「信仰心」と「宗教心」は似ているようで違う。「信仰」とは神を信頼すること。神の言葉を素直に受け取り、神に望みを託し神に期待をすること。神と個人が親しく交わることで、「信仰心」とは神に繋がること。「宗教」とは一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念で、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などを備えた社会集団を言う。
神がいなくても教祖でいい。麻原彰晃、大川隆法らも教祖である。「我こそは神」と言いたいだろうが、下半身が邪魔をして言えない。世界の宗教の信者数は、キリスト教約20億人、イスラム教約11億9,000万人、ヒンドゥー教約8億1,000万人、仏教約3億6,000万人、ユダヤ教約1,400万人、その他の宗教約9億1,000万人、無宗教約7億7,000万人である(2000年度)。
日本の宗教信者数は、文部科学省が宗教法人に対して行った宗教統計調査によると、神道系約1億700万人、仏教系約8,900万人、キリスト教系約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人で、日本の総人口の2倍弱にあたる。神道系と仏教系だけで2億人にせまる。国民へのアンケート調査等では、「何らかの信仰や信心を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割である。
天国の穏やかな風景や地獄絵図を見て思うのは、これらは体験者のスケッチではなく、人間の想像で描かれたものであるから事実ではない。アメリカのネブラスカ州の小さな町のプロテスタントの牧師であるトッド・バーポの息子で、4歳児のコルトンが虫垂炎をおこして瀕死の状態になった。コルトンは医師たちの努力で回復するが、数日後コルトンは驚くべき事を話し始めた。
「天国を見た」と言うのだ。興味のある人は読まれたらいいが、コルトン少年が何を言おうが、彼が死なないで生きてる以上、立花隆の『臨死体験』にある体験談と同じものだろう。天国は死後の世界であって、死なない人がそこを覗けるのか?という疑問が自分には沸く。完全に死んでない者が死後の世界をどうして知り得るのか?しななくても散歩がてら行ける所なのか?
批判と言うより素朴な疑問である。「私は死後の世界を見た!」という人は昔からいるが、そういう人は1回死んで、後に蘇生した人たちだ。それも含め、この少年の事も含め否定や批判ではなく、穏やかに疑問としておこう。分らないこと、判明しないことは何につけ疑問である。安易な否定は止めておくから、安易な肯定も同様に。死んだ人間が生き返るものなのか?
そういう人は仮死状態であったろう。仮死状態を「死」と定義するのか、それが本当に人の死であるのか、死の判定とはどういう基準でなされるのか?これについて解剖学者の養老猛司は以下のように言う。「生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。
しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。」医師が分らないというのだから分らないのだろう。医療で用いられる「死の三兆候」とは、①自発呼吸の停止、②心拍の停止、③瞳孔が開く、となっている。
これは数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば問題はなかったが、現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサイン(vital signs)を見て生命の状態を判断している。バイタルサインとは、生命兆候という意味の医学・医療用語である。養老氏は「死」を定義するには「生」の定義が必要といったが、以下の項目が生きているというサインである。
・心臓が拍動し
・血圧が一定値以上に保たれ
・息(呼吸)をし
・体温を維持し
・排尿・排便し
・意識状態に応じて反応し
・脳波が特定パターンを示す
・血圧が一定値以上に保たれ
・息(呼吸)をし
・体温を維持し
・排尿・排便し
・意識状態に応じて反応し
・脳波が特定パターンを示す
コルトン少年は「臨死体験」をした人たちと同様、死の手前まで行ったのだろうが、完全に死んだわけではないのは明白。彼が何を物語っても、死後の世界を本当に知っているとは言えない。生死の境目の定義は養老氏の言うように難しいが、脳死問題にしても、脳死は死だ、いや死ではないとする意見はさまざまだが、脳死臨調多数派の定義では「脳死は人の死」である。
人工呼吸器につながれ、すやすやと呼吸をし、体も温かくまるで深い眠りについているようである。新陳代謝も行われ、アメリカでは脳死状態からの出産もあった。もし、脳死が死であるというなら、この赤ちゃんは死者から生まれたことになる。死んだ人間から人が生まれるのか?臨死体験者のすべてが天国であり、「地獄を見てきました」という人はなぜいないのかが不思議…
みなさん天国ばかりで善良人ということなのだろうが、自分が思うには、夢を見ると同じような潜在的願望体験なのだろう。それにしても宗教者が、「神の愛があれば人間的愛情はなくてもいい」と言明するのは頭の中身を疑ってしまう。こんなのは人間社会における人間真理を無視したも甚だしい言葉。確かに修道者のうちに潜む愛情への欲求は、浄配キリストに愛されること。
キリストを愛すること。それらによって満たされる。これら神への愛、隣人への愛をよりいっそう豊かにするため、共同生活、社会生活のうちにおける「友情」も必要である。信仰なき人間には信仰とは「への愛」という言葉の意味しか分らない。「神からの愛」との言葉の意味しか理解できない。キリスト者は、イエスに従う並々ならぬ覚悟がいるようだ。即ちそれを十字架という。
「十字架を背負って生きる」という比喩はイエスの発した言葉から来ている。「その父と母を憎まない者は、私の弟子になることができない。また息子と娘を憎まない者は、私の弟子になることができない。自分の十字架を受け取って私の後に従わない者は、私の弟子になることができない。自分の命を見いだす者はそれを見失い、私のために自分の命を見失う者はそれを見いだす。」
【マタイ10章】
37:私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
38:また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。
39:自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
【ルカ14章】
25:大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26:もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではあり得ない。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではあり得ない。
【ヨハネ12章】
25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
【トマス福音書】
イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、私の弟子であることができないであろう。私のように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、私にふさわしくないであろう。」
無神論者や信仰心なき我々がこれらの言葉を目に耳にするだけで、とても怖ろしいことに思える。家族よりもイエスに従うこと、十字架を担うこと、自分を捨てること、この三つの自己否定をセットにしなければ「信仰心」とはならない。故にキリスト者というのは、並々ならぬ覚悟で神への忠誠心を果たさなければならない。実際キリスト者に果たせているのだろうか?
モーセの十戒には、「あなたの父と母とを敬え」とある。なのにイエスは、どうして「家族を憎む」とも受け取られるようなことを言うのか。聖書はさまざまに解釈されているが、そうでなければ"神はあまりに傲慢な奴"となりかねない。解釈がどうであろうと自分ら「信仰心」なき者には関係ない。都合の悪い事は都合のよい解釈をされるのがしばし世の常である。
信仰ある者はイエスのいかなる言葉も否定的にとらないし、それこそが信仰であろう。我々はリンカーンだろうが、日蓮だろうが、ソクラテスであろうが、良い事は肯定的に、良くない言葉は否定的にとるが、絶対者・全能の神に「否定」の二文字はないのだろう。神は間違った事は絶対に言わないというそのことこそ「信仰」の根源である。それが自分らには理解できない。
人間は間違うものだが、神は間違わないということだ。よって、聖書などの記述であきらかに傲慢やるせない言葉、明らかにおかしいと感じる言葉には腹が立ってくる。よって、我々は「信仰心」のない人間である。神の可笑しな発言の正しい解釈をと説明しようとするキリスト者には「No!」の我々は、だから「信仰心」がない。なくて困らないからそれでいい。
「信仰心」がないのを自慢するわけではなく、不要なものは不要と言うだけ。信仰が心を豊かにするなら結構なことで、そういう人々は信仰に生きたらいい。が、信仰が心を煩わしくする人間に信仰はいらない。今から70年前の1944年5月、地中海戦線で一人のフランス人航空師が突如行方不明になった。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリといい、彼は作家でもあった。
型破りの作家で星空を飛び回ったらしく、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれていた。『夜間飛行』(1931年)と『人間の土地』(1939年)は、ベストセラーとなり、彼の代表作として高い評価を受けた。現在でも世界中で広く愛読されているし、伝統あるフランス植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。
そんな彼に『星の王子さま』(1943年)という作品がある。自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された児童文学作品である。全世界で8000万部(2009年)、日本では600万部が売られている。児童文学ながら、子供の心を失ってしまった大人に向けての示唆に富み、大人の愛読者も多い。作品の元になったのは、1935年リビア砂漠での飛行機墜落事故の体験である。
作品全体を覆う「大切なものは、目に見えない」の言葉をはじめ、地球上ではつまらぬことや小さなことに人々が引っかかりすぎて、大切なことを忘れ、間違ったことを本当だと思っている、それらをサン=テグジュペリは美しく述べている。子どもが子どもであるのは大事なことだが、こんにちの教育の欠陥は、子どもが子どもらしさを持たないまま一足飛びに大人になった。
つまり、子どもが大人によってコントロールされ過ぎていることの弊害といえる。大人の模型のような子ども、反面、子どもじみた、子どもっぽい大人の多すぎる。自分の得にならない事は興味ないし、やらない、という損得勘定の強い子どもは、すべて大人がそのようにしたのだろう。事あるごとに狂犬のように噛み付く子どもも大人も多い世に中になってしまった。
子ども心を取り戻すにはどうすればいいのか?それは子どもの純真さをもって、驚きをもって、大人の世界の矛盾を見極めることだ。象徴的な『裸の王様』の話は、子どもの純粋さ、正直さを示唆している。大人世界の矛盾に慣れてしまった我々は、何が大人世界の矛盾?と聞かれても即答できないだろう。大人世界の矛盾とは、「星の王子さま」の見た世界である。
つまらないことに拘って、大切なものが軽んじられている、そういう世界である。なにかにつけて被害者意識の強い人は、欲求不満を抱えている。よって、幸せな人とはいえない。星の王子さまは、星の国から地球に来て、アフリカの砂漠に降り立ち、そこでヘビに出会う。「砂漠って淋しいところだ」、「人間はどこにいるの?」と、ヘビに尋ねる星の王子さま。
「人間たちがいるところに行っても淋しさは同じだよ」とヘビに言われ、王子は考え込んでしまった。人間社会は砂漠のようであってはならない。全人的な交流もできないし、メール一本で簡単に出会えるネット社会は、メール一本で簡単に終えられる殺伐とした社会である。砂漠のような社会で、互いが砂漠を作り、いつ途絶えるかも知れない関係を続けている。
星の王子は今度はキツネに出会い、キツネと仲良くなる。別れ際にキツネは王子に一つ秘密の贈り物をする。キツネは口ごもりながら、「それは何でもないことだよ。物事は心で見なければよく見えないってことさ。肝心なことは目には見えていないのさ」という。「肝心なことは目に見えない…」と、その言葉を何度も復唱している王子にむけてキツネは言った。
「あんたが星に残してきたバラの花をとても大切に思っているのは、あなたがそのバラの花のために時間を無駄にしたからさ」と言い、続けて、「人間と言うのは、この大切なことを忘れているんだよ」と。"大切なこと…"とは、子どもの持っている素直な目、心の目で物を見、心の耳で聞くことを指している。王子は星に残して来たバラにずっと愛着を感じていた。
王子がそのバラに水をやり、虫ととったり、風から守ったりと、そのバラのために多くの時間を無駄にしてきたからだ。あえてこういう時間を無駄とし、無駄な時間を大切にすることこそさりげない、子どものような愛情である。むかし、子どもが何でもない河原で拾った石を大事にしていた。大人にとってはくだらないそこらの石が、子どものは宝物に見えたのだろう。
大人の価値基準で価値判断をし、価値のある物(あるいは者)を大事にし、価値のないものはどうでもいいからと粗末にする。自分の利になる人を大事にし、何の利益にもならぬ人は無碍にする。こういう世知辛い世の中になった理由は、横並びの競争意識なのか。ある青年が路端で自転車をいじっている。タイヤがぺしゃんこ、通りがかった婦人が「パンクです?」と声をかけた。
青年は、「見りゃ分るだろが!」と言った。婦人の「パンクですか?」の問いかけは、パンクの有無を聞いているにあらず、青年のパンクを心配しているのだが、それを感受する優しさ、敬愛心がまるで青年に備わっていないということだ。これら一切も親の責任に思える。「星の王子さま」は、2015年冬に『星の王子さまと私』というタイトルでアニメ映画公開される。