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「関係」といえる関係

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いろいろ書きながら思うのは人間関係の難しさであろう。親子関係、夫婦関係、友人関係、あるいは会社における上司や部下、同僚との関係、恋人との恋愛関係、違法性のある愛人関係や不倫関係など…、「関係」という名の何と多きかな。対人関係ばかりにあらず、自分との関係(自我との葛藤など)もある。眺めているには面白いが、場の当事者なら大変だ。

これらについて思うところを述べるときに、問題点をためらわず浮き彫りにさせて解決法を模索するが、なにより問題になるのは個々の性格であろう。自分は自分の性格に照らし合わせたことをするし、それがもっともよい方法であるが、自分に良い方法が他人に良いとは限らない。方法論として他人が納得しても、果たして実行できるかというと、そうも行かない。

「なるほど、それはイイこと」と納得しても、できない人間は多い。友人に貸した金の返却を請求できない人間、好きな異性に告白できない人間、嫌なことを頼まれても「no!」と断れない人間などなど…。なぜだ、なぜそれらができないのか?その理由は分かりすぎるくらいによく分かる。自分がかつてそうであったからだ。おそらく人も同じ理由と考える。

上にあげたことも含めて、かつてできなかったことが今は躊躇うことなくできるが、決して自然にできるようになったのではない。できないことをできるようになりたい努力を自分なりにしたからだ。先ほど、「努力は無意味。努力しても叶わないこともあるし、その時に自分を呪う、人を呪う」と言った。これは努力の質と用途が違うし、自己変革の努力は必ずや叶う。

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どうあがいても、イチローや松山英樹や、錦織や浅田真央のような技能・能力を、凡人が努力で得られない事は、誰にも分かろうというもの。バカでも頑張れば東大に行けると書かれた実践本もあるが、それと錦織や浅田真央になるのは違う。有り体にいうと、受験勉強の学力は能力とは言わない。広義に学力は問題解決能力であるが、昨今の学力はあまりに機械的だ。

能力とは能(あたう)力であって、「身につけた知識や技能を社会生活で活用、応用出来る力」を言う。有能なプロゴルファーになるためには、練習場でゴルフボールを打てばいいものではないし、同じように野球やテニスプレイヤーにも言える。身体の基礎能力を鍛える練習もし、それに加えてメンタルの強さも必要となる。それらすべてが能力であり、優秀な人間にはそれがある。

知識だけを訓練として詰め込む教育が、受験のために有用であるシステムがマチガイであっても、一向に改善されないのはなぜ?これからの子どもに必要とされる能力としてPISA型学力が提言されている。その前に、PISA調査(Programme for International Student Assessment)とは、OECD(経済協力開発機構)が1988年よりはじめた事業である。

つまり、「教育・人材養成は労働市場や社会、経済と密接に関連していることから、OECDは幼児教育から成人教育までの広い範囲で、将来を見据えた教育政策のあり方を提言している」。日本の受験制度がマークシート方式であるため、運がよければ入学できるとの欠陥はあっても、あくまで受け入れる側の論理として、これ以上に手っ取り早く選抜する方法はない。

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マークシート方式に似た弊害として「選択式」がある。マークシート方式はこれを極端にしたもので、単に「数字で解答を書かせる」ということすらも止めさせてしまうほどに合理性を追求した。この世代が、「まともに論述式の解答を書けない」と知ったときの驚きは言うに及ばず、気づいていない人間は幸せである。なぜなら、気づいて直るものではないからだ。

ある問題の解答を選んだり、間違い探しはできたとしても、「自分で正解を生み出す」とか、「自分で無から作り出す」という能力はとてもじゃないが身につかない。どうしてそういう能力が必要かは各々が考えればいいが、端的にいえば、「考える」という訓練がもともとなされていないということになる。他にもマークシート方式の弊害は、概ね以下言われている。

 ・ 採点時間やコストなどでは優れているが、教育面で難点がある。
 ・ 論述力を育まない試験である。
 ・ プロセスは間違っていても正解を見つけられることがある。
 ・ つまり、正しく推論しなくても、正解だけを知ることができる。
 ・ そのせいで、「答えさえ正しく当てればOK」という風潮がひろまる。
 ・ こんなことでは、まともな思考力は付かない。
 ・ 数学の証明では、「証明を全部書かせず、穴埋めだけ」ということもある。
 ・ そのせいで、論述力は大幅に低下している。
 ・ OECD の「学習到達度調査でも、日本は論述問題で白紙答案が目立って多い。
 ・ その影響は、大人社会にも現れている。
    
たとえば数学で、回答欄は整数になることが多く、正解が「2より大で4より小」ということさえ分かれば、正解は「3」という推定が可能。厳密な思考過程は必要なく、おおざっぱに見当を付けるための別の方法があれば十分。これらの影響(弊害)は実社会にも現れている。理由を説明せずに部下に指示するなど、説明能力の欠如も例外でなく、これでは部下も困惑する。

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また、社員の勤務過程などを無視し、結果だけで評価する経営も可能である。昔、NHKの「ものしり博士」という番組で、「ケペル先生」がこのように言っていた。「 何でも考え、カンでも知って、何でもカンでもやってみよう! 」ここに科学的な教訓がある。近年の傾向として、「偉い人が言ったことをそのまま信じる」。「人の言うことをそのまま鵜呑みにする」。


つまりこういうこと。「偉い人が言ったことを真実と思い込み、それで知ったつもりになる。で、それに反することを信じない。自分では何も検証せず、単に偉い人が言ったから、という理由でそれを信じる」。これは、「知ったつもり」にはなっても、「知ってること」にはならない。若い人と話してそう感じる事が多い。何事も、「○○さんがいったから…」の受け売りだ。

「一切を他人に考えてもらい、他人に知ってもらい。他人にやってもらった結論、結果としての言葉だけを知る」ということだ。それで、「自分は知っている」と自惚れるが、実は何も知っていない。言葉を知っているだけで、事実を知っていない。現代のケペル先生は、「(自分では)何にも考えず、何にも知らず、何でもかんでもやらないでおこう。」であるようだ。

なんでこうなのか?自分が考えるに、「間違うことが怖い」、「間違う勇気がない」のではないか?ようするに、「自縄自縛」であろう。これも想像だが、幼少時期から過保護に育ったことで、「失敗を怖れる」、「傷つくことを怖れすぎる」子どもが量産されたからではないのか。親が子どもに失敗させたくない、失敗するのは可哀想、見てられない。その結果であろう。

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親の脆弱さが子育てに繁栄されている。逞しい父親がすっこんで(あるいは不在で)、気弱な母親が子どもをオロオロ眺める。子どもは基本、親の怖がるものを怖がる。気弱な親が自分で気弱である事に気づかず(あるいは気づいていても)、それが母親の思う正しさ。子どもに危ないこと、リスクを負うことは親としてさせるべきではないとの、「酸っぱいブドウ」の論理。

それらをやり過ごしてしまった後ではどうにもならない。人間に間違う勇気がどうして必要か、これらは個々が考えるしかない。まさに、「自分で考え、自分で知って、自分でやってみよう」である。とりあえず自分の見解をいえば、人のやらない独創的な仕事をするなら、「間違える勇気」が絶対に不可欠なのは、間違いを恐れて、独創的な業績は成せないからだ。

この世のすべての新しい技術は失敗から生まれた。したがって、田中耕一や白川英樹などノーベル賞級の科学者に、「成功の原因は何ですか?」、「どうすれば成功できますか?」と問えば、「成功するためには、失敗すればいい」と言うかも知れない。言わずとも、それが真に成功に導くためのプロセスである。「失敗をする」とは、「失敗を怖れない」の比喩。

そこいらの市井人である自分も、多くの失敗をした。賞にも能わず、何の業績もないが、それでも失敗は多くをもたらせた。貸したお金を返せという事ができなかった。好きな異性の前で顔すらまともに見れず、頭をうなだれて通り過ぎるだけであった。嫌なことを頼まれても「no!」がいえなかった。が、こんな自分を嫌悪し、そういう呪縛から逃れたいと思っていた。

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ある時、ある事を「no!」と言ってみた。嫌われたくなかった自分が、嫌われてもいいという覚悟で発した言葉であった。とても勇気がいったが、言った後にはそれほどの問題はなかった。取り越し苦労が多分にあったことに、その時気づいた。何でもないことを、さも何でもあるかのように思うのが人間である。特に、未知のことに関しては「怖れ」を抱いて当たり前。

それが大きくのしかかると「行為」ができない。誰でも経験はあるだろう。躊躇ったことを行為したり、言葉に出してみて、初めて何でもないことに気づいた事。「案ずるよりは産むが易し」とは、出産の恐怖を言ったもの。のっけにあげたように、人間には自分と人についてのさまざま関係性がある。「関係」名のつく関係であれ、それが真に「関係」と呼べるのか?

その前に「真」に関係と呼べるに相応しい関係とはどういうものか?まったく口を利かない親子がいたとして、それが親子関係なのか?家庭内で言葉を交わさない夫婦がいて、それで夫婦関係と言えるのか?前者は親子関係が壊れているといい、後者も壊れた夫婦関係と言う。何らかの会話の口実がなければ会話ができない、そういった親子、夫婦は少なくないのではないか?

考えてみたらいい。人と会うのに口実がいるようなら、そういう人間関係はどこかギクシャクした関係のはずだ。一切の口実を廃止して会う人間関係は、好ましい関係である。用事がなくても躊躇わず会えるというのは、こちらにも相手にも遠慮がないからだ。人と人の良好な関係が成立し、進行する過程おいて、人間は次第次第に自分に近付きうるのではないだろうか?

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偽りのない真の自分に一歩一歩近づきつつあるという感覚こそ、自己の実在感であり、感動的なものでもある。人間はこのように自己と深く関わりあい、自分が自分に近づいているという感動を得る。これは、自身が他人の中に紛れもなく実在しているということ。決して他人の中に架空に存在する自分ではない。偽らなくても、虚勢を張らなくても許しあえる関係である。

パスカルは『パンセ』の中で、人間として大事な様々なことを述べている。「他人の観念の中で一つの架空な生活を生きようと欲し、そのために目立つことを人はしようとする。われわれは絶えず自己の架空な存在を飾り、それを保とうとして真の存在をなおざりにする」。なるほど…。人間は真の自分の存在に気づいた時、他人の中にある架空の存在に興味をなくする。

文は人なりというのは近頃よく分かる。よく分かるというのは、よく見えるということ。見えるから理解もできるということだ。以下は抜粋だが、37歳のある女性との最近交わした会話である。ピアノを習っているというが、レッスンをサボってばかりで上達しないという。当たり前のことで、それについて思うことを率直に述べたのだが…。以下核心部分を引用する。

相:「仕事が忙しいそのせいにして、レッスンサボってばかりで、上達しないんです」

自:「ドジな4とか5の指とかが動かないし、弾くというより滑らす感じになります。粒が揃わず弾いてて嫌になりません?ピアノは甘くないですよね」

相:「私も先生に一日レッスンを休んだら、元に戻すのに一週間かかると言われました」

自:「余計なことかもですが、練習しないなら一人で好きにやるのはどうです?月謝がもったいないというか、習う理由がよく分かりません…」

相:「そうなんですか?でも子どもの頃もあんまり練習しなかったです」

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自:「ピアノ教師も生徒は手放したくないでしょうし、練習しないなら来なくていいという、熱心な先生もいます。言われた子を知ってますが、あなたも練習しないで行っても何も言われないからいいんでしょう。そこは互いの利害の部分でしょうね?」

相:「は・はい。仕事もありますし、なかなかね。でも、弾いていると心が落ち着くんですよ、っていいわけでしょうか?」

自:「言い分け?それは自分には分かりません。先生が感じることでしょうしね。こちらに言分けしたところで意味ないし」

相:「そこまで言われるのかな~って、練習しなきゃ習ってはいけないんですか?」

自:「自分の思い通りにならないと、わりと荒れるほうなんですかね?」

相:「荒れる⁉⁉ はい。気性が激しいです〜。よくわかりますね~⁉」

自:「まあ、いろいろな要素から、傾向は見えますよ」

相:「まいりました、すみません・・・メールでわかるものなのですね~」

自:「分らない、気づかない人もいるでしょうが」

相:「ん〜‼‼ 探偵さんみたいですね~私の性格が解ってしまったら・・・もう、私に興味が無くなってしまったかな⁉」

人と会話して驚くことは結構ある。この女性の場合、練習しないでレッスンに行くというが、子どもは、親に無理やり習わされているから分かる。30代女性で楽譜が読めるなら自分で自由に、好きにやった方がいいと思ったまで。練習していない引け目も、言い訳もしないで済む。それが気に障ったようで、何に腹を立てたか自分にはまるで分らない。

もう一つは、会話をすることで、自分の本性を伝えたい、理解させたいと自分は思うが、この女性は本性を隠し、隠すことは別段イイにしても、相手に感ずかれたときに、上記のような言い方をするものかと。自分の本性が知れて面白くないというものなのか?「分かっちゃったんですね~」と言えばいいことに思うが、「探偵さんみたい」の言い方には驚く。

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バレてよほど困ったのか、そんな人のようだ。過去に性格のことでトラブルが多かったか、彼氏や人から責められたか、そんな感じを抱く。自分の嫌な部分を自分で知ってはいるが、それを修整しようとの努力はせず、隠すことに躍起になる人である。「自己変革」という問題意識をもたず、都合の悪いことは隠せばいいと、女性はそういう生き物であるようだ。

男にいないわけではない。本心を隠す理由は相手を傷つけると思うからか?いや、そうではあるまい。自分が傷つきたくないからであろう。本当のことを言って否定されたくないからであろう。否定されるのを怖がる人は多い。そういう人間関係に怯えてる人がいるのは承知している。自分を出さず、隠しておきながら、ムシのいいことに、「わかって欲しい」である。


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