「ナンギなやっちゃな~!」と思うが、彼らは相当の労力をかけてやっている。エネルギーに満ち溢れていると評価したらいい。精神科医の片田珠美氏の著書に、『他人を攻撃せずにはいられない人』というのがある。売れてるらしいが、買う人は何を知りたくて買って読むのか?「職場や家族に潜む『害になる人』の精神構造 人生を台無しにされないために」という帯書きがある。
自分などは小学3年生で、母は自分の人生を台無しにする人だと思ったくらいだから、本を読まなくても本能的に察知できようものだが、何かに頼りたい、人に聞きたい、正しい答を見つけたい、これもマニュアル世代の特徴か。イヤなものは問答無用にイヤだと思うものだし、精神科医など必要ない。商業主義の只中にあっては、乞食でさえ本を書いて売る時代である。
純文学とは、商業主義に乗ることもない、読者の娯楽的興味に媚びることのない、作者の純粋な、芸術意識によって書かれた文学という意味と解していた。思想の表明という意味では、近年はなかなかありつけない。そのそも思想が科学的に分析され、体系化された時代である。書かれてある事は偉大なる先人たちのコピーであろう。自分とて、自らの独創的な発想は何ひとつない。
安吾も永井荷風の影響が強く感じられる。ところが、安吾は荷風が大嫌いのようで、『通俗作家 荷風――『問はず語り』を中心として――』という批判エッセイを書いている。『問はずがたり』が発表されたのは昭和21年7月で、安吾のこの文章は2か月後の9月発行の『日本読書新聞』に掲載されているからして、おそらく発表されてすぐに読んで、これを書いたと思われる。
「『問はず語り』は話が好都合にできすぎてゐる。」いきなり安吾は、こう書き出す。確かにそのようで、これは安吾ならずとも誰も否定できない。荷風への作品批評は全体の3分の1程度であり、あとはただただ荷風の批判に終始するが、文学を超えた荷風の人間性や生き方まで批判に及んでいる。安吾の荷風に対する凄まじき激痛言葉をいくつか拾ってみる。
「元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。」
「荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。」
「荷風にはより良く生きようといふ態度がなく、安直に独善をきめこんでゐるのであるから、我を育てた環境のみがなつかしく、生々発展する他の発育に同化する由もない。」
「荷風に於ては人間の歴史的な考察すらもない。即ち彼にとつては「生れ」が全てゞあつて、生れに附随した地位や富を絶対とみ、歴史の流れから現在のみを切り離して万事自分一個の都合本位に正義を組み立てゝゐる人である。」
批判は辛辣であるがゆえに批判であるが、安吾の荷風批判は非難にも値する人格否定。なぜこれほどまでに彼は荷風批判をするのか、三島由紀夫の太宰治批判と同様に、「近親憎悪」であろう。三島は太宰に自分を重ね、安吾は荷風に己を見る。故にか、相手が判り過ぎるくらいに分かり批判も的を得る。三島も安吾も対象を通じ自らを批判したのだろう。
作家の川本三郎は、「坂口安吾が永井荷風を嫌った事情は、わかりすぎるくらいによくわかる」と指摘し、このように言う。「二人は、実は同じような小説を書いている。より正確にいえば、安吾が意外なことに荷風と似たような小説を書いている」。安吾の『白痴』と、荷風の『濹東綺譚』の作品に存在するいくつもの共通点を川本は指摘し、列挙してこう述べている。
「確かに、安吾は荷風を嫌っていた。しかし、思いもかけないことに『白痴』は『濹東綺譚』に似てしまった。二人の本質がロマンチストだったからといえようか。もし、安吾が荷風のように長生きをしていたら、案外、晩年は似たようなことになっていたかもしれない」。川本が何より共通点として挙げた部位として興味深いのは、それぞれの作品の舞台となっている場所。
『濹東綺譚』は、向島玉の井の私娼街。『白痴』は、玉の井のような色街ではないが、京浜東北線蒲田駅から目蒲線に乗り継いで少し行った、矢口渡駅あたりのごみごみとした一画である。ここは当時、安吾が住んでいた。いずれも東京にある三流の場末である。永井荷風は1959年(昭和34年)4月30日に世を去ったが、安吾は4年前の1955年(昭和30年)2月17日に突然死去した。
荷風79歳、安吾49歳であった。女好きの荷風は、1919年に麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した『偏奇館』へ移る。外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名である。時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げと公言、基本的には一人暮らしだったが、「病魔歩行殆困難」となりゴミ屋敷と化した自宅にひきこもる。
4月30日朝、自宅で遺体で見付かり、胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利書、預金通帳、文化勲章など全財産があった。通帳の額面は総額2334万円を越え、現金31万円余が入れられていた。荷風の死後、無頼派の石川淳が荷風に対し、苛烈極まる追悼『敗荷落日』を著す。以下はその冒頭…
「一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。」