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「異性」と言う不思議 ③

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異性を初めて意識したのは小学一年生だったかな。ハッキリ覚えている。三浦千賀子さんといい、近所(といっても自転車で10分くらい)の歯科医院の勤務医のお嬢さんだった。誰に似てるといえば最も近いのが尾野真千子。彼女の小1の写真があれば相当似ている気もする。すこし角ばった顔に知的な雰囲気。だからなのか、今最も好きな女優は尾野真千子。

俳優を意識して映画を見ないが、彼女の存在を始めて知ったのは2008年公開の映画、『クライマーズ・ハイ』で、新聞社の地域報道班の役。「この女優はいいな…」。真摯な演技がよかった。デビュー作、『萌の朱雀』は、途中リタイアした映画。その主演が彼女であるのを知らなかった。初恋相手の父が歯科医院にいるだけで、行きたくない歯医者に行きたい自分である。

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お父さんにいいところをみせようと、必死に歯をくいしばる(くいしばっては治療できないので、口を開けしばる?)痛みを我慢する。「えらいね、よくがんばったね」と褒められて照れる。ガマンの理由を父は知らない。歯科医院には必ず父の自転車に乗って行った。帰りには必ず、柔らかくて食べやすいポンせんべ~を買ってくれた。「ドカーン!」と音のするアレだ。

人は食べて寝て動いて、勝手に大きくなるが、こういう思い出をたどると、「大きくしてもらったんだな…」との感慨が湧く。みんなが貧しかったあの時代、数え切れないほど楽しさに包まれ、それを映像のように客観的に思い出す。自転車の荷台に乗って歯医者に行き、顔をしかめてガマンをし、父が治療費を払い、帰りにポンせんべ~を買う姿が頭に映し出される。

自身の体験は主観的なことなのに、なぜか客観的な映像として見ることができる。人間の脳というのは、イメージを主観・客観の両面から捉えることができるし、我々は俳優であり監督になっている。主観的な記憶の断片が、客観的な状況で表されることで、薄らいだ記憶が増幅されるのだろう。上に記したすべての情景を行為する自分と、見つめる自分が存在する。

初恋の人は今頃どこでどうしているのだろうか?その事を思い出す時、彼女は自分の存在など思い出すどころか、記憶の隅にもないだろう。が、反対に自分の記憶の隅にもなく、思い出すこともない誰かが、どこかで自分を思い出しているのかも知れない。映写機というのは実に何千台、何万台と、人の数ほど存在し、そこには人それぞれの映像がしまわれている。

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記憶というのは自分の記憶であって、人の記憶が自分にあるわけではない。が、もし同日同時間に、ゆかりのある同士がゆかりの日々を思い出すことが、絶対にないとはいえないはずだ。記憶にもない相手もいようが、同時代に同時間を過ごしたゆかりのある同士が、ゆかりの日々に思いを馳せていたとするなら、その思いは時空を超えて互いのハートを揺らすかも知れない。

ビーチ・ボーイズに、『Good Vibrations』(1966年)という曲がある。vibrationとは、通例複数形で口語的に(人・場所などから感じられる)精神的電波、感覚的反応、感触との意味があり、書かれた当時の時代背景からして、ヒッピー用語・俗語の「雰囲気」でと思われる。が、vibrationを「振動」と直訳し、彼女とのエッチな行為を表すとするのは、この場合違う。

Good Vibrations』は、ビーチ・ボーイズにとって最大のヒット曲の1つであるが、とにかくこの曲は凄いの一言。初めて聴いたときはビーチ・ボーイズの新境地と感じた。テルミンという電子楽器の繰り出す不思議な、異様なサウンドが印象的な本曲は、複数のスタジオでレコーディングが繰り返され、90時間に及ぶテープを編集、3分半のマスター・テープが作られた。

マイク・ラヴは、「2秒から5秒ぐらいしかない同じパートを、25回から30回ヴォーカル・ダビングした」と回想している。この曲のリアル・ステレオ・バージョンは今だに発表されていない。理由は、ボーカルトラックのみマスターテープが紛失した。が、演奏のみのバッキング・トラックのリアル・ステレオ・バージョンは存在しており、シングルがCD化された際に収録された。


初恋から6年、中学一年になった早々、他の小学校出身の山元と仲良くなった。ある日彼が、「男便所と女便所が分かれているけど恥ずかしくないか?」と聞かれ、「想像されると恥ずかしいわな」と答えた。思春期突入前期の意味ある会話は今でも覚えている。こういう意味だ。男の小便器は立ってする形であり、その行為が男の性器を女に想像されることになる。

それが恥ずかしいと友人は言う。バカげた話だが、当時はバカげてない。そんなことが恥ずかしいのだ。当時の恥ずかしい感覚は汚れたおっさんの今、到底思い出せないが、何とも不思議な思春期である。思春期は、性への興味と関心が高まる時期であり、同時に、性への興味・関心と併行して羞恥心が生まれてくる時期であるのは、知識として知っている。

知識はあっても実態として分らない。過去のことであるけれど、女子に男の性器を想像されるのがなぜ恥ずかしいことだったのか、記憶を元に検証してみよう。そういう羞恥心は目くそほどもなくなった昨今、失った感情を思い出すのは並大抵ではないが、当時のことは「謎」といえば「謎」である。人生を終焉する前の残務整理として、いろいろ謎を解き明かしたい。

イメージ 3学究的思考をしてみるに、「羞恥心」とは何かである。男の幼児が家の中・外をマッパで走り回る姿はいかにも可愛く、どこの家庭でも見かける光景だ。お母さんもおちんちん出して駆け回る息子を、「これ待て~」と追いかけ、男児は面白がって逃げ回るのだが、彼はパンツを脱いで、「きゃっきゃ」とはしゃぎながら、とっとこ駆け回るその事が面白いのか?

それとも、オムツを外された開放感が嬉しいのか?マッパで駆け回ることで母親がご機嫌なのを察知した上でのサービス精神なのか?そこは分らないが、女の子だと状況はまるで違う。母親は、「何やってんのー、パンツ履かなきゃダメでしょ?こっちに来なさい!」と注意する。その前に女児がマッパで駆け回る光景を見ないのは、親が戒める以前の問題か?

年端も行かない幼児であるが、マッパで駆け回ることを面白いとする男児の「やんちゃ気質」、そういう事をしない女児の大人びた性向、これが親・周囲などによる環境や躾をされる前に、備わっているとするなら、男女の先天的気質というのは実に不思議なものである。お母さん方は、乳幼児の段階で、体格や行動などの面から生まれつきの男女差を感じるはずだ。

体つきは、ホルモンの影響で明らかに男女差が出る。男の子は骨格がしっかりしていて筋肉質であり、女の子は、やわらかい感じで、身長、体重、胸囲、頭囲の平均値はいずれも男の子が上回る。その分力が強く、男の子は動きが激しい傾向となるのだろう。また、髪の伸び方についても言われたりするが、それについての男女差はなく、思い込みであるようだ。

巷言われる女の子の方が育てやすいのは事実で、男の子の方が、嘔吐、下痢、ぜんそくなどの病気が多いとの統計がある。生まれる赤ちゃんも、女の子より男の子の方が少し多いのは、男の子の方が育ちにくいからである。昔は、出生体重500g前後の未熟児で助かる比率は、女の子が圧倒的に多かった。そういった面でも、女の子は育てやすいが受け継がれている。

先ほどのおちんちんを出して楽しく駆け回るそんな男の子は、胎児のときに浴びた男性ホルモンの影響で、活発で攻撃的な性質を持って生まれてくるし、だから動きも激しくなりがちのようだ。一方女の子は、男性ホルモンを浴びていないために、一般的に男の子に比べて攻撃性が低く、おとなしめとなる。胎児時期に性差ばかりか、気質も決定されている事になる。

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                                                     「?」

この変から性の差異化が親にもたらされている。女児はマッパで駆け回ると叱られるのは間違いないが、それ以前にそういう事を楽しいと思わない、だからしない、女の子はそういう風に生まれてくるのだが、それをすると母親は俄然注意する。そういう母親の思いはなんだろうか?つまり男の子には微笑ましく、女の子のそういうはしたない行為を喜ばない。

女児のマッパ姿がエロいわけではあるまいが、女の子らしくないという母親の思いであろう。これが父親なら、男児も女児も同じと感じ、女児のストリップ姿を注意するより眺めているのは自分だけ?エロい父親だからいい機会と思って、得した気分で眺めるのか?よく分らないが母親の注意に理性を感じ、こいう場合の男親は、理性的になっていない(自分だけかな?)

ちょっくら想像してみた。マッパで駆け回る女の子を父親が、「ダメダメ、女の子がそんなことしては…」などと注意する光景はどこか変。そんなの父親的姿として滑稽に思えてしまう。なぜだろう、偏見か?少なくとも自分は注意しないし、せずとも母親がとっ捉まえて服を着させる。男親が注意しないのは、男が基本やんちゃでそれを面白いと思うのかも…

大人になっても男にやんちゃ気質が残っているのは自分でも認める。やんちゃとは何かといえば、楽しいことである。幼児期から男は、「やんちゃ」、女の子は、「おしゃま」といった。「おしゃま」とは俗語、隠語で、少女が年齢の割に大人びた知恵や感覚を身につけていること。ませている。の意味だが、ムーミン一家の大切な友だちのおしゃまさん(トゥティッキー)。

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おしゃまさんは、賢明かつ現実的な方法で、どんなピンチも解決に導く知恵のある女性である。また、おしゃまさんは、ムーミン屋敷がいつも快適であるよう、機敏な動作で、お掃除やお手伝いを上手にこなす。ムーミン谷の他の住民とは違い、おしゃまさんは冬眠をしない。冬の間はムーミン屋敷の水浴び小屋で、目に見えないとんがりねずみと共に過ごし、春を待つ。

おしゃまさんは、なんだって修理できる。しかし、時には修理できない壊れ物があることも知っている。が、生きるすべは、経験を通して学ぶものと信じるおしゃまさんは、他人にとやかく教えたりしない。ボーダーのシャツ、暗い色のズボンと、ぽんぽんのついたニット帽がトレードマークのおしゃまさんは、何とも聡明であると同時に不思議な女性である。

そういえばポーランド中部の小さな町トゥシンの町議会が、A・A・ミルン氏の児童小説のキャラクター「くまのプーさん」のイメージを、子どもの遊び場で使用することを禁止したという。理由は、プーさんは、「セクシャリティがあいまい」、「下半身に何も着用していない半裸の状態で不適切」とし、子どもたちの目に触れさせるべきではないと判断したという。

プーさんは、上半身には赤いセーターを着用しているが、下半身には何も着けていない。ある町議会のメンバーは、「下半身に何も着用していないのは、性別がないから。つまり両性具有である」とコメントしている。バカバカしいが、こういう規制をすると、矛盾が露呈するのは必死。ムーミンはどうなる?下半身すっぽんぽんなら、ピーター・ラビットは?

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詳しい経緯やその後の事態をいろいろ調べたがこういうことのようだ。「禁止にしたらどうだ?と冗談を込めた話を出して、それでまとまりがつかない議論に終止符を打つための発言だった、のが真相のようだが、我々は世界中の情報を正しく知ることはできないし、ソースに頼るしかないが、「禁止にした」というYahooニュースの書き方が問題で、それに皆が反応した。

「プーさん禁止」のニュースはネットを駆け巡り、馬鹿げてる等の批判が渦巻いたが、ネットは情報をしる手段ではあるが、正確な情報という根拠は得られず、ねずみ算式に一つのデマが駆け巡る。少し前に、雑誌に掲載されたロックバンドの画像をホームページに無断で載せたはいいが、あっという間にその画像が二次使用されて、ネズミ算式に増殖して行った。

画像を載せた本人が、画像使用者を見つけては削除依頼に駆け回っているとし、自分のところにも現れた。世の中にはずいぶん律儀な人もいるものだ。当初、本意が伝わらなくて誤解もあったが、コメントの長文を読むにつれ、真摯な思いに共感を得た。何気ない過ちであるが、それ程に自己責任を感じ、微細な努力を惜しまない行為は立派の一言。

そんなこと真似のできない我々に、彼の行為を批判することなどできない。にしても、あまりの地道な行動に驚き、「そこまでせずともネットを楽しんだら」と、つい余計なことを言ってしまう。GFRの東京公演は豪雨&雷雨の後楽園球場で、予定よりかなり遅れて始まった。どうしてこの画像が少ないのか分らないが、このライブは貴重な文化遺産であろう。

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