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「異性」と言う不思議 ④

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 息子:「ともだちにバカっていわれた」
 母:「○○○○……」

あなたが母であり、小学生の息子がこう言って帰ってきたらどう答える?「どう言うのが正解?」ではなく、まず自分ならどういうか?アレコレ何通りも考え、「これがうちの息子には一番いい!」という確信に満つ言葉を見つけるのがよき親であろう。が、瞬時に出る方がいいのはいい。何が正解などはない、確信である。もちろん、小一、小三、小六、中学生によっても言葉は違ってくる。

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高校で「バカかお前は?」と言われて親に泣きつく子もいない。その場で自ら解決すべきこと。小学生同士の子どもが言い合いの中で、「バカ」という言葉は古今東西の定番であろう。最近は、「死ね」が問題になっているが、「コンチクショー、お前なんか死ね!」は昔もあった。変わったところで、「バカ、カバ、チンドン屋」というのも子どもの常套句。

 A夫:「バカ」
 B夫:「なんでバカなんだ?」
 A夫:「バカだからバカなんだよ」
 B夫:「バカっていう方がバカだろ」

いかにも子どもの言い合いだ。「バカ」の論拠もあったものではない。単に言葉の罵倒でしかない。言い返すならまだしも、「ママ、○○クンにバカって言われた~」と、ベソかく男の子、そんな家庭はどうか?自分的にはお先真っ暗だ。親はそういう息子に気づかなければならないが、自分の育てた息子が、「ママ、バカっていわれた」で、違和感はないのだろう。

風邪はひき始めが大事という。ガンも早期発見が早期治療につながる。が、早期発見だけで治療しなければダメだ。子育ても同じように早期発見が大事。もちろん、よくない点を発見したなら改める必要がある。早期発見の場合は子ども自身がその善悪良否を分かるはずもなく、改めるという事にもならないが、親が危機意識をもって早速治療にとりかかるべき。

昔の母親はこんな男の子を容赦しなかった。男子はお国を守るために強くなければならない。これが戦中派の共通した母親である。自分の実家の隣は土建屋であった。そこの親父は、息子が泣いて帰ると、「10円やるから行って叩いて来い!」とけしかける。さすが土建屋の親父で、自分も言われた事があった。18歳のある日、ボーリング場で靴を盗まれた。

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昔のボーリング場は個別の下駄箱はなく、玄関に脱ぎっぱなしだった。ある日、いい靴を履いていき、帰ろうとしたら自分の靴がない。仕方なく裸足で家に帰ったら母親が怒って言った。「そんなんでどうするんだ?靴を盗まれて、裸足で帰ってくるバカがどこの世界にいる。誰のでもいいから履いて帰るくらいの気持ちがなくて、世の中生きていけるんか?」
 
これには驚いた。自分の中に一分もない考えである。ドロボウして来いという親がどこの世界にいる?が、母のこの言葉は以後ずっと自分の内に留まった。言葉には善悪を超えた、何か得たいの知れない、それでいて自分の心を奮え上がらせる何かがあった。幼少期から何一つ尊敬できない母だが、唯一光る言葉がこれである。この言葉は以後の自分を支配した。

世の中には別のケースもあろう。ある男の子が同じ条件下で、他人の靴を履いて家に帰ったとする。見つけた母親が息子に問う。「その靴は誰のだ?」、問われた息子は、「靴を盗られたから人のを履いて帰った」。すると母親は、「お前はなんという事をするんだ。その人だって困ってるだろう?すぐに行って返して来なさい」と、これが母親の鏡では?

これが母親の美徳では?引き換え自分の母は、何という不道徳なことを息子にいうのだろうか。が、「人の靴を履いて帰るくらいの気転や、心意気がなくてどうするんだ!」に、何故か自分の心が揺さぶられた。「なぜだ?」、「なぜ…」、「なぜなんだ!」大嫌いな母のこの言葉に揺れる自分のなぜ?尊敬する人、好意的な人の言葉に揺れるというのはある。

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50年近い年月を経て、こうして再びあの時の母の言葉が頭を塞ぐのだが、未だに解明されていない。もし、自分の息子が同じ境遇にあったなら、靴を盗まれ、同じように他人の靴を履いて帰ったなら、自分は烈火のごとく怒るであろう。「何をやってるんだ、すぐに戻しに行って謝って来い」と言うだろう。なのに…である。母の言葉と何ら整合性はない。

「金科玉条」の言葉をくれた母である。唯一、この一言だけは…。が、自分的には「謎」である。人間の行為の不可解さと、自身で思っている。長い期間、意味と由来を考え続けた理由は、あの日以来の自分が何か変わった気がするからである。変な風にいえば、あの日来、自分が男になったような気もする。決してオーバーではなく、一つの起点であるのは判る。

是非はともかく、母を唯一尊敬できるのはこの言葉である。この言葉を発するときの母は偉大に思えた。この際、徹底的に自己分析してみるか?人間は案外自分のことが分らない。「自分のことが何で分からないのか?」そう叫ぶ教師も上司もいた。「自分のことなのに分らないはずはないだろう」と…。そうではあるまい。人間は自分のことが分らないことが多い。

むしろ普通のことであろう。おそらく自分自身を知らないからであろう。「自分は一体何者なのか?何処から来たのか?どこに行こうとしているのか?」この哲学的命題が示すように、人間は自分のことを知らないのだ。自分を知ることはできるのか?だとするなら、どういう方法で?「自分探しの旅に出よう」は、巷言われる。それがいいのか?旅に出ると判るのか?

イメージ 4「壁」シリーズで一儲け、二儲けの養老孟司が、『自分の壁』を発刊して一年。彼の「壁」物は売れているようだが、『バカの壁』も含め一冊も読んでないし、養老氏の著作の引用はない。理由は嫌いだからである。彼を慕う時期もあったが、石原慎太郎氏と同様、嫌いになった一人である。言いっぱなしで反論しない、と決めつけた横柄な態度がその理由である。

『自分の壁』の表紙帯に、「自分探しなんてムダなこと!」とある。養老氏は、「本当の自分を探すより、本当の自分を育てた方がいい」と言ってるようで、この点は同意する。時々で変わる、成長によっても変わる自分なんて、探しようがない。常に育てていくものだ。昨日の自分を探すよりも、今日の自分、明日の自分を育てていくべき。そう思うから本は読まない。『バカの壁』も、言いたいことはそれなりに…。

自分の求める書籍は、持論を肯定するとか、裏付けの自己満足本ではなく、対論や異論の方を好む、それも説得力のある対論だが、養老氏は言いっぱなしの人。「反対したり論難したりするために読書するな。さりとて信じたり、そのまま受け入れたりするために読書するな。ただ思い考えるために読書せよ」とベーコンが教えてくれた。養老氏は持論の異論に口を閉ざす。

むしろ異論にどう反駁するかを聞きたいが、彼にはそれを望めない。「年寄りの冷や水」と言っては失礼だろうが、若さがないし、ただの説教ジジイだ。明晰な方ゆえに口を閉ざすことでボロがでないように自尊心を守っているのだろうが、そこいらあたりも若さがない。各方面から、彼の根拠を示さない言いっぱなしに批判は多いが、金持ち喧嘩せずのスタンスを続けている。

科学者でありながら科学的な検証に基づく主張ではないし、もしそうであったならあれほどの著作は出せないだろう。そういうところに対する異論だが、「『科学的に正しい』という言葉に寄りかからず、論理的に考えることが大切なんです。科学を安易に信じない態度が科学には必要なのです。」と明言しているわけだから、そこらあたりは自分も受け入れている。


科学は検証したり何だのと面倒くさい。そんなんでは本一冊書くのに数年かかるばかりか、すぐに結論を出せない用意周到な科学界にいては執筆活動ママならずであり、養老氏はそこを見極めている。科学を軸に書いても、あれこれいわれるがオチ。よって、養老氏の科学批判は理論武装の自己防衛であろう。これさえ言っておけば、文句をいう方がオカシイということになる。

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科学者でありながら、なかなか結論の出ない科学界を見切り、商売路線を優先する養老氏は、頭のいい商売人である。ただ、「結論を求めない"宙ぶらりん"をいかに受け入れるか?」という氏の態度は、実は自分と同じ考えである。よって養老氏には是々非々の態度でいる。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という気持ちは毛頭ないが、商売人の著作は読む気が起こらない。

ボーリング場での靴盗難に対する母の言葉になぜ惹かれたかを自分探しとせず、自分を育てることでその理由が分かるはずだ。今までのところ分らないし、今夜辺りから糞でも垂れながら、もしくは布団の中などで集中思考してみよう。おそらく、「これだ!」という結論がもたらされるだろう。いつもそうだし、人間は考えれば何とかなる。今日がダメでも明日は成長している。

宗教者は聖書やコーランや新興宗教などの教義を信じてこそ信仰であろうから、神や教祖の言葉が絶対であろう。イエスや仏陀やモハメットは格が違うからまだしも、麻原彰晃なんかを教祖と仰いだ信者もいたわけだ。池田大作や大川隆法がどの程度の人かを、知る由もないが、信者は仰いでいるのだろう。同じくオフコースの少女も、小田さん松尾さんの発言を疑わないように…

ファンという信者にとっては教祖であろう。そういった強力なファンに何を言ったところで発言はゴミでしかない。次回から結果は見えてると認識し、ファンには「はい、そうですね」としておこう。こういう態度は好きではないが、「始めに結論ありき」との考えが正解かも…。よく言えば相手を尊重する。悪く言えば相手にしない。中間が放っておく、無視する。

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「尊重する」なら真摯に何でも発信するだろうから、押し黙るというのは、「相手にしない」、「無視する」であろう。ファンは放っておくのが親切かも知れない。「小田さんがそういいましたんですか?なるほどね。ハイ、わかりました」という生返事や素振りは、相手を本心的に見下し、バカにしているのだ。だからつい、「人はそんなに本心を言うのか?」と現実的になる。

「腹に一物」で押し黙っても相手はバカにされてるとは気づかない。誠実ばかりが正しいわけではないし、真実を隠して話す相手を見定めるのがいいようだ。人によってスタンス変えるのが不得意な幼児気質である。宗教者とファンにはホンネを隠す心得は分かってはいる。それができないならまた遣り合う。誓いは誓い、その時はその時。誓いよりホンネが優先する…。

「『異性』と言う不思議」の表題は、誰もが抱く思春期以降の謎である。折りに触れて思ってきたことだが、今回、この表題で書くきっかけは、例のオフコースファンとのやり取りで、少し前にもオフコースファンとの爆裂があった。対話と言っても対話にならないのが女で、自分の主張ばかりが優先する。自己主張というならまだしも、ファンとしての甚だしき思い込みを披露する。

他人の思い込みはこちらには何の関係もないし、重要度もないが、そこに気づかないのが思慮の浅さというのだろう。「会話」には熱量というものが存在する。、相手がシラケ気味ならこちらもシラケ、相手が熱量が大きいとこちらもそういう風になる。引き込まれるという言い方をする人もいる。「熱い会話」という人もいるが、熱いも熱心も、いずれも熱量のこと。


が、本質的にいえば、相手の熱量が高いとこちらは下げてやるのがいい。互いが熱いと一触即発気味になりやすい。が、基本的には熱量を維持しつつ、冷静に自重したり、抑えたり、常に自己との心の対話をしながら相手と話す。熱量は間違いなくあったほうがいいし、実社会では受身であるよりも、主体性が求められるのは間違いないが、瞬間湯沸かし器ではダメだ。

声を荒ければ自論が正しいわけでも、相手の論を否定すれば自論が正しいわけでもない。問題は、否定に対する根拠と説得力。根拠は論拠として提示するが、少々無理があっても、会話に説得力があれば、愚論も意味を持つ。が、頭のいい人間には通用しない。愚論は見透かされ反論される。女性に田嶋陽子型が多い。言いたいことは言うが、反論されるとムキになる。

女性がなぜ感情的になるか、「感情の動物だから」と言ってしまえばそれまで。科学的に言われるのは、男女で脳の使い方が異なるようだ。女性脳、男性脳については何度か取り上げたが、異性の本質が「脳」に起因するなら、異性を論じるにあたって避けては通れない。生殖が精子と卵子の合体であるように、本質は、繰り返され語られてこそ本質であろう。

さて、のっけの問いだが、自分は父だからこういうかも知れない。

息子:「ともだちにバカっていわれた」
父:「そっか!で、言った奴はお前よりバカだと思う?賢いと思う?」
息子:「バカだと思う」
父:「だったら気にすな。バカは自分のバカを隠すために人にバカっていうんだ…」


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