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「異性」と言う不思議 ⑧

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別れの朝二人は冷めた紅茶飲み干し、駅に続く小路を何も言わず歩いた…

情景は浮かぶが経験はない。こういう別れもあるんだなと。原因は分らないが、さまざま想像はできる。分らないことを想像したところで、それが事実とは限らないが想像は人間の知性。この世で起こったことの真実は、起こったひとたちのものであろう。恋は冷めるという。冷めるとは冷えること。冷えるは心地いい温度であったりするが、恋に関してはなぜかおしまいのことば…

恋と愛はちがう。何がちがう?言葉が違う。それも正しい。言葉が違えば意味も違う?そうともいえない、同じ意味を持つ違う言葉はたくさんある。愛という言葉は日本語になかったと安吾で知った。彼曰く、キリスト教が伝わるまで「愛」という言葉はなく、それで宣教師が「愛」という言葉を説明するとき、日本語でピッタリの言葉が見当たらず、苦し紛れで「御大切」とした。

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恋という言葉は『万葉集』に歌われているし、「弧悲」という言葉が充てられている。「孤悲」とはなんと美しい文字であろうか。美しいばかりではない、孤独に悲しむというところから「孤悲」という言葉が生まれたのだろう。『万葉集』は、まるでサカリのついた猫がごとき、男女の掛け合いと表現した文人もいたりと、異性に対する感情の自然な発露が恋である。

あの時代に他にすることはなかったろうし、当時の人は本当に「恋」に一生懸命であったと、むしろ感心させられる。身分の高低に関わらず、まるで熱病にかかったがごとく思いのたけを直情的に歌に託す。あなたをひと目みて、かわいいと思った。美しい黒髪と感じた。以来わたしは恋に落ちた。あなたを忘れることはできない。逢って欲しい、思いを体で確かめさせて欲しい。

などと必死で訴えている。電話もない時代だ。郵便配達もいない。されど直接本人に歌を届けたい。これは立派なるプラトニックな恋である。もちろんあの時代は、プラトニックな恋と愛欲は別であった。というより、区別して考えようとしたのであろう。自分と相手の間に高い塀を作り、そしてそれを超えるためにあらゆる智謀、煩雑な取引を必要としたのだった。

それほどに恋は理性的であったといえる。あるいは、性欲という邪心を隠そうとしたのだろうか?それなら分からなくもない。誰にでも思春期時期には異性に対する性的欲望を隠そうとするものだ。なぜか?自分が思うに、隠す必要のある異性には隠し、隠す必要のない相手には隠さない。これが人間の理性ではないか?理性を重視すべき人、あまり考えなくていい人がいる。

イメージ 9口語的にいうと、「気を使う人」、「気を使わない人」という仕分けだ。記憶の中の女にはピンからキリまで存在した。何がピン、何がキリはそれぞれの項目によって違う。頭の良さ、容姿、優しさ、我がまま、媚加減、(性格的な)可愛さ、自己抑制度、気配り度、明朗性、スキ物、淡泊、親の躾加減などなど。巷には様々な事件がある。男が狼、女が子羊というケースもあろう。危機管理意識が欠落した女もいるはずだ。知らない人に抱っこをされるのを嫌がる幼児もいれば、「おいで」といって手を差し出すとすぐに抱っこされたがる子もいる。前者を可愛くないね~と思いながら、親のいる手前そうは言わない。ま、その程度でムキになるオトナもいないだろうが、乳幼児にしてあの違いは何なのだろう?親の躾とは言えず、当人が学び取った何かである。

乳幼児の「人見知り」は、自分が慣れている人以外を怖がってしまうことをいうから、これはむしろ自然な防御本能といえる。個人差も大きく明確な時期は定まっていず、一般的には1歳過ぎあたりで人見知りはなくなる場合が多いようだが、2歳を過ぎても人見知りが直らない子もいる。人見知りは防御反応だが、その差異は性格的なものか?すべては環境という後天的要素。

たとえば大家族や人の出入りの多い家で育ったり、日頃から外に出かけて他人と触れ合う機会が多かったりすると、何ら人見知りナシで育つこともあるし、「人見知りしない=問題がある」ということではないようだ。あまりに愛想のよい女の赤ちゃんがいて、「この子は将来、イケイケになるんかな~」と冗談をいったら、気を悪くした母親がいたが、ダメダメ、そんな言葉は。

赤ちゃんにはホンのちょっとの冗談でも禁句である。というのが持つべきマナーと言える。ところが、明るく屈託のない母親もいて、乳児がいる知人の家を訪ねたときに、抱いて出てきた赤ちゃんは、ビックリするくらい不細工であった。自分は嘘やお世辞に慣れてないというか、思った事を正直に表現して生きてきたせいなのか、「かわいいね~」という事ができない。

「赤ちゃんは存在自体がかわいい」という女性は多いが、「これが顔?」といえるような赤ちゃんをためらいなく褒める母親には感心する。と、同時に女の不思議さを体現する。「ああはできない」、それほど男は真正直な生き物である。ところが、赤ちゃんを抱いた知人の母親は、「すっごい不細工じゃろ?朝潮に似てない?」と、助け舟をだされ、つい「似てるね~」という自分。

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そのシチュエーション自体に問題があったかどうかはさて、その女はかつて友達以上だったので、赤ん坊を見にいったのでないというのは互いの思いであった。自分的にも、たまたま赤ちゃんがいたというだけで、数十年来の旧交を懐かしんだ。世の中には間違いなく可愛い赤ちゃんもいるが、そうでない赤ちゃんもいる。あんまり赤ちゃん主体のところには出向かない。

「ワザとらしいつくり顔で、可愛いね」と言われるとむかつく。という母親の記述を見たことがあるが、ならば何も言わない方がよい。それでも罪を作っているのだろうが、「お世辞やチヤホヤ」を言われなきゃ機嫌が悪い女、そんな気を使う女はノーサンキューだ。こと赤ちゃんについての、そのあたりの男の無骨さを理解する女の方が、有り難いし、クレバーである。

高倉健が赤ちゃんを前に、「かわいいね~」と言っても似合わないように、男の仏頂面は、「男は愛嬌」と言われないある種の男の理性である。自分の赤ちゃん、子どもを褒められるのは、「お世辞でも嬉しい」というが、「お世辞でも(お世辞と分かっていても)嬉しい」という女心は男には分らない。女が褒められて育つ生き物なら、男は叱られることこそ本分か…。

さて、記憶の中の女で、ビックリするほど危機管理意識のないのはいた。もし、自分が悪人で、「物取り的資質があったらどうするんだろう?」そんなことを考えさせられた。ナンパした女に連れられて彼女の自宅に行った。一人暮らしのアパートである。部屋に入って数分後に電話がなった。相手は友人で、どうしても渡さなければならない物があるから自転車で出かけるという。

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「30分くらいで帰るから待ってて!」と、これが理解できなかった。見ず知らずの男を部屋に入れて、部屋を空けるというのはいかなる子細か?彼女が出て行った後に自分はどうすべきか、正しい女の行動を考えた。「緊急で出かける用事ができた。戸締りしていくから近くに公園あるし、そこか近辺で待っててくれない?ごめんなさいね…」とすべきかなと、そう感じた。

女が男にアパートの合鍵を渡すことはよくある。どれくらいの付き合った期間で渡すかはそれぞれだ。合鍵は愛鍵…、女にとっての暗黙の、「恋人宣言」なのかも知れない。が、合鍵を渡されてもそうそう勝手に出入りなどできるものではない。もっとも、主のいない部屋になど行っても仕方がないし、それはできなかった。朝、「先に出るからゆっくりしてって」

と言われても、「一緒に出るよ」と、他人の部屋に一人は居心地が悪い。鍵をもらったかのように、ダーダー出入りする男はいたが、自分の感性とは異質である。女に鍵を渡すことは考えもしなかったが、鍵を渡すときの女の思い、決意みたいなものは感じた。我々の同年代の女は、それなりの世代観というのか、危機管理意識的な英知は強かったようである。

一人暮らしの女は、親と同居女性にくらべて淋しさを強く実感するが、それでも部屋の窓を閉め切って開けようとしない女性も少なくない。そういうところを、「女は不思議だな、このクソ暑いのに閉め切って」と思いながらも、それが女という種族であった。基本的に「怖い」という言葉や行動が先行する。「ひとり暮らしの女性は男物のパンツを干しておきなさい」もマニュアルだった。

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「淋しさから人恋しくなる」という言葉の、「人恋しい」と、「恋をする」は別である。が、一人暮らし女性が簡単に男を部屋に入れる多くは、「人恋しい」であったかも知れない。でもなければ、相手をそうそう簡単に、早い時期に部屋にいれるだろうか?『自分の城』というテリトリーを、他人に荒らされることになるし、一人が好きで一人でいたい自分にとっては考えられない。

女は、「淋しい」が口癖だが、男で、「淋しい」というのはキモチ悪い。そのように生きてきた。最近の男は平気で、「淋しい」という。自分は一人っ子だから、一人は好きだし、一人が慣れている。人とわいわいするのは嫌いではないが、好きではない。好きがなにかといえば、一人で読書、映画、音楽鑑賞、楽器いじり…、一人だから思うようにできる。以下は一人っ子の基本性格。

マイペース、しっかりしている、感情表現が下手、人間関係のトラブル対処が苦手、冷静に考えて行動する、一方的な行動をすることがある、自己主張が強い、自分の独自のルール・世界を持つ、1人の時間が必要、自意識・自己愛が強い。概ねあっているようだが、「人間関係のトラブル対処が苦手」は自分に当てはまらない。母親とトラブルばかりだったからか…

一人っ子だからと、温室で純粋倍されて育った子が多いのだろうか?であるなら、野卑に生きた自分とはまるで違う。一人っ子は兄弟の多い子と違い、欲しい物は何でも買ってもらえると、いうことも聞いた事があるが、どうしてもそうなりがちなのだろう。自分がそうであったかどうかはよく分らないが、そうだったかも知れない。が、親と絶縁以後は、親にねだることが嫌だった。

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親と言うのは出来るだけ子どもに多くの拒絶をし、拒絶に子どもを慣らすのがいいようだ。なぜなら、拒絶に慣れていない子どもは、欲しいものが手に入らないということより、拒絶されたことを一層辛く考えることになるからだ。今までスムーズに拒絶なく育ってきて、ある日突然拒絶をされて、悩み苦しむというのは、恋愛のプロセスでありがちなこと。

つまり、互いが遠慮し、嫌われたくない、好かれたい気持ちが強い時期には、あまり拒絶をしないが、慣れてくると、今まで拒絶しなかったことを拒絶したり、されたりする。となると、拒絶という言葉や態度、そのことを辛いことと考え、相手への見方も変わってくる。「前は優しかったのに、なんか変わったよね」という思いは、馴れ合った恋人なら誰でも感じることであろう。

その事を「自分に対する愛情が薄れてきたと」早とちりし、次のスペアを用意したりする。新しい相手ができ、そちらの方が楽しいと感じるようになると、かつての恋は終る。不安が不満となり、やがては不信に移行する。恋愛の対象としての相手を本当に突きつめてみよう、好きになってみようということをしない男女が増えている。それが若さであるのはよく分かる。

「十歳にして菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にして快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら人間は、英知のみを追うようになるのであろうか。」ルソーの言葉だが、ゲーテという表記もある。本質はなかなか見えてこないということだ。本当に対象を好きになろうとしているのか、ただ恋に恋する自分なのか?

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これも女性に言われる言葉。確かに女性は、実際の恋愛対象よりも、自らの心に描き出した対象(相手の像)の方に強く惹かれたりする。「人がその愛する者を正確にあるがままに見るならば、もはや地上に恋は無くなるだろう。」という言葉は、「あばたもエクボ」ということなのか。「恋はまぼろし」という事なのか。度々紹介する坂口安吾の「恋愛論」の末尾はこうある。

「人は恋愛によっても、満たされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。」

そして最後の一行は、「恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」と締めている。退屈の意味は慣れ合いで、つまり恋愛は始める前こそが、憧れ度からしてもっとも崇高であり、素晴らしく価値の高いものだが、いざ初めて見ると、欲しかった洋服を買ったような、その程度の満足はあろう。が、だんだん飽きて、違う洋服が欲しくなる。

誰の家のタンスにもそういう洋服が何着かあるはずだ。「これって、死ぬほど欲しかったのに…」。恋愛もそう。「あれほど死ぬほど好きだったのに…」。安吾のいうように、「人は恋愛によっても」、満たされることはない。一夫一婦制であろうと、一夫多婦制であろうと、得たものはどんどん朽ちていく。一穴主義が人間的と言うのは歴史から見ても間違っている。

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一穴主義は人間的というより、道徳的であろう。道徳とは人間社会に争いや問題を起こさないために儲けられたものであって、争いも問題も起こってもいい、それなりの解決法がある。解決すればいい。解決して見せるという自信がある人は、果敢に道徳破りをする。問題は、解決できないで、逃げ隠れたり、怯えたりの臆病な人間である。それでも道徳を破りたい。

人間だから道徳を破りたいのだろうから、甲斐性がない人間でも破ってもいいが、自分で後始末をすることだ。その都度何億もの慰謝料払っても、若いべっぴんを求める男は腐るほどいる。どちらも同じ人間であるが、まあ、金がないなら陰でコソコソやるしかあるまい。家庭があろうと結婚生活があろうと、社会的立場に縛られながら、恋愛はしていいんだし。

それが素直な自分の気持ちなら、自分の伴侶以外の異性を好きになることは、自然で人間的なことだ。問題は制約である。社会的制約を上手くしのぐことである。誰が誰を好きになろうが、誰が誰に恋しようが、その恋そのものに罪はない。結ばれるもよし、束の間の恋もよし。恋愛のタブーは、政府や国家が民を統治するのに便利であり、都合がいいからである。

学校の校則しかりである。生活する上で混乱が起きぬよう、人間を何かに縛り付けておこうとする。誰もが気持ちのままに人を好きになり、情念に突き動かされて行動するなら、一夫一婦制は崩壊する。従って、一夫一婦制を守ろうとする人、守らなくて自由に生きたい人で、人の世はある。どちらか一つにするなどできないし、それが理想なら北朝鮮は素晴らしい国家であろう。

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