坂口安吾の代表作は…、といっても小説とエッセイに分かれる。小説では、『白痴』、『桜の森の満開の下』、『夜長姫と耳男』などであろうし、エッセイなら、『堕落論』、『日本文化私観』、『FARCEに就て』、『教祖の文学』ではないかと。初めて読んだ『堕落論』は高2、どれだけ文意を理解したか疑問である。小説は物語を追うが、エッセイはそうはいかない。
彼についての紹介文は書かないことにする。小説の批評も書かないことにする。エッセイについての感想も書かないことにする。では、何を書くのか?分らない。と言っても、もう書き始めてるわけだ。少し前に、「書くと言う行為は無から有を生むと思われがちだが、まったく逆…」と言った。頭の中の膨大な情報を整理してまとめることで、誰もがそうであろう。
そもそも「無からは何も生じない」というのが、哲学の一分野たる形而上学で議論される原理である。西洋哲学においては、紀元前5世紀のギリシアの哲学者パルメニデスによってこの原理は生み出された。彼はこのように言う。「あるものがどこからどのようにして生じたというのか?あらぬものから、ということも考えることも、私はお前に許さぬであろう。
なぜなら、あらぬということは語ることも考えることもできぬゆえに。またそもそも何の必要がそれを駆り立てて以前よりもむしろ後に無から生ずるように促したのか?かくしてそれは、まったくあるか、まったくあらぬかのいずれかでなければならぬ」。紀元前1世紀のローマの哲学者ルクレティウスも著書『物の本質について』の中で、この原理を取り上げ論じた。
「何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない」とし、これが自然界の第一の原理とした。理由として、「無から物が生ずるなら、あらゆる物からあらゆる種類が生じるし、種子を必要とするものは何もない。海から人類が、大地から魚族が生じ得るかも知れない、天空からは鳥類が忽然として出現し得るかも知れない…」などと論じている。
マジシャンが何もないところからコインや鳩を出すが、アレを本当だと思うのは幼児である。ところが、近年の研究によると、この哲学的定説が覆されようとしている。高名な宇宙物理学者であるローレンス・クラウス教授は、その著書『宇宙が始まる前には何があったのか?』で、宇宙は「無」から生じた可能性が高いことを指摘する。そのまえに、そもそも「無」とは何かを定義する必要がある。
「無」とは、空間も時間も存在しない状態のことか?そうであるなら、空間や時間が存在しないところに物理法則はどうなのか?空間も時間も物理法則すら存在しない文字通り何もない状態(無)から物質は生じ得るのか?クラウス教授の著書によれば、答えは「Yes」である。それならば、何も存在しない「無」の状態から、どのようにして物質が生まれるのか?
このことに熱心且つ興味のある方はクラウス教授の学説を読まれよ。安吾から宇宙論に及んでは元に戻すのも大変だ。とにかく、空白の原稿用紙を埋める作業は、0を100にするのではなく、1000を100にする作業である。画家も漫画家も音楽家も小説家も、創作家といわれる人たちはみんなそうであろう。小説は物語ゆえに考えなくても読めるが、エッセイは思考がいる。
坂口安吾は小説家という肩書きはあれども、文豪と呼ばれる文学者ではないし、現実的に彼の作品の中には、未熟な失敗作や未完作も多い。坂口安吾という個性を十全に開花させた長編小説は書かれなかったが、その特異な文体や表現の魅力が、ジャンルを超えて親しまれている。『桜の森の満開の下』を始めて読んだときの、彼の表現はまさに鳥肌ものだった。
「花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました」。これ以後、桜の花の下を通る度に、このセンテンスが頭に浮かぶのだ。言われるように、ゴウゴウ風が鳴っているのである。
日本人の郷愁、美しい桜の満開の下に、"ゴウゴウ"なる表現を持ち出す作家が、安吾以外に誰がいよう。なんともおどろおどろしい言葉ではないか。川端康成は安吾の葬儀に臨み、以下の言葉で彼の死を悼んだ。「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない。」享年48歳であった。
生前安吾は、『私の葬式』というエッセイにこう書いている。「私の骨なんかは海の底でも、森の片隅でも、どこか邪魔にならないところへ、なくして貰いたいと思っている。葬儀などゝは、もってのほかで、身辺の二三人には、誰かに後始末してもらわなければならないけれども、死んだ人間などゝいうものは、一番つゝましやかに、人目をさけて始末して欲しい。
むなしくなった私のむくろを囲んで、事務的な処理をするほかに、よけいなことをされるのは、こうして考えても羞しい。死んだ顔に一々告別されたり、線香をたて、ローソクをもやし、香などゝいうものをつまんで合掌メイモクされるなどゝ、考えてもあさましくて、僕は身辺の人に、告別式というものや、通夜というものはコンリンザイやらぬこと、かたく私の死後をいましめてあるのである。」
どうやら望み通りには行かなかったらしく、1955年(昭和30年)2月17日早朝に脳出血で帰らぬ人となった安吾の葬儀は、2月21日に青山斎場で行われた。棺おけの安吾の顔を覗けたかどうかは分らないが、仮にそうであっても本人は死んでいるのだからまんざら嫌でもなかろうが、彼のエッセイ『私の葬式』を遺言とみなすなら、遺族はそのようにすべきであったろう。
安吾の死に顔はデスマスクに象られ、多くの人の目に触れることにもなる。こんなのは安吾の本意ではなかったろう。享年48歳は、自殺した芥川(35歳)、太宰(38歳)に比べると長命(?)であるが、同じく自殺にて45歳で非業の死を遂げた三島由紀夫は、「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」と述べていた。
太宰が自殺する前年の昭和22年1月、東大卒業目前の三島は、「太宰を囲む会」に出席し、「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言ったのは有名な話。「嫌いなら来なけりゃいいじゃねえか」この時太宰はそっぽを向いたといわれている(新潮社、野原一夫の回想)が、後に三島は昭和30年刊『小説家の休暇』において、再度太宰を罵っている。
「私はこの人の顔、ハイカラ趣味、そしてこの人が自分に適さぬ役を演じたのが嫌いだ」と。「適さぬ役を演じた」の言い回しは、自殺を意味するのは言うまでもない。三島の太宰への嫌悪は自分と性格が似ていたからというのは、文学史上、衆目の一致するところ。ある時、「お前も太宰と同じだ」と言われた三島は、「そうなんだ。同じなんだ」と言ったのも有名な話。
血縁的距離が極めて近い関係にある者同士、あるいは性格の似通った者同士が憎み合うことを、「近親憎悪」という。三島はメソメソ、クヨクヨな太宰があまりに自分が似ていたと感じていた。いずれも演技的性格、自意識・自己顕示欲の強烈さがそれを裏付けているが、女と入水自殺をした太宰に対し、「オレはお前とは違う!」と、惜別の割腹であったのか…
さて、安吾について書こうとしたとき、彼についての紹介文は書かない。小説の批評も書かない。エッセイの感想も書かないといったが、それでは書くことがないではないか。と、いいつつも何やら書いている訳だが、言行不一致ならそれも人間であるし、仕方のないこと。安吾の本名は炳伍(へいご)といい、「丙午(ひのえうま)」(1906年)生まれの五男からつけられた。
丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるとされ、江戸時代の初期、丙午の年には火災が多いというのも、「八百屋お七」が1666年の丙午生まれだったことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まった。自分らの世代でも、「丙午年」の女は避けるよう親がしきりに言っていた。安吾も1906年生まれの丙午で、親戚から男で良かったと言われたようだ。
1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1924年(大正13年)頃から、迷信を否定する談話や、縁談が破談となった女性の自殺の報道などが相次いだが、これらは丙午生まれという迷信が女性の結婚に影響したことが伺われる。迷信は昭和になっても衰えず、60年後の丙午(1966年)では出生率が前年に比べて25%低下した。このような迷信に対する自治体の取り組みもなされた。
1965年11月、山形市で「ひのえうま追放運動」が、法務省山形地方法務局が主催の元で展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけた。同法務局によると、子どもを産む産まないで離婚調停に至ったり、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためという。また、群馬県粕川村(現・前橋市粕川町)でも、村長主導で、「迷信追放の村」を宣言、運動が行われた。
村役場が1906年とその前後の年に誕生した女性1400人を調査し、丙午には根拠がないことを広報するなど取り組んだ。怖ろしきかな、「因習・迷信」である。安吾の履歴を眺めて思うのは、彼が母親を嫌悪していたこと、鬼が家に居ては子どもは家に居たくない、帰りたくない。安吾も学校から帰ると鞄を投げいれ、夜まで遊びほうけて家に帰らない子どもだった。
母はそんな安吾を、「大阪商人のところに養子に出す」とか、「お前は貰い子である」とか、などと脅したり賺(すか)したりした。自分も母親に、「捨て子をひろってやった」とか、「お寺に預ける」などはバカの一つ覚えくらいに言われたものだ。安吾はこう書いている。「私は極度に母を憎んでいた。母の愛す他の兄を憎み、妹を憎み、なぜ私のみ憎まれるのか。
たしか八ツぐらいの時、出刃包丁をふりあげ、兄(三つ違い)を追い廻したことがあった。(略) 母は私に手を焼き、お前は私の子どもではない、貰い子だと言った。その時の嬉しかったこと。この鬼婆アの子どもではないという発見は私の胸を膨らませ、私は一人のとき、そして寝床へ入ったとき、どこかにいる本当の母親の事を考え、いつも幸福であった。」
とあるように、安吾は母から何かを言われても怯まない。実子でないといわれて喜ぶほどに母を見下していたのが分かる。子どもであれ何であれ、人間は恐怖感を抱くと、相手の言葉がグサリ胸に突き刺さるが、安吾も自分もそれがなかったほどに徹底嫌悪していたようだ。嫌う人間に何を言われようが、動じない、怖れない。それは子どもであってもである。
このように立ち回られると、むしろ親の方が恐怖感を抱くし、安吾はこのように述懐する。「母は非常な怖れを感じたのであった。それは後年、母の口から聞いて分かった」。安吾の家には妾の子を含む13人が同居し、上の妾の姉二人は共謀して母を毒殺する計画を立てていたという。「母と私は憎しみでつながっていたが、私と父は全くつながる何物もなかった。
それは父が冷たいからで、そして父が、私を突き放していたからで、私も突き放されて当然に受け取っており、全くつながるところがなかった。私は私の驚くべき冷たさに時々気づく。私はあらゆる物を突き放している時がある。その裏側に何があるかというと、私はただ専一に世間を怖れているのである。(略)私の冷たさの中には、父の冷たさの外に母からの冷たさがあった。」
なるほど、ときに安吾は自らをも突き放して世間の思惑に身売しようとする。太宰も芥川も若き日に命を絶ったが、川端も70歳を越えての自殺であった。世評はノーベル賞が自殺の原因であろうとの指摘がある。老いは創作意欲の減少であり、それに対する強度の精神的動揺であろうか。老醜への恐怖は誰にもあるし、かつて銀幕の美人女優が隠遁生活を送るように…。
安吾自身も小学生時代、家出か自殺か何度も迷ったという。少年期の子どもの家出願望、自殺願望の本気度は分らないが、とにかく安住の棲家である家に居たくないという事がすべてであろう。昨今も、少女の失踪は少なくないし、自殺にしろ家出にしろ、事が起こってみないと分らないというのも、親の悲哀である。安吾は幸便にも、中学で実家から離れることとなる。
東京の中学に入学を得たのだが、それは新潟の中学の無茶苦茶がたたって追い出されたことになる。母と別れることを無常の喜びと感じた安吾の気持ちは、分かりすぎるほどよく分かる。「鬼の居ぬ間の洗濯」という言葉があるが、鬼などずっと居ない方がいい。一日中外で遊んでいても、ねぐらに帰って鬼の顔を見るのは辛いもの。それを思うと家を出るのは無常の喜びである。
昨年1月、91歳で他界した小野田寛郎元少尉が、フィリピン・ルバング島から帰還を果たした1974年から、丁度40年目に当たる。小野田さんは実親と精神的に絶縁していた。「私は親にずっと反抗し、困らせてばかリいた。私に子供を指導する資格があるとは思えないが、自然のなかでのサバイバル技術と知恵なら授けられる」。の思いが、「小野田自然塾」開校の理由であった。
小野田さんはいう。「小学1年の時、教室で級友にナイフを貸してと言って断られ、「ケチンボ」と貶すと、相手はナイフを振リ回してきた。私は近くの机の上にあった別のナイフで彼を傷つけた。学校から呼び出された母は激怒し、私は正当防衛を主張したが、母は自分の護り刀を私の目の前に置き、『人に危害を加えるような子は生かしておけません』と、私に切腹を迫った。
6歳の子にこんな要求をする親に驚いたが、私は腹を切れず、『今後二度と刃物は振り回さない』を誓わされた」。小野田さんにとっては、自分に非がないことを理解して欲しかったろう。自分も小3のときに、冗談で彫刻刀でコツンとやっただけなのに、大問題となり、「あいつは彫刻刀で人を刺した」という噂が広がった。しかるに真実は教師も誰も理解してくれなかった。
痛くもないのに相手が大泣きしたことで怖い先生のところに行かされ、「監獄に行くか?」とまで言われた。当時は自己主張すらできなかった。喧嘩でも何でもない状況で人を刺すか?考えたら分かりそうなものだが、状況判断ゼロのバカ教師。頭をコツンして泣く奴もどうかと思うが、その状況から大問題にするオトナって何だ?その教師は今でもバカだと思っている。