自立と独立は親戚関係にあるが、自立が、「他者からの援助などの助力を得ず、影響力から離れてひとり立ちすること」であるのに対し、独立とは、「これまで従属的立場にあった者が主体となること」となる。これまで植民地にあった国が、「独立」して新たな国を作るとか、父の仕事を手伝っていた息子が、新たに開業するなどと思考すれば意味の違いを把握できる。
独立はしても自立できていない場合もある。例えば家業から独立して店舗を出したのはいいが、その店舗の家賃から経費から多くを親に頼る場合で、これをバカ息子と呼んでもいいが、つまり、独立する意味がどこにあるのかという意味であり、それ以上にこの息子は独立するだけの能力がないのは明白だ。親も親、こんな店はさっさと潰してしまった方が息子のためだろ。
まあ、バカ息子は親が作るわけで、こういう親をバカ親と言いたいが世間並みに「親バカ」と言っておこう。こういうケースって実は意外に多い。結局は親の見栄や利害が先行している状態である。息子が華やかに独立開業することで、親戚や取引先や友人・知人などから祝いを受けたりする。そういうしがらみもあってか、息子の援助をする親の気持ちは分らなくもない。
問題は、体面重視でこういうことを続けることの是非であって、親の気持ちなど重要ではないのよ。そもそも「親バカ」という行為自体が子どもを甘やかせることだが、子ども可愛さといいながら殆んどは親の都合でなされる。親自身の自己愛とも言える。そこを考える親なら自分のためにする「親バカ」はしないが、殆んどは自分のためを子どものためと置き換えている。
このように物事を直視するだけなのに、「物事を曲げて見ている」と言われたことがある。「親が子を思うのは当たり前だろう?」と言う。つまり、自分の言う事は「子を思う親の気持ちではないらしい」と、こういう相手にはそれ以上言わないように決めている。その親と同じ行為が子どもを思う気持ちだという人間に、それ以外の事をいっても無駄だろうから。
子どもを甘やかせる親は、親と子の利害が一致している。だから、子どもに喜ばれることで甘やかせているなど微塵も思っていない。多くの親に「それは甘やかしだろ?」といって「ハッ!」と気づいて止める親はいない。だいたい、「そうかな?」、「そうかも」と言って継続する。あくまで他人の意見は自分に関係ないということだ。それでいいんだろ、他人に責任はないし。
「学ぶ」とは自己を変えること。あるいは、変えようとすること。他人から言われた言葉が、頭にこびりついて離れてくれない。そういう言葉はたくさんもらった。人は自分をこう見ていたのかは、思春期前後にはショックだった。もちろん、言われたことが恥ずべきとだと思えたからだ。「自分の事は人から教わる」というのを実感したし、変革の時期にいい助言をいただいた。
あの頃から見ればいまはもう安定の年代だ。「耳順」といい、何を聞いても確かに驚かなくなった。70になれば自分の心の趣くままに行動しても、すべては道理に外れないとなるらしい。「らしい」だから分らない。「道理」はよくできている。たまに外すも大きくそれる事はないだろう。「親バカは道理だ」と言った奴がいた。「お前の道理ならいいんじゃないか」と言った。
人にはそれぞれの道理があるのだろう。「道理合戦」を戦わせるのも面白いが、今の年代の自分はそれを望まない。相手を肯定してやるだけだ。人は誰も自分を肯定して欲しいのだろうし、否定は自己で成される方が効果もある、価値もある。まあ、子どもや孫にはご意見番でありたい。が、言う事は基本的なことだけだ。「部屋を綺麗にしろ」、「汚い食べ方をするな」
これは、他人に対する思いやりであろう。一人で暮らしてるならいいが、他人と同居しながら綺麗にしないというのは、他者への配慮がないということ。それがなくて屁理屈などいうなと。できないやつはしようとしない。夫がやってくれるなどとあぐらをかいている。よく、追い出されなくて済んだと思うが、夫の我慢の賜物だろう。だらしない女は百年の不作物。
強烈な自己変革に邁進しないなら死ななければダメだなと。こういわれて反発する人間は甘えた人間よ。他の事に勤しんでる暇があればやることやれよ、そういうのに限って他に熱心だったりする。「学ぶ」は自己を変えること。まあ、何事も頭の柔らかいうちに躾けるしかない。そこが勝負と思っている。どこの世界に汚いものを好む輩がいるかと。それが「道理」である。
「自立心」は生物に欠かせないその理由は、「いつまでもあると思うな親と金」の言葉が示しているが、「独立心」は必要なのか?「独立独歩」という言葉がある。「独立独歩の精神で頑張って生きて行く」と使う。他人に頼らず、自分の力で信ずる道を進んでいくことを言う。人間というのは究極的には、「一人で生きることが楽しめるか?」ではないだろうか。
人間以外をやってないので分らないが、他の動物も基本はそうかも知れない。「一人では何をしてもつまらない」と思う心理は依存心だろう。他人を必要(特に称賛を)とし、それで虚栄心を満たす。また、虚栄心のターゲットは相手であり、相手を必要とするから、「一人では何をやってもつまらない」となる。自分のために何かをやろうというのではないようだ。
だから、一人でも楽しめる人は甘えの欲求がなくなった大人である。日本の初等教育過程が、協調ばかりを先行させることに以前から問題意識を持っていた。「和をもって…」の日本人的精神だろうが、真の協調は自立した人間が成すもので、だから、自立が先か協調が先かといえば自立である。一人で何かをして楽しい人間が他人との付き合いも楽しめ、他人と協調できる。
幼児はみんな自己中であり、利己主義であり、それが自然なこと。親や周囲の指導や状況から社会性や我慢を学んでいく。なのに、大人になっても自己中・利己主義者は、成長がどこかで止まった人。自分が楽しくなければ人との付き合いが楽しくない人。人から何かを求めるだけで、与える楽しみを持ち合わせない人。相互扶助の精神に欠け、平気で勝手なことをする人。
自分はこういう人間を許さないし、ハッキリいう。それで分らないなら付き合わない。子どもなら大目にみるし、指導の余地があるが、対等の大人に指導など相手はむくれるだけだ。人から自分を学ぼうという気がないのだろう。悪いことの指摘に感謝しないで、割るところが直るはずがない。男も男よ。「お前は素直じゃない」みたいな言葉を投げかけて相手が変わるか?
「お前は生意気だ」、「お前はだらしない」で相手が変わるか?本当に変えようとするなら、キチンと説明することだ。それで分らないならバカだと無視するしかないし、相手にできないし、「まともに口を利いて欲しいなら賢くなれ」と言い渡すしかない。自分は相手がバカを認識するまでは厳しいと思うし、それ以外にバカに対処する方法を見出せなかった。
バカに好かれたくない、むしろ嫌われた方がせいせいすると、そういう気構えだから遠慮はしない。「独立心」を持つと言う事は、例えば対象が親であるなら、親から数々与えられて否定的なメッセージ一切を拒否すること。親から与えられ、罵られた否定的メッセージに屈しないこと。好きに言ってろ、自分は一人で生きると、いう依存心をなくせば親など怖るに足りない。
親が怖いのは依存があるからだ。大きな勘違いを人間はするその一つに、他人に気に入られること=他人が自分を肯定している、ではないことを理解した方がいい。この点を認識しておかないと、他人に利用されてしまう。「ブタもおだてりゃ木に登る」と言うだろう。自分を偽ってまで、あるいは変えてまでして他人に気に入られる必要はないが、そう仕向ける人がいる。自分をどんなに偽ってみても、本当に自分の望むものは手に入らない。相手に媚びて、究極的には相手に利用されてしまう。こういう人間は多いので注意が要る。どう注意していいのかは分らないと思うが、そこは頑張って見つけるしかない。「だって相手の言葉を信じるもん」という子はまだまだ子どもだ。せいぜい、騙され、失敗して学習していくしかない。
「私は生きてる価値がない」とこぼす人間は、そういう言葉を言って大事にしてもらおうとしている。本気でそう思ったら死ぬしかない。相手に何か特別なことをしたり、役に立ったりの意識がないと相手と一緒にいる価値が思うのは間違っているが、おそらくそうなるような教育を親から受けたのだろう。自分の母親がそうだったからよく分る。何かと物で釣ろうとする。
とどのつまり、「言う事を聞けば何でも買ってやる」とまでいう始末で、ここまでいう母親を怖ろしい人と感じた。物語のシーンで出てくる場面で王様がこのように言う。「お前が家来になるなら何でも望みを敵えよう。何なりと申せ」みたいな。こう言う事に屈しないのがカッコイイ場合がほとんどだ。「王様、お気持ちは感謝しますが、私には私の生き方があります」。
山と詰まれた札束に対し、「銭などいらんわ」ってのがまたカッコイイのよ。最もはしたないのが言いなりになったあげく、「金銀財宝に目が眩んだか、愚か者めが」と言われる場面。少し表題からそれてきたが、人間は一人で生きていけるように自らを作っていかねばならない。自分を頼りに生きようと心掛けていれば、自分を真に必要とする伴侶にめぐり合うかもしれない。
自分を頼らず人にばかり頼っていれば、捨てられる不安に苦しみいつも犠牲者になろう。「独立心」とは、「独立独歩の精神」とは、自分の足で立ち、自分の足で歩くこと。人間の心の中には他人に「好かれる存在」でありたいで、本当に好かれているかどうかよりも、好かれていると本人が感じているかが大事なようだ。なぜそうまで思うのか?嫌われて何が困るのか?
何やら物事を分ったような言い方をを嫌う奴がいる。「お前は何様?」という言葉がそういう人から贈られる。聞き手が単に「分ったような物言い」と勝手に解釈し、それを棚に上げて勝手に腹を立てている。物事がそう簡単に分るはずもない、思ってもいない。「分る」と言う事の大変さをを知らずでか、「分ったような物の言い方をするな」と釘を指すお前が分ってないんだろ。
誰かに好かれるためでもない、嫌われるためでもない、ジョギングや山歩きをすると同じように物を書くお稽古である。足の速い人だけがジョギングするわけでも、市民マラソンに出るわけでもない。心肺や足を鍛えるように、下手も文を書く。脳の劣化を防ぐ効能もある。いろいろ調べることで新たな知識も増える。「継続は力」というが、そう言う事より楽しさである。
先日久々にある人が、「お久ぶり~」と現れた。「そうだね、生きてた?」、「ずっと記事は読んでました」、「そうなんですか?でも訪問者になかったよ」、「実はコッソリ…」、「ああ、こっそりね。自分も大概そうしてます」、「これからもコッソリで」、「いいですね~コッソリは。音なしの構え…」、「ですね~」、「携帯をコッソリ見るのはダメだけどね」というオチがつく。
知らない人にコッソリはなんでもないが、自分の子どもなどにコッソリ見られてると思ったら書けない事があるだろか?多分、ない。書かれて困ることは口にして困ると同じだから、自分の心情としては口に出して言えない事は書かない、だからコッソリ見られても何でもない。心に思ってる事はむしろ口に出して言った方がお互い健全かも。欧米人みたいに…
「独立心」は自然に訪れるという、生き物の摂理。古いものがなくなり、新しいものが生まれる、それも自然体系の摂理だ。11月23日に三女が挙式をした。11月22日の「いい夫婦の日」が仏滅だから23日にしたのかと思ったら実はちがった。11月23日は二人の出会い記念日であると知った。なんでも、長女が11月13日にゲストハウスをopenして以来の初宿泊客という。
面白いことがあるもんだ。宿泊客と宿主が恋仲になるって、さすが素人宿泊所。患者と看護婦は結構あるようだが、宿主と宿泊客って不道徳?いやいや、出会いなんて何がいい、何が悪いはない、出会うことが良いのだ。教師と生徒のカップルもあるし、長寿番組の『新婚さんいらっしゃい』など、"事実は小説より奇なり"の世界である。男と女のいるところ恋は芽生える。
子どもの世界は親の知らない世界、親の世界も子どもの知らない世界。肉親だの他人だのに関係ない個人の領域だ。「そんなことは親も知らなかった!」との言い方を人はするが、当たり前だろ?何で親が知ってなきゃいけないんだい?親に秘密の50や100を持ってこそ子どもは大人になって行く。挙式は三女の脚本・演出がメインで正直面白かった。
結構、楽しませてもらった。いかにも手作り感の強い、手の込んだものは料理などの創作物でも味わいがある。結婚は挙式から始まるわけではないが、挙式もまた思い出に残ろうというもの。中には挙式など思い出したくもない状況になったカップルもいるだろうが、それは結果論。新婦の一生一代のナルシシズムの世界を新郎はただエスコートするのみだ。
すべては新婦のためにあるといえる。父親の目にはパジャマだろうがウェディングドレスだろうが、娘は娘でしかないが、母親には違う視点があるにせよ、どうも男にとっては虚飾の世界は馴染まない。これは好みの問題だ。後で新郎がこういった。「加代さんがお礼の手紙を読むときに、お父さんが泣くかとじっと見ていました」、「そういうところを見るもんかね?」
「結構、いい文面だったんで…」と。挙式後は三女に、「わり~、ウソ泣きするつもりだったけど、無理だった」と詫びれば、「ハンカチ絞って欲しかったのに…」。泣けない理由は分っている。親らしいことなど何もしていず、娘は勝手に大きくなっただけ。とりあえず義務だけは果たしたか、それ以外に親の手柄はない。手塩にかけて育てたと思いたい親父が泣くのだろう。
「お前は一人で大きくなって、一人で相手を見つけて、一人で巣立って行った」と…、そういう親の実感なれど、泣けるほうがどうかしている。儒家思想的な言い方で、「子どもは一人で大きくなったわけではない。親の恩を忘れてはならない」という教えは親から見れば気恥ずかしい。子どもは親の見えないところで悩み、苦しみ、楽しみ、悲しみ、そして歓びを味わって生きていたのだ。
そんなことを何一つ知らない親である。社会に巣立たせる事も含めて義務を全うする任を負う。子どもに対する願いはあれど、強引な価値観を子どものためと押し付けるのは、他の親はともかく自分的には間違っている。自然は無為であってこそ自然足り得る。いかなる夢を子どもに託したところで、子どもは親の夢を壊してこそ子ども足り得る。「みんな親の夢を壊しなさい!」