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「関係を壊す」という関係

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相手が叩いてきた。叩かれたので叩き返す。すると相手は泣いて先生にいいつけた。先生に呼ばれ問われた。「何で叩いたんだ?」、「先に叩いたので叩き返した」と言った。「(泣いてる子に)何で叩いたんだ?」先生は聞いた。「叩いてません。なのに叩かれた」と言った。「嘘だ、お前が先に叩いたろ?」といえば、「叩いてない!」と言い返す彼に呆れてしまう

この状況を教師はこう納める。「もういい、言い合いしても始まらない。君は叩いたんだね?」と再度自分に問う。「叩きました!」、泣いてる子に「君は叩いてないのか?」、「叩いてません!」と言う。「なら叩いた君は謝りなさい」。「嫌です。謝りたくない。ボクは悪くないから…」、「だって、叩いたんだろ?だったら謝らなきゃ!」、「いえ、謝りません」。

という状況。謝らないないボクって正しい?謝る理由がないから、ガンとして謝らないボク。もし、同じような状況で教師の「謝れ」の指示にしたがって謝るやつはいるだろう。どちらが正しい?この場合の「正しさ」とは何だ?ボクが相手を叩いたことの真実の理由を知るボクには、正当防衛という正しさがある。叩かれて泣いた相手は、ボクが正しいと思うだろうか?

自分が先に叩いたからボクが叩き返したという事実を知りながら嘘をつく相手は、ボクが正しいと思いながらも、ボクを陥れようとする。あるいは、ボクを正しいと思わないのかも…。的確な事実判断よりも、我田引水である。相手はなぜかボクを悪者にしたいわけだ。仲裁に入った教師の対応は適切か?不適切か?だが、上の事実においていうなら間違っている?

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相手は嘘をいい、ボクは正直に話した。教師は相手の嘘を信じ、正直なボクの真実を信じた。その結果、相手は正しく、ボクは悪いとされた。さて、ボクはこの状況を納得できるだろうか?正直な自分より、嘘をついた相手が正しいとされた。その事でボクは教師に不満を抱いた。不満は日を追って不安となった。「先生が生徒の言う嘘に騙されていいのだろうか?」

「先生って、正しい目を持ったヒトじゃないな」と、それが分かった。そう断じざるを得なかった。ボクは教師を不信の目で見るようになった。教師はオトナであり、教師もオトナも子どもについて正しい判断ができるはずなのに、そうではないのが分かった。そりゃそうだろう。子どもの争いにオトナは正しい判断で裁いて欲しいと、子どもなら思いたい。

オトナなんか何もわかっちゃいない。嘘つきを信じる教師なんかサイテーだ。そんな教師なんか信じれるはずがない。たった一つのことが、教師を不信にしてしまう。子どもの視点って実は怖ろしい。信頼を壊すのは、たった一つのことで十分である。おそらく、同じ思いを抱いたヒトはいる。同様の経験から教師やオトナに不信を抱いたヒトはいるはずだ。

問題は単純だが、ヒトの思いは複雑だ。子どもであってもオトナと変わらない思いでヒトを見る。なぜ教師は、「何もしないのに叩かれた」という相手を疑わない。それって問題の核心だろう?何もしない相手を叩くか?この程度の感受性もない人間が教師でいいのか?物事を正しく把握しないで、正しい裁定が下せるか?真実を知る自分のところに降りてこない教師。

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これはもう子ども心に教師を見下してしまったも同然だ。確かに教師といえども「神」ではない。オトナはすべてを見通せるものではないだろうが、子どもにすれば純粋にそういう事を期待するし、それが生徒にとっての教師、子どもにとってのオトナである。嘘を疑いもせずに簡単に信じてしまう教師もオトナも、そんなもんいらない。自分はそこまで思った。

だって、何の役にも立ってないし、嘘を信じるオトナってバカに決まってる。テレビドラマや映画で、人が嘘で操られたり、騙されたりするのを、観客はイライラしながらみるだろうし、現実とて同じこと。「何でコイツの嘘を信じるんだ?」と、イライラした。嘘つく相手に向かって、「お前は嘘つくんじゃない」と言ってくれたら、どれだけ清々しいか。

沢山あったな、こういうこと。子どもは、こういう場合にどうにもできないものだ。嘘をつかれて、教師やオトナの仲裁もないまま、茫然自失なこともあった。このブログにも数度書いたが、小3のときの「接眼レンズ事件」は、悔しいというより、事の大きさに言葉がでないほど驚いた。なのに、何もできない非力でいたいけな自分を、オトナになって悔しがった。

どうしてあの時、言い返せなかったのだろう。三個のレンズを便所に落とした、などの合理性のない、とってつけたような嘘に対し、何も言い返せなかった自分が悔しくて、情けなくて、この時のことが後の自分に大きく寄与したと思われる。過去において、どういう場面をやって見たいか、といわれるなら、真っ先にこの場面がやってみたい。彼の嘘を粉砕してみたい。

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善意で借した接眼レンズを、嘘をついて自分のものにしようとする人間を許してなるものかだ。考えれば考えるほどヒドイ奴。接眼レンズのない天体望遠鏡など、虫眼鏡以下で何の役にもたたない。親に「なくしたから買って」とは到底いえないのは、なくする理由がそもそもあり得ず、嘘もつきたくない。ましてや自分が新聞配達をして買った望遠鏡である。

自:「貸した接眼レンズ、そろそろ返してくれないか」
彼:「アレは便所に落としたんだ」
自:「三個貸したろ?全部落としたのか?」
彼:「全部落とした」
自:「便所に落すのはウンチで、接眼レンズを落すところじゃない。何で便所にもって入ったんだ?わざわざ…」
彼:「ポケットに入っていたのが落ちた」
自:「落ちたら拾えよ、汚いといっても食べるものじゃない。洗えばいい。網くらいあるだろ?何で拾わないんだ、人から借りたものなのに」
彼:「網がなかったから…」
自:「拾わなかったなら、ショーがない。親に言って弁償してほしい。高価なものだし、ないと困るから」
彼:「親にはいいたくない」
自:「お前が弁償できるんか?何で、親にいわない?」
彼:「怒られるから」
自:「怒られるわな、そりゃ。何で便所にもって入った、バカもんと怒られるな」
彼:「うん」
自:「お前が怒られるのはオレには関係ない。とにかくなくしたなら弁償してもらう」
彼:「それは困る」
自:「冗談いうなよ。お前が言わないなら家に行ってオレが親に言うよ」

と、これくらいは言って見たい。もちろん、今ならではだけど。子どもの世界ではこういう事ってあるんだろう、世の中見渡せば。借りたものをなくしたで済んでしまうし、済ませてしまうのが子どもの世界だ。無知と無知の世界観というしかないが、こういう体験をしたことで、その後にどう学習するかであろう。転んでもただでは起きないぞ、これが大事である。

子どもの付き合いで、貸し借りなんか当たり前にあるし、貸したCDが返ってこない、時期を逸すると言いずらくなるのは、オトナの世界でも同じこと。善意をキッチリ仇で返されることに、どう文句を言うかであろう。「友だちだから言いづらい」というのをよく聞くが、自分の考えではこれがマズイ。友だちだからキッチリしなければならないのは、むしろ相手である。

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そのように考えると、そんな非常識な相手に友だち面をされたくないし、「それが友だちか?仁義(礼儀)をわきまえろ」である。「相手は忘れているんだろうし、だからいいよ」というのもよく聞く。バカを言うでない。人間は忘れることもあろう。それは罪といえば罪だが、友だちならその罪を許すのはいい。が、忘れている(であろう)相手に、言えばいいのよ。

「いついつ貸したアレだけど、そろそろ返して欲しい」と、たったこれだけのことが言えないのはなぜだ?そこを自分で思考し、それがイイことか悪いことか、自分にとって、相手にとっても、などと考えたらいいことではないのは分かろう。蓋をして葬ればいいことでは決してない。なのに、そうするのは、「返して欲しい」が言えない、言いたくないから、アレコレ正当化する。

相手の不始末に正当化の口実を与えてまでいいカッコするものなのか?それで友達関係がギクシャクする原因は、相手にあると毅然としたらいい。「お金を貸すのは友だちなくす」という慣用句は間違っている。「お金を借りるのは友だちなくす」に訂正すべきだ。善意でお金を貸して、それで友だちをなくすなら、そんな友だちは友ではないし、なくした方がいい。

友だちに金を借りるなら、迷惑をかけないよう心すべきである。まあ、人に金を借りること自体が迷惑であり、本当に迷惑をかけたくないという心ある人間は、そんなことをしない。だから、金を貸してくれと言った時点で"心ない人間"である。つい相手に同情し、自分が金を持っているところも見せたい心理も働くが、罪を作らぬためにも貸すべきでない。

                       Lend your money and lose your friend

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友人と友情は別だから区別すべきである。友人に友情の有無は、双方に委ねられるべきで、片方だけの存在は意味がない。友情の自覚とは何か?人は学生時代から友情に悩む。が、やがて社会に出て揉まれ、仕事に追われるなか、友情についてなど考えなくなる。そうして家庭という砦もできれば、他人とは一線を画し、一定の距離をおいて付き合うようになる。

恋愛とか、夫婦愛とか、親子の愛情について考えたりはするが、友愛について考えることはそうそうない。情を愛とするなら友愛とは友情でもある。ニーチェの哲学を基本に一つだけ言うなら、友情は同情であってはならない。困った人に手を差し伸べるのを善とするなら、さらに突っ込んで思考し、その善が自分を満たすものか、真に相手のためなのかを考えるべき。

人は簡単に、「困ってる」などという。本当に困っているとは思えない状況でも、「困っている」という。それは甘えであろう。「困った」を自身だけに向き合う人は、本当に困っている場合が多いが、「困った」を口に出す人ほど甘えてるようだ。なぜなら、困ってるのは自分であるからして、口に出して解決できるものではない。人に甘えて解決すべきものでもない。

福澤諭吉の「独立自尊」を省みること。金は、"貸すほうが罪"と言うのが市井の道理である。ニーチェは他人への同情さえ戒めている。結局人は、相手から好意を抱かれているとの喜びや思い上がりから同情心を抱くことが多い。明らかに自分を嫌ってる相手に抱くはずがないことを考えれば、同情なんて自己満足に過ぎない。ましてや、嫌いな相手に抱くはずもない。

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「私たちが相手にもっとも不当な態度を取っていると感じるのは、私たちの気にくわない相手に対してではなく、何ひとつ私たちの関心を引かない相手に対してなのである」と、『ツァラトゥストラ』で述べているように、いったいに、「友情」とは何であろうか?人は友への嫉妬を隠すために、友を愛していたりという屈折した感情を抱く。理由は自身を偽るためだ。

自分をごまかすためにも、そういう事をする。心理学的には珍しいことでも何でもないが、その理由は各自が考えてみればいい。おそらく経験はあるだろうから…。友や友情について、ニーチェはかくも凄い思考を見せてくれる。次の言葉である。「友への同情を堅い殻の下に隠すがよい。それを噛めば歯が一本折れるくらいに堅くしておかなければなるまい。

そうすれば友への同情は、微妙なやさしさと甘さを醸ことになるだろう…。君は奴隷であるか。奴隷であるなら、君は友となることはできない。君は専制者であるか。専制者であるなら、君は友を持つことはできない。」これは神の言葉ではない、まさしく人間の言葉である。我々には何だか別世界の何かに見える。違和感を覚えるか、自身に照らして共鳴を覚えるか。

人によって異なるであろう。我々は一体に友人であろうという人たちに対して、素面なのか仮面なのかということもある。つまり、自分にとって確実に存在しているのは、友人その人ではなく、友人と自分との「関係」にほかならない。いかなる友人であれ、どこかで自分の悪口をいい、いわずとも心で感じているものだ。が、それを知らない自分には真実とならない。

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我々はとかくその場にいない人の悪口をいう。友人であれ陰口は許されよう。悪口と言う快楽から逃れられる人間は珍しい。が、絶対にいってはならない悪口の一つが告げ口であろう。「誰々が君のことを○○と悪くいっていた」という告げ口である。人は悪口をいった誰々より、告げ口の人間に深い恨みを抱くようになる。なぜだろうか?なぜそのようになる?

悪口を告げられた当人は、その場に居合わせていなかった友に対する、自分の知らない一面を覗き見した思いが背筋を凍らせるからだ。彼は本当に自分をそんな風に言ったのか、思っているのか、とともに、そんな話は聞きたくなかった、聞かなければ良かったと後悔するであろう。仮面を剥いで真実を暴こうとして、言った本人に確かめてみても無理であろう。

その友には告げ口をした人間を含めた多くの「関係」をもっており、それらのどういう関係のなかで、いかなる状況や場のなかで悪口が語られたか、その際の彼の動機は何であったか、真に悪口に価するニュアンスであったのか、他意のない言い方ではなかったのかなど、正確に確かめる術はないのだ。真実を求めようとすれば、被害妄想に陥ることもあろう。

できるなら気にしない方がいい。そもそも告げ口の主というのは、罪深い人間である。親切であるようで、実は心の荒んだ人間である。告げ口が嘘八百の創作である事もある。人間関係にあってはこういう事は往々にして起こり得る。真実はともかく、「告げ口」をした人間の理由や意図がなんであろうと、嫌なことを告げたという事実だけは鮮明に残る。


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