「命より大切なものはない」と結論した。が、「命より大切なものがある」と叫ぶ人をどうも思わない。「命を失ってもいないのに、よくそんなことが分かるな?」と疑問に思うだけだ。「そんなことが言える」ではなく、「そんなことが分かる」である。言うのは勝手で、言うと分かるは別だが、世の中、「言う」=「分かる」と思い込む人もいよう。これにてシリーズは終り。
と思ったが、一昨日のアメリカの事件に考えさせられた。「バージニア州で26日朝、テレビ局の女性リポーターら2人が、生中継の最中に、男に突然銃撃され死亡した。容疑者は同じテレビ局に勤めていた男で、事件後自殺した。銃撃されたのは、女性リポーターのアリソン・パーカーさん(24)と、カメラマンのアダム・ワードさん(27)で、その後死亡が確認された。
インタビューを受けていた女性も、負傷している。撃った男は、かつて同じテレビ局に勤務していたべスター・フラナガン容疑者(41)で、逃走中、自分のツイッターなどに、銃撃当時の映像を載せていた。そこには、殺害した2人に対する恨みなども書き込まれていた。フラナガン容疑者は、逃走中に、自らを拳銃で撃って自殺を図り、その後、死亡が確認されている。」
というものだが、銃で人を殺傷するのがまれな日本と、こんなことは茶の間の出来事と化した銃社会アメリカの差というしかない。まさにテレビの生中継が茶の間に放送されているときに、人が人を銃で撃ったのが生中継された。銃による殺人など日常というアメリカであれ、これは驚かざるを得ない。容疑者の自殺は追い詰められたことによる所業だろうが、達成感もあるのだろう。
容疑者は元同僚であるからして、撃った二人に恨みを持っていたと思われるが、この二人を無き者にしなければ容疑者の精神は満たされなかったのであろう。逃走中の自殺はよくある事で、最初から死ぬつもりなら二人を殺したその場で死ぬと思うが、この容疑者は逃走中に自分のツイッターに二人を撃ったときの映像を載せていた。これを容疑者の自己顕示欲とみる。
2013年10月、東京・三鷹で女子高3年でモデルの鈴木沙彩さん(18)を、彼女の自宅のクローゼットに忍び込んで刺殺した元彼氏も、殺害前に彼女の全裸や性的行為に及ぶ80数枚に及ぶ画像・映像をサイトに載せていたが、殺すだけでは気が済まないのか、彼女を衆目に晒す自己顕示を見せた。元彼女の裸を公に晒す行為をリベンジ・ポルノといい、精神の未熟者の発想だ。
元彼は、沙彩さんとの関係がこじれた、「別れるなら画像を晒す」と脅しをかけたというが、彼女が屈せず警察に相談したことで憎悪心が増したようだ。卑怯な手段だが、自分も母親に卑劣なことをよくされた。自分が未熟な頃は効果もあっただろうが、そういう親は珍しくはないと思う。子どもを脅したりすかしたり、憎しみ丸出しの感情的な言動はヒドイ親。
それを多用されると子どもも動じなくなる。「好きにすれば!」と言い返されて困った親もいるだろう。レイプ男が女性に、「殺されたくなかったらいう事を聞け!」とか、ヤクザが善良な人間に、「おとなしくしろ!じたばたしやがったらぶっ殺すぞ!」などと言うのと変わりない卑怯な言葉。人にもよるが、何歳くらいまでの子どもに効き目があるのだろうか。
権威や押さえつけに反抗する自我が芽生えると、こんな脅しは利かない。ばかりか、こんな卑怯な手段を講じるような親は、間違いなく子どもから尊敬も得られないし、見下されるようにもなる。親は子どもを自分の意のままに操りたいから、こういう汚い手を使うが、「100点取ったらお小遣いをあげる」は、"飴と鞭"などととんでもない。脅しの裏返しである。
西川史子は、100点取ったら1万円だったという。「信賞必罰」と言うのを間違って解釈するバカ親がコレをやる。即物的なご時世にあっては、むしろ親はボランティアや奉仕作業に率先し、行動する姿を子どもに見せるべきだ。お金にならないことに労力を惜しまぬ姿を子どもに見せるべきであって、何でも「物」や「金」に換算する教育を、教育とは呼ばない。
子どもはどうあれ親という環境の影響が大となる。「それをするのは自分のため」、「それをするのは親のため」、「それをするのはお金のため」、「それをするのは社会のため」。これら、どういう子どもに育てたいか親の理念であろう。自分さえよければイイ親から、自分さえよければの子が育つ。が、正しくないことを親が強いても、跳ねつける子は逞しい。
逞しさは賢さでもある。親の言いなり、物や金の奴隷になるのを依存と言う。親子の利害にある関係を「共依存」といい、親子に限らず、「自分と特定の相手の関係性に過剰に依存し、囚われた関係への嗜癖状態を指す。「共依存」は、物の考え方や思考のバランスが偏っており、健全な人間関係を形成できない状態である。親に傾向が強いなら子どもが断つ。
↑実はこれも反対。親バカは子を持った時点で誰にも発生し、むしろ、「親バカ」を直す必要性がある。親の子依存は問題外だし、成人過ぎた子どもに親への依存が強いなら親が修整する。共依存のない動物の子育ては素敵だが、「動物は動物、人間は人間。人間は親バカだから」という親に、「そうですね、ははは…」と笑って愛想したことが幾度かあった。親バカ正当化は楽だろうよ…
他人の人生に責任を持つ必要性はないし、他人をバカにするのも驕りであって、別に人を見下したりバカにせずとも、「良いものは良い」、「正しいものは正しい」。他人を見下さねば自分に自信が持てない人間の弱さ、情けなさは感じること多し。「見下す」ではなく、「良くないことは良くない」と他人にいうのは親切であるか、おせっかいであるかは悩ましい。
難しいところである。が、50の年齢を過ぎた辺りになると、他人にアレコレいうのは余計なことに思えるようになった。「聞かれれば言うが、そうでない限りは口を閉ざす」。無用な争いを避けるというより、意見はすれども、押し付けない。言ったことを理解するものはするし、しない者は押し付けても無意味。他者への影響を喜びとした時期もあったが、所詮は自己満足と気づく。
教育の基本は「個」対「個」であり、その形を取ったときに成立する。だから、親と言えど、教師といえども、じっくり一人の相手と対話し、話し込むのが意思の疎通という点でも大切である。先日の夏の恒例の親族旅行は、「冷」を求めて鍾乳洞などを回った。ひょんなことから三女vs多勢の言い合いとなる。どうにもならない状況に陥る意地っ張りの三女…。
こうなるともはや収拾がつかない。三女は相手の発言を無視し、己の主張ばかりの悪癖というパターン。ついに長男が声を大にしてこういった。「ちょっと、みんな~、オレのいう事を黙って聞けよ!」と、改まった言い方をした。その口ぶりからして、何をいうのかと期待したが、「どーでもいい!くだらん!」と、でてきた言葉である。これを言うためにワザワザ他を制止した長男。
その言葉にガッカの自分は言った。「お前な、たとえ物の分からぬ相手でも、一生懸命に理解させようと頑張っているんだ。そういう言葉はバカのいうセリフ。場に水を射すだけで、声を大にしていう言葉じゃないだろ!」と自分は長男に投げつけた。いるんだ、こういう奴が。不毛の言い合いが、不毛であるのは最後に分かること。それまでは意見を言い合う。
確かに、「不毛」であっても、「くだらん」と言う言葉で解決するのは能ナシのセリフ。自分は人に最大努力を惜しまない。「ドーデもいいと言いたいなら、黙って寝っころがってろ!」である。論理的思考のできない人間は込み入った問題に、このような言い方をする。逃げると言った方が正しい。苦手な問題に自己参加できない無能さを正当化するための言葉。
「まだまだ息子は人の上に立つ人間ではないな」、そんな気がした。人と人が一対一で話すことには意味がある。どういう意味があるかといえば、サシで意見を言い合うことに意味がある。ウルグァイのムヒカ大統領のスピーチは何度聞いても心に沁みる。スピーチだからであって、彼が議論の場で論点を整理し、説得し、聴衆をただの聞き役に回すことは至難。
目的のために人はこういうくだらないことをやっているのだが、問題はそれを強いる側にある。人を点数だけでしか振り分けられないという、選ぶ側の無能さを示している。かつての時代にあって人は、家庭や地域や大自然の中で、自然に学ぶことができた。そういう感受性の高い人間が、必然的に大きな志を抱くようになった。今の子どもは受験の奴隷である。
様々な個性の中で「個」と「個」がぶつかり、凌ぎ合い、議論し、確認することができた時代にくらべ、、現在は「教育」といえば受験教育、「教え育てる」というものではない。それで国家が壊れないためにと、受験勉強用のノウハウを教え込むことが重視されている。脳科学者の中野信子が『努力不要論』を書いて、どうやら売れているらしい。読んではいないが。
自分も40年前から努力不要論者だった。「餅は餅屋」と、同じ事を中野もいっている。「自らを知れ」、「足るを知れ」であり、バカに勉強させても不幸になるだけだ。世の母親は自分の子どもが世界一に見えるらしく、だから塾が繁栄する。と、同時にヒステリックな母も乱造させている。勉強は勉強向き人間に任せたらいいのよ。勉強バカにも幸せの道はある。
それが閉ざされると思うから不幸が始まる。中野の言う、「努力は叶わなかった暁に不幸を生む」というのは、林竹二が50年前から言い、ルソーは250年前に言ってる事。「学問に目的を定めると、目的が叶わぬ場合に、学問自体が否定されたことになる。よって、何かになるために学ぶのは、学びの本質にあらず」。林の言葉の「学問」を中野は「努力」に変えただけ。
ムヒカ大統領も、「命より高価な物はない」という人だが、これは「命がもっとも価値がある」ということだ。その命をすり減らして働くのは一体何のためか、なぜ、高価な商品やライフスタイルのために人生を放りだす?と、問題提起する。彼の言う貧乏人とは、「少ししかの物を持っている人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人」。この定義が面白い。
「命より大切なものはない」、仮にあっても命がなければそれを認識できない。まさか「命」は、「命より大切なものを認識するためにあればいいだけ」なのか?「命より大切なものがある」と言うのが言葉だけではなく、真に正しいなら、ためしに死んでみたら分かるよ。それで「命より大切だった」というなら、カッコいい言葉というより、事実であろう。
「命がいちばん大切」と自覚して、何の不自由がある?「生(命)」を冒瀆した言葉に聞こえてならない。「命より大切なものがある」を100万回唱和すれど、ただの一回とて真実であることすらも確かめることはできないではないか。黙って自らにいい聞かせておくならいいが、確かめられないことを、声に出していうこともなかろう。信じるのは自由である。
斯くの妄言より、ジョブズやムヒカの言葉が現実的だ。虚妄を信じる人もいるだろうが、ムヒカやジョブズの言う言葉の現実を疑う人はいまい。が、彼らの言葉を「理想」と断じる人はいるであろう。ジョブズもも自らの言葉を実践し、生きたではないか?ムヒカの生き方も確かに理想ではあるが、観念的ではない。彼は、「生」から「欲」を差し引いて生きている。
「命より大切なものがある」などの観念的の事はいわず、むしろ「命」という素朴さに殉じ、命以上に大事であるかと見まが多くのものを排除するようムヒカは言う。それによって、「かけがえのない命を守ろう」と言っている。「清貧」という東洋的思想や言葉は、ムヒカには釣り合わないが、彼の貧困生活には情熱さえ感じられる。さすが、南米の人である。
ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ(西: José Alberto Mujica Cordano, 1935年5月20日 - )現在80歳。彼は善人ではなく、「清濁併せ呑む」人。1960年代には、極左都市ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動にも従事していた。また、失言も多く、隣国アルゼンチンの大統領を「頑固なばあさん」と呼んだ。言葉が過ぎるのは、正直者のさだめであろう。