読んで字の如く「自」らの足で「立」つことだが、「自立心」などというのは放っていても自然に付くものだと思うがどうなんだろう。自分などはとにかく一人暮らしがしたくて仕方がなかったし、その理由は母親の呪縛から解き放たれたい一心だった。もし、子どもの自立を阻むものがあるとするなら、それは親ではないかと。親が子どもの自立を阻んでいる。
それしかないのでは?もし、親の子どもの癒着が自立を阻むの、親の主たる目的を果たしていない。親の目的は育児であるのは、乳児は一人では生きてはいけないからで、ただ大きくするために育てるのは動物と同じ「飼育」である。子育てを飼育といわない理由の一つは飼っていないからである。ペットなどの動物は飼うもので、なぜなら人間は動物を生まないから。
人間自らが産み、育てる子どもを養育という。夫婦が離婚して妻が20歳未満の子を引き取った場合、別れた夫に対し、成人になるまで養育費の請求権がある。が、子どものない夫婦が、高価な猫を購入して飼っていて、その夫婦が離婚して猫を妻が引き取っても養育費は請求できない。夫婦が相談した買った猫であってもだ。子どもの養育は夫婦が責任を負う。
最近、ペットを人間同様に飼う人が増えた。ペットが死ねば祭壇を作り、坊様を呼んでお経もあげるのは珍しくない。自分も動物好きだが、だからといって死ねば庭に穴を掘って土に返すだけだ。ペットに葬式?坊さんを呼んでお経?どうみても飼い主の自己満足でしかないが、「自己満足の何が悪い!?」とあらば、他人の満足を他人がアレコレ言う必要はない。
もし、葬儀社から連絡を受けた坊さんが、誰のお経かと聞けば猫だという。そこで「経をバカにするのも大概にしなされ。畜生にあげるお経などこの世に存在すると思うてか!」と「渇!」をいれる坊様はおそらくないだろう。本質や理念や、そんなものはどうだっていい、呼ばれてお経を上げればお布施もいただけるし、何事も商売、商売のご時世だ。
「依頼があれば行ってあげますよ」と僧侶はいうが、その程度のお経というなら人間にも意味がないのでは?と思うが「人間には意味があります」と、僧侶がいうなら、人間以外は意味がないと言うことになる。つまり僧侶は意味のないと依頼者に諭すでなく、商売として出かけて行く。「それでいいのか?」と問えば、意味はペットの飼い主が感じるものという。
本質でないこと、本質からずれたこと、何の意味のないことであっても、何でもアリの世の中だ。ペットが死んだとして、市町村に処置を問い合わせるとゴミと一緒に燃やすというが、動物の市街は世間的にはゴミ。飼い主の気持ちは当たり前に反映されないし、だから飼い主が庭に穴を掘って埋めたりする。最近は浄土真宗のお寺が「ペット火葬」をやっていたりする。
ある僧侶がペットに「般若心経」をあげた。真宗は他力本願を説いている。他力は、阿弥陀如来の事を指す。自力(自身が修行して浄土に行く)でなく、阿弥陀さんの力によって成仏させて頂くという事だ。「般若心経」は修行しましょ~という経なので、真宗とは無縁である。などと言う事さえもどうでもいい、浄土真宗の「浄土三部経」のどれであれ、何でもいい。
「一緒に暮らしてくれた動物に対する気持ちなので、何でもいい」それが飼い主の気持ちのようだ。では、ペット専用の葬儀屋は、動物にお経を唱えるについてどのようにいってるか?「動物用のお経というものはありませんが、命に違いないので人と同じお経があります。人間とて地球に生きる同じ動物の1種族でしかなく、特別な存在という訳ではありません。
人用のお経であっても、人間も動物ですから、人用のお経は、動物用でもあると考えられます。命は平等であって、仏さまは差別をすることはありませんので、同じお経でいいのだと思います。」と訳の分らないことを言う。「ダメです。人間用のお経を動物に唱えるなどトンでもない。」と、指導したり否定するより、飼い主の気持ち優先で動く。それが商売だ。
こういう問題は、真宗本山に聞けば済むことだが、公式コメントを出すと思えない。今後ペットに関してはお通夜も、葬儀も、供養も、納骨も、法事も、仏壇まで購入したりの時代になる気がする。ここまで来たら歯止めがかからない。ペット葬儀屋は依頼主に言われれば何でもやるし、指導という立場にないからだ。何事も「必要かどうか」より、飼い主の意向がすべて。
ペットにしろ何にしろ、需要があれば供給は必然的に生まれる。正直いえば我々の世代は動物病院が開設した事を驚いたほどだから、それはもう今では当たり前。将来的に動物は今以上に人間と同じような感覚で飼われ、意味のあるナシに関わらず人間と同じことをやるのではないか。服を着せられた動物にも驚いた頃が懐かしい。昨今はパンティーまであるそうな。
人間とは違う生き方をするペットを人間と同じ気持ち、感覚で育てるのがいいとは思わないから、世の中がどう変わっても、イヌやネコの本性は昔のままで、昔と同じように飼いたい。近年ペットは単に癒し動物、愛玩動物を超えて、「コンパニオンアニマル」と言われ、伴侶や家族、友人の一人、あるいは社会の一員と同様の位置づけがなされている。
コンパニオンアニマルとは新しくできた言葉である。いくらなんでも牛や馬とは一緒に暮らせないが、犬や猫となら同居は可能だし、これも人間が自然を求める、自然回帰が要因となっている。もう一つ重要なのが、内的要因、心理的要因で、現在の日本は子どもが少なく、お年寄りが多い少子高齢化社会。子どものいない夫婦、孤独なお年寄りにとってペットは心の支えとなる。
かつて自分にも経験があるが、ペットに対する愛着が深い人は、自分らのように自然のままにペットを飼う人間を差別視する傾向がある。自分のペットに対する思いが正しいとか、より愛情が深いとか、どうしても他の飼育者への不満がある。「ああしろ、こうしろ」と干渉してくる飼育者には、正直"うるさいもんだ"と思うだけだし、言われたことをしないでいた。
ペットの飼い方一つ、接し方一つで対人関係が穏やかでなくなる傾向は、すべてこだわりの強い飼育者の押し付けであろう。正直言えば、洋服を着させたりの犬は、自分がそれをしないというのは否定的と見られても仕方がないが、だからといってそういう飼い主にアレコレ文句を言うわけではないが、逆にそういう飼い主は愛情が足りない見たいないい方をする。
好ましくない飼育者への親和的な行動が抑圧されるのは構わないが、たかがペットでも人間関係に影響する、そういう時代なんだろうと理解するしかない。こういう人の特徴は精神的自立がなされていないのだろう。だから、他人の価値観を尊重できない。自分の行為を絶対視すれば、他者への不足や不満はあろうけど、なるべく価値を認めて是々非々に接することだ。
まあ、ペットにしろ子どもにしろ、熱を入れればキリのない、そういうものだと理解はしている。子どものピアノ発表会なんか見に行って分るのは、衣装を見れば親の熱の入れ方が伝わって来る。それでピアノが下手くそでも充分満足するのが親なんだろう。自分などはよく子どもに、「あの子はすんごいドレス着ていたが、演奏はヒドイもんだったな~」とか言ったりした。
ある傲慢なピアニストが審査員のコンクールで洋服のことをボロクソ言われたことがある。ある傲慢な方は宮沢明子という。出場前から衣装がどうのとか、演奏に関係のないことにうるさいとピアノ教師から聞いていたので、「だったらわざとボロ着て出てやりしょう」といったら、その先生目を丸くしていた。腕に自身があったからだが、案の定服を批判された。
自分は男だからまずは技術と、そういう世界であると思っていたが、「綺麗なお洋服を着て演奏しない子は絶対に上手くなりません」と、そこまで言われ子どもはさらし者の半ベソ状態。子どもの気持ちをないがしろにする大人気ない世間知らずのお嬢さんが、そのままばばあになったような女であり、二度と出場する気は失せた。確かに派手な世界であるのは分るけれども。
アレが気丈な外国人なら、「そこまで子どもを傷つけて何が楽しいんだ!もうこんなところに用はない!」と、子どもの手を引いてさっさと会場を後にする親も居るだろうが、黙って耐えて聞いていた。唇をかんで涙を抑えていた長女には、申し訳ないことをした。厳しいのはいいが、演奏外の事で言うのが腹立たしかった。とりあえず主催者に苦情を言っておいた。
ある大人ばかりが出場のピアノコンクールの客席に座っていたときに、後ろの席の音大生とおぼしき女性が合間にこう囁いていた。「男の人は衣装と言っても黒服だけで詰まんないよね。女性は衣装を着る楽しみもあるし、見るのも楽しいよね」そんな言葉が耳に入り、男の自分にはない感性を教わった気がした。それ以降、子どもには服も考えるようにした。
男には足りないものがある。「コレでいいんだ」ではダメなものもあるんだろうが、特に虚飾の世界の事はまったくと言っていいほど無知である。音楽と衣装の問題について言えば、Gパンにチェック柄のシャツという貧乏臭いフォークソングの世界とは違う。女性にとって衣装も音楽のうちと言えるのだろうが、そういう感性は自分などにはからっきしなかった。
男に不足しているものを女に、女に不足しているものを男から、それで成り立つ世間である。永遠に分らぬ異性の世界も、分担すべきものはあるようだ。我々の原始的な祖先たちは、各世代の子どもたちに、家族や部落の生活において、自立した生活を送るのに必要なすべてのことを教えることに成功してきた。植物に名をつけ、動物の習性や特徴も知っていた。
紐の結び方や剝片石器の作り方、火のおこし方、小屋を立てる技術、病人への援助や介護、応急手当てなど多くのことを知っていた。真に自立するためにはそれらのことを習得しなければ生きてはいけなかった時代である。それを思うと、今の時代はなんと自立し難い時代なのだろうか。何も知らなくても何も困らない。といえば極端だが、多くの事は機械がやってくれる。
洗濯ひとつ、掃除ひとつとっても機械がやる。飯炊きも困らない。まして狩りに行く必要もない。親が子どもに自立を促す必要は何だろう。てな感じの親も実際いるのだろう。ましてや子ども自身、自立をしなければいけない理由が分らない。便利な世の中になったものよ。そもそも子どもの母親への依存おやび両者間の相互依存は受胎の床から始まっている。
それが出産の瞬間から社会的なものになる。生物が基本的に社会的であるという性質は、母体から他方が生まれることに由来している。永遠の胎児などあり得ない。母体依存から社会的依存へと、これが社会的存在であり、人間としての成長とは、発達とは、相互依存や協力という能力の成長・発達である。胎児期、乳幼児期状態が一生を通じて継続される。
「自立心」は本能だろうか?日本人の「自立心」は、各種統計で見ても諸外国から比べても低いというデータがある。「自立心」が本能なら誰にも自立は起こる。そうではなくて、「自立心」が後天的な教育であるから自立の不備があるのだろう。ただし、食欲、性欲、睡眠欲といった動物的本能とは異なる社会的本能として「自立心」があるのを自身が体験した。
一緒にいたくもない、口も聞きたくない親なら「自立心」は早まるのではないか?優しく仏様のような親だったら、それでも子どもは自立をしたいのでは?そういう得体の知れない環境は未体験ゾーンだが、社会的本能としての「自立心」は一般的にあると思う。それを独立心と言うのかも知れない。独立心と自立心は対であろう。YouTubeに以下の動画がある。
真相は分らないが、あんなベイビーで独立心はないだろうから好奇心であろう。子どもが親から離れていくのを本気で望む親はどれくらいの割合で存在するのか?自分はそちらの方だが、結婚式で涙ポロポロのオヤジは何を考えとるんか?と思うが、別に考えているのではない。「娘がどこぞの馬の骨か分らんものに取られる悔しさ」っていう心情は到底理解できん。
自分が男で、男の立場で、妻をそうしてきたように、誰だってどこぞの馬の骨に決まっている。そういう思考に立てない方がどうかしている。男は誰も馬の骨なのだと。娘が一体何だというのか?親の肩書きは20歳で降ろす。後は友人として気づいた事はどしどし言っていけばいい。「息子(娘)はもう独立した。後は悩んで電話してきたら話を聞こう」の親が理想的だ。
いつまで親面するもんじゃない。といいながらも平の相談役というより、取締役相談役として目を光らせている自分である。親の身分とは違って、物言いには気をつけてはいるが、元々歯に衣着せぬ性向だから、ドカンということが多い。「お前はまだまだ子どもだ」という言い方はしない。これは自立心や自信の妨げになる。それより率直に「お前はバカだ」という。
やってはならない事は、親から見れば30歳だろうが、40歳だろうが、子どもは子どもであるけれども、そういう当たり前を捨てて、対等の友人関係に導くことか。依存もしない、依存もさせない、しかし、最良の友として力になる。「子どもの世話になどならんぞ」の意気込みは、親として立派である。なぜなら、子どもの生活の負担になるのは当然であるから。
老後の生活設計は親が自ら考えておくものだ。とはいいつつ…、ボケてクソを食うようになったらどうする?この屈辱たるや予定にないが、そういう困ったチャンの親にはなりたくはない。なった時?今のところその予定はない…。