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Channel: 死ぬまで生きよう!
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「異性」と言う不思議 ⑦

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『朝まで生テレビ』を見なくなった昨今は、さすがに年齢を重ねたのだろうか?それもあろうが、論客がつまらなくなった事が一番の要因だ。あの番組がスタートしたのが1987年4月25日とあるから、28年になる。レギュラー司会者で81歳の田原総一郎が53歳の時にスタートした。パネリストには野坂昭如、大島渚、小田実、高野孟、西部邁、舛添要一、猪瀬直樹らの顔があった。

「好きなテレビ番組は何?」と聞かれたときに、『朝まで生テレビ』といったら、「まとまりのない議論ばかりして何がオモシロイの?」と批判した女が一人いた。彼女は正直に口にしただけで、思っても言わない女は、当時も今も周辺には多かったはずだ。男でも観る奴はあまり聞かなかったが、それでも自分のように、毎度、楽しみにしているというのは二人いた。

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それでも夜がこたえるというから録画して日中みるという。自分は生の興奮を味わい、必ず録画して後で繰り返し観ていた。何がオモシロイ?は愚問で、オモシロイ人間は観るし、観るからオモシロイのであって、だから愚問である。どこがオモシロイなら、他人の考えに触れるオモシロさ、それも普段に話すことのないような込み入ったことについての意見は貴重である。

生放送ゆえの問題発言もしばしばで、そもそも問題発言と言うのは実は本音発言のことで、そのホンネがポロリと出るところがオモシロイ。挑発を旨とする田原にも問題発言は降りかかるし、圧巻は1989年7月と11月、2度にわたって放送された、『人権と部落差別』では、自粛されている放送禁止用語なくして討論はできず、その点を最初に解放同盟に了解をとって始まった。

解同のドンこと小森龍邦部落解放同盟書記長に敢然と向かう野坂、大島の物怖じのなさが小森の心象を害したのはテレビから伝わってくる。小森自身被差別部落出身者であるが、彼は同県人の宮沢喜一総理を、部落民と誤解させる問題発言を起こしている。『芸備人権新報』1999年9月10日号でのインタビューで、小森は以下の発言をして宮沢を激怒させた。

(小森) ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

(記者) 宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

(小森) 宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね。彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

(小森) 自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」

イメージ 2我々が憶測で、「○○は韓国人(朝鮮人)、○○は被差別部落出身…」などというように、被差別部落出身者も憶測でモノを言うのは変わりない。上の小森の最後の発言は、弁証法的な含みもあるが、「言葉狩り」、「糾弾」を解放同盟の方針として怖れられた、いかにも小森らしい陰険な物言いだ。保守地盤の強固な同地区の亀井静香や宮沢は、常に小森の動向を監視していた。
また共産党も、小森が社会的弱者を盾に専横を極めている事を猛烈に批判、小森が国政選挙に敗れて政界引退の情報が流れ、その勢力が次第に弱まって来るとそれぞれの方法で積極的に、「小森派」の一掃を進めた。その結果、それまで小森の圧力によって泣き寝入りをしていた被害者や、元教職員・公務員などが次々と証言を始め、小森のもつ権力の内実が明るみになる。

小森の地盤である府中市を擁す広島県東部地区においては、学校業務(授業)よりも部落解放同盟行事が優先されていたが、2000年代に入って小森派が一掃されると、小学校・中学校・高校における必要授業数・授業時間が大幅に不足していた事が明らかになった。国旗・国歌に関しても、特段小森の影響が強い学区では学校諸行事における国旗掲揚・国歌斉唱が行われない。

1999年(平成11年)2月28日、君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する日教組傘下の広島高教組の教職員や、部解同広島県連合会との連日の交渉に追われる一方、それを義務付ける通達を出した文科省との間で板挟みとなった当時の校長が、卒業式前日に、「何が正しいのか分からない。管理能力はないことかもしれないが、自分の選ぶ道がどこにもない」とする遺書を残して自殺した。

駅伝の名門として知られる広島・世羅高校は、韓国に謝罪を兼ねた修学旅行も問題になる。1999年3月5日、韓国日報が、「5年前からタップコル公園で謝罪の参拝」という見出しをうち、世羅高校の生徒達が、「タップコル公園の3.1(独立)運動記念塔前でひざを折り、頭を垂れている」という写真を添えて、「日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した」と社会面トップで報じた。

同時に世羅高校の、「謝罪旅行」を案内してきたという韓国人の声も添えられた内容を、翌6日の産経新聞が報じ、「一方的に謝罪する行為は、かえって信頼や友好を妨げる。本当の友好とは、言うべきことを言い合って築かれるものだ。日本の一部の教師が持つ思い込みや非常識さが、この修学旅行のような広島県の異常な教育の背景にある」と高橋史朗明星大教授の批判を載せた。

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後日、産経新聞による教師への取材によると、「韓国でどう報道されているかは分からないが、宣言文を読み上げる前に生徒たちが座った形で集会を開催。座ったままで黙とうした。眠たさの為、頭を下げていた生徒もいたと思う」と話していたという。同日の読売新聞の取材に答えた別の教諭は、「平和学習の一環で、謝罪旅行ではない。宣言文は謝罪文でない」とした。

産経新聞は3月10日、問題の「宣言文」の全文を手に入れ紙面に載せた。「宣言文」はすべて生徒によって書かれたものであるという。それによると、生徒達は韓国の独立記念館での印象を、「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付き情けなくなった」とある。また玄界灘についてはこう書かれている。

「古代から日本に文化を伝え続けた海峡であり、韓国と日本の歴史的に不幸な事実や在日韓国人が受けている不当な差別的現実を生んだ海峡でもある。私たちは昨日その海峡を渡った。」とし、韓国の独立記念館での印象に触れて「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付き情けなくなった」とある。

さらには、「自らの偏狭な価値観で異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人となる第一歩としたい。この地で学ぶ日本とこの国の過去の不幸な歴史的事実を教訓とし21世紀を創る世代の人間のひとりとしてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたいと思う。」と締めくくる内容であったことが明らかにされた。

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「謝罪文」だ、いや「宣言文」だなどとややこしい日本語はともかく、「宣言文」に謝罪はあっても「宣言文の中の謝罪であって、主旨は宣言文」と言い張れる。また、「謝罪を宣言した宣言文である」という言い方も可能であろう。まったく謝罪のない文なら「謝罪文」という言葉は当てはまらないが、どうとでもいえることをああだこうだといっても仕方がない。

自殺者の遺書についても、「書置きはあったが遺書ではない」、「遺書のようなもの」と、なぜか遺書を否定することがある。これは遺族が自殺ではなく、事件性を問う場合ならわかるが、そうでないなら死ぬ前に書いたものを遺書というんだよ。「さよなら」でなくても、「楽しかった」と書かれても、どのような言葉であれ、死ぬ前に書いたものを遺書という。

当分死ぬ予定もないのに、「10年前から遺書を書いて金庫に保管している」という人こそ問題である。それこそ遺書というより、重要なことを記した「書置き」ではないか。世の中曖昧なことが多くて、昨今はそれこそ、「何でもあり」なら、枠に嵌めることがよかったりする。世羅高校校長の遺書は全41文字だが、遺書で印象に残っているのはマラソンの円谷英二。

自殺の報に触れて思うのは、「死はそんなに身近なものなのか?」である。壮年の自殺者は圧倒的に男が多く、その理由は社会的な苦悩や苦境にある者の死への逃避と伺える。成人女性の死には失恋など、男女問題の苦悩が多いようで、壮年女性の社会的苦境からの自殺はすぐには頭を過ぎらない。責任の度合いから見て、何で小保方が死なず、笹井が死ぬのか。

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小保方氏の身軽さに比べて、家庭も子どももある笹井氏には、研究者としての嘱望性もあった。が、そういう見方とは別に彼は「負け組」意識があったのだろう。エリートとして競いあった山中教授はノーベル賞、STAP細胞は、彼のIPS細胞に対する起死回生の爆弾だったはず。そのSTAP細胞がでっち上げなら、笹井氏は山中氏に対し、さらなる喪失感を抱く。

こういった喪失感はエリートでなければわからないだろう。人一倍努力はするが、それは人一倍負けず嫌いだからであろう。負けても勝とうという意識はそういった特殊エリートの存在を足らしめるものになるが、負けても勝ち目はないという喪失感と、STAP細胞のお笑い物種という侮辱感は相当のものだったと推察する。笹井氏拠り所の科学はマンガであった。

小保方氏宛ての彼の遺書には、「STAP細胞を成功させてください」であった。有能科学者としての達観(STAP細胞はないな)と、STAP細胞に思いを寄せた自身のバカさ、不甲斐なさから、「ない」ものを「ない」とどうしても認めることができない。「ない」と分かっていても、彼の死後に存在が確認されれば、笹井の魂は癒され、天下の笑いものの汚名を晴らすことができる。

天才には天才の心がわかる。あれほどSTAP細胞の存在について笹井氏の説明を、山中教授だけは笑って聞いていたと、それが笹井には分かっていたのでは。体全体から火がほとばしり、穴があったら入りたいほどの苦境に陥ったとき、天才は死を覚悟をする。自身の自尊心を守る方法はそれ以外になかったのであろう。山中教授だけは彼の死を理解できた。

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嘘をついた屈辱感は断然男の方が強い。社会的生き物である男は、それだけ社会的制裁を強く意識するから死を選ぶ。社会は男にとってリアルな、真実そのものの「場」でしかないが、小保方に思う女にとって社会は、「舞台」に過ぎない。そこでは虚言を演じるところでもある。華やかさの中で舞台衣装をまとって自己演出をする「場」なのだろう。問題発生なら上演打ち切りで済む。

その程度の認識に見えた。もし存在するならIPS細胞どころではない。ノーベル賞確実。そんなSTAP細胞に夢を抱き、それに賭けた笹井と、適当な思い込みにはしゃいでスポットライトを浴びたい一身の小保方には人生を賭ける点でも大きな差異がある。物事を考える際に男は左脳を使う。左脳は情報整理、論理的思考や、分析力などに優れているといわれている。

笹井ほどの緻密な科学者が墓穴を掘ったのも、IPS細胞に先を越された焦りと、「夢」の部分が災いしたのかも知れない。女性の多くは左脳も右脳もバランスよく使うが、左脳と右脳をつなぐ脳梁を行き交う情報量が増えると、近くにある偏桃体が強く反応して感情的になりやすいといわれる。さらに女性が感性的にならざるを得ないのは、後天的な理由も考えられる。

子どもの頃から男の子は「男の子なんだから泣かないの!」と言われて育つ事から、男は、「泣くことは格好の悪いこと」という記憶に縛られるが、女の子は、「泣いちゃダメでしょ」と言われて育たない。「泣く」を良しとしない男親主導ならいうだろうが、母親はあまり言わない。よって女性に、「泣くことで自分の言い分が通る、思い通りになる」が芽生える。

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「泣く=得」という情動がない男に比べてより傾向が強まる。いずれも傾向だから、育ち方で幾分変わる。ただ、女性が感情的になりやすいことが職場で不利益に働くなら考える必要がある。「女性が感情的で困る」と職場で訴える男は多い。「仕事の進め方について注意をしたら、泣かれてしまった」。「普段は明るくていい娘なんだけど、怒り出すと始末に負えない…。」

「会議の場で意見は言わないくせに、終わってから仲のいい同僚に、会議での発言批判や、言わなかった自分の意見を伝える。せっかく関係者を集めて会議なのに、なぜその場で自分の意見を出さないのか?」。などなど…。自信がなく、人前で恥をかいて自尊心が壊れると情緒が乱れ、気がめいるということを先取りした、ズルさ、腹黒さが女性にはついて回る。

これらは男から見た批判であるが、批判と同時に理解でもある。いちいち女性の言動に腹を立てたり、イライラしたりでは男だって能率が上がらない。それでも女性を輝きとし、必要とするからには、マイナス面を把握、理解するしかない。渡辺淳一が辛くも言ったように、「昨日と今日がまるで違う女性を、そういう生き物だと理解する」これが男のキャパである。

『朝まで生テレビ』が高視聴率を取った理由は、田原総一郎の企画案にもある。昭和天皇の様態が悪化し、自粛ムードが日本全土を覆った時期であったが、田原は『天皇論』をやろうともちかけたという。田原の怖いもの知らずの熱意は、右翼の重鎮をスタジオに集め、パネリストと唾を飛ばしながらの激論をさせたりもした。経済学者の松原聡はいう。


「2009年の6月に出演した時に、スタッフから視聴率を見せられて驚きました。午前1時20分からの3時間平均で、3.6%は驚きの高視聴率です。占拠率が26%とありましたから、この時間帯にテレビを見ている人は、単純計算で、3.6×4≒14.4%になります。実に、7人に1人(正確には、7世帯に1世帯)が、この時間帯に起きてるということです。」


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