『他人の関係』という曲がある。金井克子の31枚目のシングルとあった。金井克子はもちろん知っているが、「へ~、31枚目のシングルとな?」ちょい驚いた。金井克子の楽曲といえばこの曲以外に知らないからであって、まあ、勝手に知らないから驚いているだけなのだが、それにしても『他人の関係』というのは、当時も今もオカシな日本語である。どういう意味?
知らなかったが、一青窈も歌っているという、『他人の関係』。歌詞の謎を解き明かすためにじっくり読んでみることにする。作詞は有馬三恵子といい、伊東ゆかりの『小指の想い出』、布施明の『積木の部屋』、南沙織には『17才』の他に、『潮風のメロディ』、『ともだち』、『色づく街』など16曲もある。ところで有馬三恵子のプロフィールには生年月日不詳とある。
という事は年齢が分らないということ。女性の著名人でたまに年齢を伏せている人がいるが、なぜそのようなことをする?言うまでもない、年齢を隠すことで若さを保っている(つもり)だろうが、その女性にだって同級生はいるんだし、自分だけ隠してそれで通用すると思ってる時点でバカである。どうせ分かる、いつか分かる、なのに隠すなど虚しさを感じる。
近年の女性は、堂々と年齢を晒すことが若さの秘訣だと考えているところがある。しかし、なかなか屈強な女性もいて、このように仰せられる。「まず、どうして年齢を尋ねるのか、理由を教えて下さい。仕事や公的機関で必要な場合、恋愛相手など私的に付き合う場合は答えます。他にどう言った場合に年齢が必要ですか?答える義務があるんでしょうか?」
というほど言いたくないらしい。年齢は誰にもあるものだが、さりとて必要の有無というところにまで持っていけばこういう論理になる。年齢は、「ある」から聞くのであって、聞くのが悪だという人もいるようだ。年齢の有る無しという理性を超えた、「言いたくない」、「いう必要のない」、という感情に女性が拘る以上、「触らぬ神に祟りなし」としておくべきである。
オトコには分らない、クビを突っ込まない分野である。同じ女性でもこういう人もいる。「私は特に隠しません。それは多分、年齢に関して、"若いほうがいい"と価値付けする考えが、自分の中にないからだと思います」。これは感情抜きの理性的な答えである。感情的が悪いというのではないが、全身情緒に支配された人は気を使わざるを得ない。マナーだ、礼儀だとうるさい。
隠したいのが女だろう。といっても、女はまた男の隠し事を気にする情緒も持っている。そもそも恋愛に秘密はつきものと思えばそういうものであろう。隠し事といってもピンキリだし、さまざまだし、いずれにしても短い恋なら隠したままでオワリだ。長い付き合いなら少しづつ割れていくだろうから、当面は気にしないことだ。隠し事があっても良い関係はある。
ところで、『他人の関係』という言葉の意味だが、恋人関係でありながら、べたべたしないで距離感を保ち、束縛しあわない、自由な、オトナの恋愛を示している。本能的性愛においてはためらわず、己に正直に振舞うが、終れば他人のようによそよそしいとの意味である。「他人」を「親密」の対義語と捉え、「肉体関係」の対義語として「他人の関係」を示している。
良好な「関係」があるように、よくない「関係」もあろう。親子関係で探ってみる。反目し合う親子関係はどう?自分は本来的に、親子は反目し合うものと定義するから、それをもって悪い親子関係と思わない。反対に仲のよい、よすぎる親子が悪いことはないが、ガマンをせず、無理もせず、自然に仲がよいのはよいことであろう。かといって、反目が「悪」とも思わない。
聖徳太子の、『和をもって尊しと成す』は、日本人思想の根幹として根づいているが、言葉の意味を誤解されやすく、決して言葉通りに、「仲良きことは美しき哉」ではない。この言葉を現代と1400年前と一緒に考えると、とんでもないことになる。太子の時代、敵対する集団は皆殺しにするのは普通にあった。異民族への融和主義に対抗する視点と考えればよい。
鬼畜ヒトラーは別にしても、人類の歴史は異民族とどう融和していくかであるが、現在も世界のあちこちで、部族間の争いや、民族紛争は絶えない。日本人は単一民族国家といわれるが、それは間違い。太子の時代には渡来人が朝鮮半島から来ていたし、琉球人から蝦夷・アイヌという土着民族もいた。『和をもって尊しと成す』は、当時の太子の融和主義思想である。
先住民族や渡来人だけでなく、まだ大和民族が出来ていなかった時代にあって、 当時の皆殺し思想からみれば、「○○部族民からみんな『日本人』になろう」という太子の呼びかけであった。聖徳太子はかつて百円、千円、5千円、1万円紙幣すべての肖像であった。それほど、日本人の基本精神を作り上げた人。現在、最高額紙幣は福澤諭吉だが、彼も日本を、日本人を大事にした。
仲のよい親子といえども、意見の違いもあるし、それを戦わせることもあっていいが、大事なのは後腐れもなく、互いが根に持たないこと。最近は、「毒親」という言葉が飛び交っているが、毒親の特徴はいろいろある。ありがちなのは、「自分のような人生だけが人生」と言う視野狭窄的な親も毒親。また、子どもを己の自己実現の道具に利用しようとする親も毒親。
もし、親が元凶に自分の人生的価値観を子どもに強いた場合、子どもは自分の人生を捨て、親の期待にそった人生を送ることになる。これが毒親圧力の怖ろしさである。いたいけな子どもが、そういった親の圧制に逆らうことは、大変に勇気のいることだ。が、親の恩とか感謝とかを常に口にされ、洗脳させられた子どもは、親を喜ばせることが何より大事となる。
こういう親に「子」というオモチャを持たせると困ったことになる。「滅私奉公」を親に強いられた子どもは、親の期待にそった生き方をしようとする。そのような親を持った子どもは、その親の作る家庭において、自身の居場所を確保するしかなく、それで精神的安定を得ようと、涙ぐましく生きようとする。こんなに哀しくも、これほど不幸、これほど憐れな子どもはいない。
家庭の怖さは、「これこそ家庭なのだ」、「これこそ子どもなのだ」、「これこそあなたたちの将来の幸せなのだ」というものを作ることだ。それらを親権的圧力で子どもに強制する。あげくその圧力は、子どもの心の中に内面化され、子どもは己の内から自分を強制していくことになる。こういう中にある親子関係は、互いに見られ合う同士の関係でしかない。
言葉を替えて言うなら、「監視し合う」関係である。常に見られ、監視されているような子どもは、オトナになってもビクビク、オドオドした人間になる。そういう支配的な人間関係は、次第に自分を失っていく関係である。「束縛」とは、自由を失われることである。これを絶望という。絶望の向こうに何があるのか?それらは絶望を通してからでしか発見できない。
「光」を見るには、絶望を超えることだ。毒親から逃れること。親子であれ、師弟であれ、対立があるのはそこに矛盾があるからだ。対立は矛盾がもたらすもので、人間に矛盾がある以上、社会にも矛盾はある。子どもから見た親は矛盾だらけのオトナである。男と女も、コドモもオトナも、若者も老人も、同じ人間であるが、社会のパラドックッスは、それを違いと見る。
にもかかわらず、男女も若者と大人は共存しなければならない。それなくして社会は維持も存続もできない。したがって老若男女においては、双方に矛盾があるのが当然となる。老若や男女や親子の内部に矛盾を含まなくなったなら、どちらか一方が死んでしまっていることになる。社会が矛盾と感じる前に、社会を構成する人間そのものが矛盾と気づくこと。
それが社会のせいにしないこと。新幹線内で焼身自殺をした容疑者は、世の中の矛盾に向き合うことができなかった。自分は不細工、自分は内気、自分は貧困、だから結婚できない、異性を得ることができない、だから幼児に手を出したり、オトナ女性を強姦したり、社会に当たったりするのだろうが、その前に自分に折り合いをつけるべきだが、それをしないから短絡的になる。
自分に折り合いをつけられない人は破滅し、不幸になる。彼女がいても伴侶がいても幸福になるとは限らないが、自暴自棄はいただけない。ところで、「理想の親子」と言うのがあるならどういうものか?「理想の夫婦」はどうであろうか?「理想の○○」などと、なんとも美しい言葉である。実体は努力と労苦のたまものであって、その結果得られるものではないのか?
芸能人が、「理想の相手を見つけました」とノロケても、数年で終ったのは多い。芸能人に限らないが、目立つ、分かりやすいという意味で芸能人である。「理想の相手が幻想だった」など、何も珍しいことではない。よい夫婦とは添い遂げた結果をいうのではないか。「離婚はしたけど、よい夫婦だった」との言い方もあるが、当人の本心は人には見えないし、何を言ってもいい。
理想の親子、理想の夫婦という理念を掲げてみても、言葉どおりには行かないもので、そう考えると大事なことは理念や言葉ではなく、現実であろう。問題を解決し、調和を保っていくという努力ナシに語れない。良いものだから続くというのは実は怪しい。続いたから良いものだった、というのは確信的である。そう考えると、理念も理想も怪しいものだ。
「発展は幸福のためにこそあるべきで、我々はただ人類を発展をさせるために生きているのではない」と言ったムヒカだが、これは現代社会の名言であろう。高度成長で失われたものも多かったはずだ。例えば高度成長以前の日本は、「個体維持」、「集団維持」、「種族維持」という三つの本能行動が健全に維持されていたようだ。が、経済が成長してどうなった?
世の中が便利になりすぎると、集団維持の欲求が急速に崩壊し、地域社会の連帯は薄れ、近所付き合い不能症の個人や家族が増え、家族間の連帯が喪失している。夫婦は祖父母との同居を拒み、核家族化が進行した。核家族化は、家族間の精神的結合や相互依存を薄める集団崩壊現象プロセス、という研究に殉じるなら、当然にして離婚が増え、家族はバラバラ化する。
個人個人がバラバラ化になった社会は、権利と義務意識が優先し、個人と個人が権利と義務意識で争うことになって行く。夫は外で賃金を得るが、専業主婦は家事担当で金をもらえないのは不合理と言い出す。妻を家事と育児に、「しばりつける」にも不合理と声を荒げ、男の横暴だと言い始めた。善悪は別にし、個人の意思や意識が尊重された結果、家庭崩壊が進んだのは事実。
旧態依然の夫婦関係は古い、よくないというなら、新しい夫婦関係を拠り所に新しい家庭を模索していくしかないだろうが、病める現代社会は、「家族と言う欺瞞」、「家庭という虚飾」に彩られているという。古い時代に戻れというのではなく、何がよいか、本当に正しいものは何かを基軸に考えることで、いいものはいい、よくないものはダメと取捨選択できる。
周囲を見ず、さして気にもせず、他人に流されず、社会にも流されないなら、よい子育ても可能であろうが、「○○さんはこうだ」、「今の時代はこうだ」と、どうしてもそちらに目が行く。周囲がどうあれ、「汝は自身の軌道の上に立て!」というニーチェの言葉が好きだった。周囲と同じことをしないと、「変人」の代名詞はつくが、そんなことを怖れて善は行えない。
価値観が多様の現代にあって、「正しいもの」は社会の仕組みと複雑に絡み合って、捨て置かれている。偏差値を否定すれども、それが社会で有用とされるなら、勇気を出して否定できるのか?善悪と損得と分離して思考し、実行できるのか?損得・利害行動人間は結構多い。哲学者で『善の研究』の著者でもある西田幾多郎は、多くの象徴的な言葉を残してくれている。
「信念というのは伝説や理論に由りて外から与えらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である」
「自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素となることである」
「サイレントマジョリティー」に慄くことはなくなった。多かれ行為の実践者はそうであろう。上にも書いたが、「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある」という西田の言葉は、ずっと頭にあった。哲学とは思考し、思索するだけではない。実践なくしては、「絵に描いた餅」だが、実践するために人は、自ら哲学者でなければならぬか?そんなことはない。
「今日の仕事を明日に延ばすな」、「急がば廻れ」、「チリも積もれば山となる」を実践する人は多く、彼らは哲学者でも何でもない。誰にもあるように、よいと思ったこと、正しいと信じたことを実践することである。何も難しいことはない、自身の欲と他者の目に抗えばいいだけのこと。深い思考は、「単に思った」よりは、多少秀でているであろう。それだけの事。