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「異性」と言う不思議 ⑤

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「わかった!」

今回は思考が冴えていたというか、どんどん正解に肉薄していくようだった。いくら考えても分からぬ時もあれば、分かるときは脳に大量に電流が走るのだろう。マンガで名案が浮かぶと頭の上の電球に明りがともる絵を描いたりする。まさにアレだな、マンガは正しい。これで長年の問題に解決がついた。正しいかどうかはともかく、自分自身に納得がいった。

母は、昔の人間にありがちな、狭い視野の女性にありがちな、何かにつけ、二言目には「常識がない」、「近所の笑いもの」、「親が笑われる」と、この三点セットが常套句であった。どこの親でも多かれそういう事はいうだろうが、これ以外にいう事がないと言うくらいに聞かされた。聞き飽きてもいた。いずれの言葉も息子を思う気持ちは伝わってこなかった。ところが…

「そんなんでどうするんだ?靴を盗まれて、裸足で帰ってくるバカがどこの世界にいる。誰のでもいいから履いて帰るくらいの気持ちがなくて、世の中生きていけるんか?」

この言葉は実は分かりやすく脚色して書き直したもので、男勝りの母はこんな物言いはしない。記憶には状況しか残ってないが、おそらくこんな感じでいったのだと思うが、言葉のニュアンスは文字には表しにくいばかりか、断片的な記憶しかない。それでも記憶を呼び起こし、なるべくニュアンスに近い感じで表現するとこういう感じであろう。

「何をしよんか!靴盗られたから裸足で帰ってくるなんか、ほんま情けないわ。人の靴でも履いて帰ろう気がなくてどうすんじゃ、バカたれが!そんなんじゃ生きていけんど!」

イメージ 2胸にグサリ、奈落の底につき落とされた。確かに不甲斐ない。母の物言いは、普通に喋るだけで知らない人間は喧嘩腰に思う。それほどキツイ物言いをされると反射的に口答えとなる。が、この時自分は口答えをしていない。「盗られたもんはショーガなかろうが、うるさいんじゃ、黙っとれよクソババぁ!」と言い返して不思議はないのに、なぜか返せなかった。
「わかった!」というのは、普段は常識だの世間体だのが口癖の母が、正面きって息子のことを思って発した言葉であり、現に自分の中の「男」を奮い立たせられた。ふやけた心に渇をいれ、"肉を斬らさば相手の骨を砕け"という、男の気概を持てと、そういう母の気概が感じられたのではないか。「人の靴を履いて帰れ」そんな善悪より、性根をぶち込まれた。

自身の何かが一変するような迫力に満ちた言葉を受け、この日から自分は男になった。財津和夫の『青春の影』の最後のフレーズはこうだ。「今日からぼくはただの男」と歌われる。この詞の意味はいろいろ言われている。いろいろな解釈はあるけれども、自分は以下の解釈をする。「男のロマンの犠牲になった女がいた。がむしゃらに前を向くだけの男だけに…

少年のように自分の幻影を追った男も、やがて熟して成長すれば、人(女)の愛に気づき、目覚める。恋などとはしゃいでいたが、恋は心身の成長と共に移行し、愛の架け橋となるも、愛の重苦、厳しさに慄く。女は男のふるさとである。男も女から生まれる以上、疑いのないふるさとを、男は大切にすべきである。そして最後「ただの女、ただの男」に連なる。

「ただの女」、「ただの男」とは、肩書きも履歴も境遇も身分も相性も虚言も真言も、そうした人間にまつわる一切の装りを無用とする、生身の人間のことであろう。人はそれを純粋という。そして、今日からただの女になる、ただの男になった。ではなく、なる前の心情であり、「なろう」という決意。青春の影というのは、本質の大切さを気づかぬことかと。

 君の心へ続く長い一本道は
 いつも僕を勇気づけた
 とてもとてもけわしく細い道だったけど
 今君を迎えにゆこう
 自分の大きな夢を追うことが
 今までの僕の仕事だったけど
 君を幸せにするそれこそが
 これからの僕の生きるしるし 

 愛を知ったために涙がはこばれて
 君のひとみをこぼれたとき
 恋のよろこびは愛のきびしさへの
 かけはしにすぎないと
 ただ風の中にたたずんで
 君はやがてみつけていった
 ただ風に涙をあずけて
 君は女になっていった

 君の家へ続くあの道を
 今足もとにたしかめて
 今日からは君はただの女
 今日から僕はただの男


なぜに青春時代は大切なものに目が行かないのだろう。なぜにちっぽけなことで苦しみ、悩むのだろう。自分に最も大切な恋人をも捨て去ったりする。自分もそうだった。なぜ、人の愛を理解できないのか。青春が貴重な時代であったと分かるのは、青春を過ぎてからだという。青春時代に学ぶことは人によって違うが、あらゆる人に共通すべくは、「自信を持つ」である。

「青春の影」の女には心当たりがある。男がロマンを追求するその陰で、自分を支えてくれた女である。一言の我がままを口にせず、ひたすら見つめ、黙すだけの強い女である。世間はそういう女を、「待つ女」という。「待つ」という忍耐は、女の特性であろう。どうみたって女は受動的である。あみんの歌ではないが女は待ち、そして男は待たせる。いつまでも、「待つ」わ。

財津も、「待つ女」を体験したのだろう。そんな彼の回想だ。春を待つ女の、「早春賦」が実った歌ではないか。青春期の共通の目的は、「自信を持つ」と言ったが、「お前はそれでも男か!情けない」の母の言葉は、「男ならくよくよするな!」であろう。女が処女を失うときに、女を実感するのかどうかは分からぬが、男が男になる瞬間もある。もちろん、実感であるけれども。

あの日、母の言葉は「盗っ人になれ」ではなく、「盗っ人をしても男になれ!」というエールであったのだ。男が男になろうとするきっかけがあの言葉だったのだが、なぜそれを気づかないでいたかも分かる。母を嫌っていたからだ。確かに母は自分の生の害でしかなかった。昨今でいう、「毒親」である。「人の物を盗むな」と言いづくめの母が、「人の物を盗め」と言を翻した。

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その瞬間(とき)に、母の人間としての言葉を感じたのだろう。親は教科書であり続けてはダメだ。教科書のような教師もうんざりだ。人間同士が、生身の人間として触れ合うのは、生身の言葉でなければならない。世間体や常識ばかりを口にする母が、唯一漏らした人間のホンネである。自分の求めていたものが母の口からもたらされた。にも関わらず気づかなかった自分。

役に立つこと、功利的なことしか言わない母親に男の子が共感をもつはずがない。男の子は、基本遊びの中から指針を見つけていく。少年Aの母親も、アレが世の一般的な母親なのだろうが、息子に功利を諭している。自分の将来のためにどんなに役立つことを教わり、あるいはそうれを行為してみても、「人間って、なんてすばらしい」と思うだろうか?

感動というのは、「要領よく立ち回ること」や、「将来に役に立つなにかをコツコツ身につけること」からは生まれてこない。失敗を回避するためにリスクを伴うことをしないで生きてきた要領コキ人間が恋愛をした。功利だけを追い求めてきた人間が、恋に必要なエッセンスなどあったためしがない。恋がうまくいかない、相手に好意・好感をもたれていないのが分かる。

そうしたあせりや苛立ちからか、こんな言葉を発したりする。「彼女は素晴らしい女性です。今まで自分が接してきた人にはない謙虚さ、やすらぎがあるのです。あの人以外に自分にやすらぎを与えてくれる人は他にいません」。最大限の評価であり、褒め言葉だが、これはある種の精神病理であろう。これほど、「やすらぎ」を求める自分自身に欠陥があるのを気づいていない。

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「最大多数の最大幸福」の功利主義を念頭に、「役だつ」ことばかりをしてきた人間に何が欠落するかを考えてみる。今まで要領よく生きてきたから、それを主義・価値にしてきたから、「やすらぎ」や「やさしさ」に触れたいのである。要領こいた生き方でも不満は溜まる。不満が溜まれば、酒を飲んだりで鬱憤を晴らすも、それでは満たされず、やりきれない寂しさにつつまれる。

結局、要領よく生きた人でも、心の底では人間らしい暖かい心に触れたがっている。人間はそういうものだ。そうした心に触れた瞬間、「生」の充実感を感じるはずだ。母は、功利の塊であった。世の中に役だつ人間を息子に求め、それによって自己愛的欲望を満たそうとする人であった。そんな母から「生」の実在感を感じた言葉が、不道徳極まりのない「あの言葉」であった。

息子のためを思って言っている、と息子に思わしめた唯一の言葉であった。子どものためだけに生きる、生きているみたいなことをいう母親がいる。特に母子家庭には多いかも知れない。母親が子どもに依存している点において良いことではないが、母子家庭は親子の絆を深めているのは間違いない。問題は、どう深めたかだが。息子の幸福だけを望む母。

そのために世の中に役に立つものをせっせと身につけても、それで人生が楽しいわけでは決してない。恋が成就するわけでもない。人に好かれるわけでもない。必死で少年野球に入れ込む親がいる。ピアノやバイオリンを熱心にさらわせる親もいる。自分も経験したが、五嶋みどりの母親の凄まじさには驚いた。そういった猛母に触れ、何か大切な「忘れ物」に気づいた。

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野球のために人生があるのではなく、人生のために野球がある。ピアノもバイオリンも同様にである。学問のために人生はない。人生のために必要な学問がある。人と仲良くするとか、人に好感もたれることは学校で教えないし、学問からも学べない。ましてや、勉強以外のそういう「徳」は、学校では評価はされない。しかし、社会では最も評価されること。

人間が社会にでて最も悩むのが人間関係である。少年野球で体の用意をし、学習塾で頭の用意をし、ピアノ教室で楽しめない音楽をやったところで、社会に出ては間違いなく人間関係で挫折する。人間関係を上手くやれない人間は、その人のあらゆる生活自体を苦しいものにしている。そういう人には共通する、「忘れ物」のような何かを感じてしまう。「忘れ物」とは何?

将来「役に立つこと」、「功利的に生きること」だけを心掛けて来た人に共通する、「忘れ物」とは、時々の今を生きてこなかったこと。今を犠牲にして勉強することを予備校の講師は言う。流行語にもなった、「今でしょ!」は、今勉強しなかったら将来取り返しがつかないということらしい。「今、好きなことやれなかったら、永遠にできないんだぞ!」。そういう意味ではないらしい。

予備校の講師なら商売用語である。功利主義に興味はない。要領のよい人間に感動はおきない。映画を観たり、余暇を楽しむ時間があれば、「利」となる何かをすべきという考えだ。今を犠牲にして勉強した人間は本当に得なのか、今すべきは勉強なのか。疑問は消えない。将来に、「役に立つ」ことばかりを求めてきた人間が、他人に「やさしさ」を求める。

イメージ 6と上記の例を出したように、人間は得たものと同時に失うものもある。青春のまっただなかで、「要領よく、能率的に人生を送ろう、送りたいなど、考えることじゃない」。要領のいい人は概ね嫌われるケースが多い。理由は思いやりが欠けているからだろう。自分だけが要領よく生きて行こうとしているなら、その周囲に心の暖かい人が集まるはずがない。自分勝手な振る舞い、自己中な人間が他の人との間に暖かい触れ合いが成立するだろうか?確かに、世の中にはずいぶんと自由気ままに、言いたいことをいい、言いにくいことも、こともなげにさらりと、あるいはヅケヅケというが、決して嫌われない人はいる。おそらくそういう人は、何かの時に相手に一肌脱いだり、困ったときは率先して力になろうとする人。

そういういった相手に媚びない自信、逞しさがヅケヅケと物を言わせるのだ。受験制度にあって、そういう制度であるなら優等生という人は評価を得る。それは制度の中の評価であって、彼の人間性が素晴らしいという評価ではない。功利的に要領よく勉強すれば、それなりの成績は得ることはできるが、要領のいい人間の最大の欠陥は、スケールが小さい人間が多い。

ノーベル賞で知られているアルフレッド・ノーベルの少年時代の逸話がある。彼は学校の成績は常に二番であった。彼より優秀な子がいて、ノーベルはどうして彼を越せなかった。あるとき、この子が病気で長期欠席をすることになる。「チャンス!これで自分が一番になれる!」と言うのはスケールの小さいそこらの凡人である。学校を休んでも彼は成績は落ちず、トップであった。

なぜか?理由は、ノーベルが毎日の学校の授業を手紙で教えていたからだ。自分だけに役立つことをする。要領よく生きる。世渡りをうまくやればいい、そんな人間にとっては、屁でもない逸話だろう。突然、降って湧いた膨大な資産を世のために、という遺言で始まったノーベル賞は、この逸話からみても自然なことである。1億円もっていても1000円をケチる人間がいる。

1000円しかないのに500円を分けようとする人もいる。そういう人間感は、学問で身につけるものでも、つくものでもない。「一番が病気で入院か。ザマ~見やがれ」という人間は、その事で仮に成績が一番になったとしても、心は醜いのである。「異性についての不思議」という表題であるが、同性のことも記した。なぜなら、女性から見た男は異性である。

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