女子の社会では小学校低学年期から、「告げ口」は多いらしい。「誰々さんがあなたをこういっていた」と、嘘か真か、真か嘘か、告げ口の意図は嫉妬か意地悪か、二人の関係を悪化させること。女が女を信用しないのは、こういう経験するからか。「Aさんがあなたのことを嘘つきだから気をつけた方がいいって言ってたよ」、この一言で崩壊する関係である。
男でそんなことを言ってくる奴はまあ少ないが、言う奴がいたら、「人に言わずに直接言えって言っとけ」と、告げ口した人間の手柄を認めない意味もある。「いちいち言ってくるな」と追い返すこともある。何事も直に聞かなければ信用してはいけない。戦国時代、「○○が謀叛を企んでいる」などと、アリもしない嫌疑をかけられ、失脚、切腹された重臣は数限りないという。
本人に確かめもせずに処罰もあったし、直接呼びつけて問う城主もいたが、否定したところで猜疑心が消えるはずもない。いつ寝首を掻かれるか分らない時代にあっては、不穏な動きは早めに刈り取るのが正解であろう。濡れ衣をかけられた重鎮は、さぞや無念であったが、下克上と言われた時代のあちこちに「本能寺の変」はあったようだ。
徳川家康の嫡男松平信康も謀叛嫌疑をかけられ、信長に切腹を命じられたといわれている。弁解をしても一切聞き入れられない無念さはいかがなものかと。子どもの喧嘩で、「先に叩いた」、「いや、叩いてない」の後に教師に言いつけるのは、自分が「是」、相手が「非」ということになろう。教師もそこをわきまえておかないと、判断を誤ることになりがちだ。
先の例で、もしボクがこのように言ったら教師はどうであろう?「あのね~先生、彼は叩いてないと言うけど嘘をついてる場合もあるでしょう?人が人を理由もなく叩きますか?先生は、その事に違和感を抱きませんか?」。小学生の分際でこのようなことを言うはずがないが、それはさて置いて、言ってること自体はどうであろうか?
小学生がこんな事をいうはずがないはともかく、このように理路整然と諭されたら教師はどう答えるのか?子どもだからと見くびって、適当に、面倒くさそうに対処するなら、それでも教師なのか?と、いいたいが、教師なんてこんなものだろ。教師という職業従事者であって、彼らが教育者でも何でもなく、まして優れた人間などとあり得ない。オカマの教育者も…
教師のいい加減な対応に、ボクはオトナを信用しなくなった。嘘つきにコロリと騙され、味方する教師なんてアホである。子どもであっても、そういう認識は抱くし、そんなアホ教師に不信感を抱くのは当然であろう。相手が嘘をついたのを自分は知っている。が、オトナというのは相手の嘘をキチンと見破る能力をもっていると思うのが子どもである。
ましてや教師ではないか。教師とはそこらのオトナ以上の特別な資格者であることも、子どもの認識にある。だから先生と呼ぶのだ。それがこの程度の体たらくなら、子どもは何を信じたらいい?「自分は悪くないので謝りません」という態度は、教師、オトナへの不信であり、反発である。「相手は叩いてないといってるんだし、とりあえず謝っておけ」
と、こんな言い方ならしない方がいい。裁定とは程遠く、面倒臭さ丸出しの、真剣さのかけらもない態度である。人と人のトラブルの仲裁は難しい。正しく裁けないならしない方がいい。いじめ被害者の多くが教師に相談しないという。なぜか?「先生に言っても何もしてくれない」からである。忙しさにかまけてか、無能か、おそらく後者であろう。正しい対応がでない。
いじめの解決より、いじめの存在が教師にとっては問題である。あってはならないいじめの解決などをして何の手柄もない。それなら、いじめはないという黙認姿勢やすっとボケたほうが、よいクラス運営をしていることになる。いじめ事件があった時、いじめを認識している教師がいないのは、見ても見ないふりをする教師の姑息な態度である。
バカな奴らだよまったく。的確なクラス運営をする気などはなく、表面上でお体裁を整えんとするいい子ぶりっ子教師は、文科省が真に逞しくも正義感に満ち溢れた教師を選別しないからだろうが、そんな人間がどこを探しているという問題もある。家庭や社会が子どもの心は歪ませていることを知りつつ、何の対応も改定もしない国であろう。
無責任で無能なオトナから子どもはさまざまに迫害を受ける。そんなオトナなら、子どもにとっては信頼できない、頼りにならない、単に自分たちよりカラの大きい木偶の坊でしかない。自分は子どもの時にたくさん体験した。ボクとは自分の事。「悪くないのに謝らない」と言うのは、教師もオトナも正しくない。正しいのは唯一自分であるという「言葉」である。
人は秘かに自分が悪と分かっていても、「悪くない」といったりするが、そうではなくて、正しいことに気づかず、自分が悪くないと思って言う場合もある。どちらにしても、正しく論理的な説明を聞けば、納得する柔軟性が子どもにはある。だから「導き」が必要なのだ。本当は自分に非があるのに、「自分は悪くない」という間違った子どもの認識を正すのがオトナであろう。
何が正しく、何が間違い、何が誠実、何が不正などと、混沌とした社会にあって、人を正しく導くのは難しいが、せめて「何が正しい」くらいは自信を持って発揮できるオトナが素晴らしい。今、起こってることの是非の判断は、学業優秀な人間にできるなどと思ったら大間違いである。様々な本を読み、思考し、哲学し、賢人の言葉に触れるなどが素養となる。
それらを元に総合的な判断をしなければならない。非があるにも関わらず、「自分は悪くない」を言い張る人は当然いる。こういう場合にどうすればいい?こんな人間をたくさん経験したし、もちろん自分も非を正と感じていたことも多だあった。「自分は悪くない」、「間違っていない」といい張る人にどれだけ正す努力をしても変えるのは難しい。
説教などは垂れるだけ無意味である。ただし、「変わらない」というのは、一朝一夕に「変わらない」のであって、不変というのではない。正す側の拠り所はそこにしかない。我々とて子どもの頃に若い頃に、自分のためにあれこれ言ってくれる人をウザイとしか思わなかったようにである。なのに、同じことをギャーギャー言うってのが、そもそも能ナシである。
能ナシは能力ナシの意味だが、脳みそがない脳ナシと言った方がいいかもだ。何十年も経ってみて、「ああ、あのときにいってくれた言葉は、本当に自分を思ってくれていたんだ」と言うことは多い。その時にはなかなか分らないものだが、もし即効性のある言葉が存在するなら、その問題が小さいことを表している。利口な人間は自身で自身の考えを作っている。
だから、人からあれこれ言われて考えが変わることはない。考えや価値観が簡単に変わるというのは、他人の受け売りが詰まっているノンポリであろう。難しい、込み入った問題ほど自己葛藤するはずで、人は自己変革でさえ、「王国を転覆させるより難しい」といわれるように、他人が他人の価値観を変えるのは難しい。いつの日か分かってくれたらいいとの気持ちが大事。
真実とはなんだ!真実の価値とはなんだ!倫理や道徳も貢献はするが、それだけで真実の価値とはならない。「こうしてはいけない」という秩序は、単に自分がそうされたくないということ。それが、他人にしてはならないという「道徳」となっている。あるいは、他人から「こうしてもらいたい」というなら、それが「他人にこうすべき」と、それも道徳である。
物事の根元意識というのは、実は「期待の期待」である。「なぜ浮気はいけないのか?」と人に聞けば、「じゃあ、あなたは恋人が浮気されたら嫌でしょう?」と返ってくる。それが答えであり、そういう期待の期待に対する答えしかない。それを人間の道徳と言っている。性能のいいクルマで高速道路の制限時速を破ってぶっ飛ばしたい理由は何か?
「スカッとする」、「気持ちがいい」というのも感情的、感覚的な答えだが、「欲求を制限する社会規範もそれ自体、究極的には、人間の現実的な欲求に根ざし、その欲求から活力を引き出している」と、言う答えもでる。不倫の恋も活力、高速道路をぶっ飛ばすのも活力である。時速300kmのスピードが出るクルマを作る理由も、持つ意味も、潜在的な欲求を満たすことにある。
「規範意識と欲求が同じもの」であるというところに人間の矛盾が示されている。御幣のある言い方をすれば、道徳を守り、遵法精神で生きている人というのは、自分が弱く、あるいは善人意識を標榜する人であろう。道徳や法を守るのが悪いといってるのではない、守らなかった暁には責任を取ろう、取ればいい、という人が強い心の持ち主である。
その中間色の人も居ようが、もっとも情けないのは、悪事が露呈した時の往生際の悪さである。善人意識を持ちながら悪事をし、それがバレたときのバツの悪さがこういう人間であろう。いつもいうように、悪事はしてもいい。規則なんて破るために存在するものだ。それを行為するときは心して、覚悟の上でなされよ。そういう人間は清々しい。
「悪いことなんかしない」とのたまう人間よりは、ずっと人間的で清々しい。そもそも、人が悪事をしないで生きていられることがあり得ないからだ。人間は卑しい生き物である。生きるために食う動物と違って、ぶくぶく太っているではないか?自然界の動物を見るといい。肥満のキリンがいるか?メタボなライオンがいるか?デブのチンパンジーがいるか?
自然界ならいざ知らず、人間が罪深いのは、ペットを肥満にさせる人がいること。おまけに、「こんなに太りました」とイヌやネコを誇らしげに動画サイトにアップしたりする。ネコちゃん、ワンちゃんは動きづらくて苦しいだろうな。仕方がない、人間にペットとして飼い慣らされた時点で、本能習性が退化し、バカになるのだろう。それが人間には愛おしく見える。
元はいえ生命の維持以上には食べない動物であるはずなのに…。「食」の楽しみは人間に与えられたエロスであるからして、否定はしないし、与えられたものは大いに楽しめばいい。が、その責任は取らなければならない。「体脂肪を減らす」と名打っただけで大ヒットの機能性食品。「ライザップ」という会社も、めきめき売り上げを伸ばしているという。
人間はまた、「何が正しい」だけでなく、「何が楽しい」を重視して生きる。カロリーオーバーが正しいわけはないが、楽しい事を続けて、後で困ったと嘆き後悔する動物である。他の動物に比べてある意味バカだが、動物に笑われることもない。「何が楽しい」は、感情的な部分だから、考えなくても行為できるが、「何が正しい」は理性的に思考して見つける。
よく女性が、「何が正しいかなど、そんなのどうでもよくない?そんなこと考えたこともないし、考える気もない。それでも生きていけるでしょう?」などというが、感情だけで生きるなら立派なもの。なかなかそうはできない。楽しい、楽しくないの答えはすぐに出るが、何が正しい、間違っているかの客観的に判断は難しい。経験が大事、幅広い視野や知識が大事である。
それらをもとに思考する。それでも、感情に左右されたりで難しい。稚拙で愚かな自尊心に殉じるより、深い考えに接して自らを成長させることは大事である。人の上に立ったり、指導的な立場にあったりするときに、この差は歴然とする。「指導力」や「統率力」、「包容力」や「決断力」、「説得力」というものがまるでない上司をもつの憐れ。
今は亡き庶民宰相といわれた田中角栄を「欲望のブローカー」と呼んだのは立花隆である。一人のジャーナリストが時の宰相を「金脈問題」で追及し、失脚させた。「欲望のブローカー」とは言いえて妙な表現だが、田中は相手が何を欲しているかを判断する能力に長けていたという。ある官僚が何を望んでいるか?政治家になりたいのか、出世か?
あるいはローンの支払いに窮して金を欲しがっているか、また政治家の秘書、あるいは自治体の長がどういう野望を抱いているか、などを的確に判断し、田中はそれを叶えんとするブローカーであると立花は言う。ブローカーという言葉はともかく、権勢欲、闘争欲、金銭欲などという人間の欲望を上手く利用して人を説得する技術は効果を発揮する。
そして、それが善意と愛情に裏打ちされたときこそ、最大の効果を発揮する。ところが、善意も愛情もなく、それらを抜きに小手先の説得術だけを弄してみても、そういう説得者は誰からも信用されない人間となる。そういう人間は、上に立つに不向きな人間と断じるしかない。彼らは孤立し、ひいては孤独になって行く。管理職はうるさい事をいう役目を負う。
嫌われることもある。「嫌われるのが仕事」という奴もいるが、それは違う。かと言って、部下に姑息に迎合する管理職は、その任にあらず。仕事においては割り切ってキツイこともいうが、「何か困ったことがあったらいつでも相談に来い。イの一番にオレに言うんだぞ!」みたいな、人間的魅力があれば、決して嫌われることはない。部下はちゃんと見ている。
その日の気分や、時々の気分で、指示されたり、言葉を荒げたり、こき使われたりなどの上司がもっとも嫌われる。人は人に感情的に使われるのがいちばん頭にくる。女性管理職が少ないのは、そういう部分もあろうが、なりたくないとする声も多い。近年、有能な女性管理職は、緻密で冷静であるという。だから、管理職に置かれているという事もいえる。