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「異性」と言う不思議 ②

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自分が信ずる宗教のことを嫌う奴がいても、ボロクソいわれても、痛くも痒くもないし、屁とも思わないのが真正な信者と言ったが、普通の人間なら、石をなげつけられた日蓮や、イエスのようなわけにはいかない。腹も立とうし頭にもくるだろうし、人間というのは、身も心もか弱き小さな存在だ。だから悟るために苦行を必要とし、精神を鍛錬するのだろう。

何が我々の支えになるのか?何を支えにすれば強い人間になれるのか?強いというのは喧嘩が強いのではなく、動じない精神のこと。生きていくのは自分である。人の助けを必要としなければならない境遇の人はともかく、本来的には人の助けばかりを求めて生きていくことはできない。されど、生きていくためには、どうしても立ちふさがる苦しみに対処しなければならない。

いかなる理由をもってしても、自らの命を絶つ人は、その苦しみに耐えられなかったと思っている。なぜ、苦しみに耐えられないのか、それならいっそのこと死んでしまった方が楽という気持ちになる人は、死ぬ事より苦しみの方が辛いからだろう。確かに事故や戦争で負傷し、体の激痛も麻痺し、「虫の息」状態の人を見れば、楽にしてあげるのが慈悲ではないだろうか。

それを「人道」といっていいかどうかは分らないが、眼下にそういう場面が横たわるなら、人道だの罪だのとそんなことを考えている場合ではない。そのようなものでは解決できないものに人間は遭遇し、断を下す人は強く、見て見ぬフリをして逃げる人こそ卑怯であろう。目の前のある問題を解決しようとしない意味においてズルイ人間も人間であろう。

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どれほどの学問的秀才を誇っても、結局人間は、答のない問題に答を出さなければならず、知識の集積である学問が無価値化の局面は人生に多い。その事は兵士を見れば理解は簡単だ。成績「優」も「劣」も戦場では役に立たない。上官は成績優秀者に突撃を命じないこともない。幸いにして今の日本に戦争はないが、すったもんだの末「安保法案」が衆院を通過した。

参院があるとは言うものの、7月16日午後の法案衆院通過により、参院が60日経過しても議決しない場合に、衆院で再可決できる憲法59条の「60日ルール」が9月14日以降に適用可能となり、同月27日までの今国会での成立が確実である。これで、戦争が近づいたと感じる識者を始めとする多くの国民が怒る。国民の支持を得ぬままに政治が国のカタチを変えようとしている。

とりあえずこの話は後日折りに触れて書くこともあろうが、自分の最大の興味は「この不思議なるや人間」である。生活の中で、右を向いても左を向いても、前を見ても後ろを振り返っても人間である。たまには、犬の散歩に出くわし、ネコちゃんと目線があうこともあるけれど、取立て影響を受けることも、与えることもない種族である。人間は人間を目的とする。

生き甲斐のある人生も大事だが、そのためには人間を知らなければならない。人間を知るためには人間と接して見なければならない。社会では様々な形で人間と触れ合っているが、利害得失が大きなウエイトを占める職場の人間関係が、最も大きな悩みの種であったりする。社会人でない学童期や親のすねかじり段階にあっては、これまた親子の確執が悩みの種となる。

イメージ 3多くの恋人は、互いに相手を理解できず、誤解しあって別離する。夫婦もまた子どもを犠牲にして別離する。親の離婚によって大人の犠牲になったという子どももいれば、毎日諍いばかりの父母にいい加減嫌気がさしてか、「こんなんだったらさっさと離婚してくれないか」と願っていたとの話も聞く。自分の経験し得ない体験所有者は、それこそ貴重な話題を提供してくれる。昨日は、「自己主張」の是非について論じたが、幼少期から母とのバトルもあってか、自分のアイデンティティを死守するために母とは言い争いの日々だった。彼女の強引かつ傲慢な性格にひれ伏していたなら、精神の自己分裂した半病人になるか、自殺をするか、あるいは親を殺していたと思われる。どれも考えると怖ろしいことだが、これらは問題解決からの逃避であろう。

自分もそうであったように、とかく若者は実社会への反抗をしがちである。それは青年が自己のあのアイデンティティ、自己確認のために避けて通れない一事象である。が、ともすると実社会への反抗だけに生き甲斐を感じる青年も生まれる。これが極端になるとアウトロー、反社会人間となるが、若さと言うのは柔軟性を持つことでもある。頑固はむしろ老人であろう。

実社会への順応と反抗とを繰り返すことができるとき、その人は若さを保っているといえる。不良や暴走族という反抗も一時の事象であり、社会に順応なくしてこの世を生きていくことはできない。それが社会の仕組みであるし、社会からあぶれることを誇示する人間も、遅かれ早かれ「順応」の大切さに気づいていく。順応しながらも反抗精神を持つわけで、なんと難しいことか。

「急いては事をし損じる」というのを座右の銘にした時期が合った。それほどに自分は無鉄砲であり、思慮ない行動が多かった。考えるより先に行動をしていたし、昔の言葉でいう、「突貫小僧」と言われていた。年を経ても名残りは山ほどあり、最も嫌いなことは、「待つ」ということ。信号を待つ、レストランでできるのを待つ、ネット注文で商品が届くのを待つのが大嫌い。

美味しい店だからと行列を作る人種など到底理解できないし、それなら少々不味くても速いところで食う。何年立っても腹が立つのは、カップヌードルの3分間。お湯を沸かす時間も含めて約5分は拷問である。「瞬間ヌードル」とかできないんかい。と思うが、人生の価値というのは、あせらず、明るく、粘り強く、前を、後ろを、そして左右を見回し、ゆっくり生きていくことだ。

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これが理念である。反抗精神も未だ消えずだが、順応の大切さも理解している。二宮尊徳がいい事を言っている。「それ人道は水車のごとし。半分は水に従い、半分は流れに逆らい昇りて、運転とどまらず」。人生を現すに、これほどの名言もあるまい。現実に順応するのは大事だが、それだけで夢や理想を実現する努力を忘れるなら、何のための人生哉。

現実を受け入れながらも現実に反抗し、粘り強く己の生き甲斐の確立を求めんとする勇気がないなら、上辺がどんなに素晴らしい生活に見えようとも、味気のない人生であろう。水の流れという現実(実社会・環境)に順応する水車が、見方を変えると無理やり動かされている(逆らっている)ように、尊徳の目には映ったのだろう。ふと「老子」の言葉が浮かぶ。

「上善は水の如し。水はよく万物を利して争わず、衆人の憎む所におる。ゆえに道近し」。老子は最上の善を水に見出した。最上善とは争いを避けて生きていくこと。老子の生きた時代は誰もが、「人よりも上に行こう」、「人を蹴り落としてでも上を目指そう」、そう躍起になって戦っていた。そんな時代に老子は、「人と争わず、常に低いところに留まりなさい。水のように」。

と、生き方の見本として「水」を挙げた。時と場合によるが、現代にも通じる考えである。我が、我も、我こそという光景はいろいろ目にする。時に争うことはあるが、無益な争いはしないし、好まない。己の自尊心はそうやすやすと揺らぐことも、破壊されることもない。幼児に「バカ!」と言われて腹が立つ人間は、自分に自信がないのだろう。幼児ごときにムキになる。

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ファンとか信者たちは、本人からすれば憧れの存在は神の如きだろうが、興味のない他者からみれば、ファンが哀れな存在に見えたりする。口にはしないが、「なんとバカげた事を…」などの狂信的行為を目にするからだ。選挙の投票権欲しさに、AKBのCDを何百枚、何千枚と買って、ゴミ箱に捨てる。以前は、ポケモンカード欲しさにカードだけ取り中身を捨てる。

これはアイデアを考えた人間は企業内では表彰ものだろうが、社会教育に「負」の種を撒いたことになる。なぜこういうことになるのか、なぜ人は無用な争いを避けないのか?これらはいずれも自尊心を満たす、あるいは自尊心を防衛する行為である。バカといわれれば頭にくるが、バカなことを言う人間のために「バカ」という言葉は必要だ。「バカなこというんじゃないよ」と。

自分が発する言葉がバカなことであるのは自分では気づかない。ある事を発した時に相手が「バカな事いうんじゃない」と言われたら、それがバカなこととは限らない。つまり、相手が理解できないバカであるかもしれないからだ。あるいは、自分の考えと違うだけで、「バカな事」と思う者だっている。つまり、「主観的」に見てバカか、「客観的」的にみてバカかであろう。

説明するのが難しいが、幸い今回の事例で検証する。女が短絡的で妄信的で自分の信じることだけが正しく、他人の意見は耳に貸さないというところがよく現れていた。少し話しただけで、「正しいことを理解しよう」の人間か、「自分の主張を押し付けたいだけか」はすぐに判る。他者の発言を無理に納得する必要はないが、オカシイと感じるなら異論をいうべきである。

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異論や反論も言わずに、自己を押し付けようとしても通じない。とにかく、相手から反論されたらそれに対する反論ないし、それがないなら質問をすべきであろう。そうすれば、「この人は理解しようという気があるな」と姿勢が見て取れる。例えばこの文言。「公式にリリースされた映像作品の発言のほうが、信ぴょう性がある」と言った時に、「そんなことはないよ」

と吐き捨てられることはある。これは「公式発言などは所詮は欺瞞」と理解するオトナである。もし、「そんなことはない」と否定されたら質問すべきである。「何でそんなことないの?」と、質問そのものが自分の発言を信じることにもなる。自分がそう思ったから正しいでは、単なる思い込みだ。否定する側はその理由を提示すべきで、否定された側も否定理由を問うべきである。

否定に異論があれば再度自己主張をすればいい。まあ、親切な自分は相手からの質問を省略し、理由を提示して否定する。だから、「結婚式で友人代表が新婦をベタ褒めしているようなもの」と公発言の欺瞞を否定した。これに異議があるなら、「公式発言は真実」を裏付ける反論をする必要があるが、彼女は何かにつけ、反抗したいだけの人のようである。

さらに清水が妻の妊娠中に追っかけに手を出したというソースについて、「巷言われているが、自分は信じてない」といったことに対し、「ご自身が事実と思わない事を、貴方は日記に載せるのですか(・・?」 と噛み付く。事実と思わないといったのは、所詮はネットのガセ情報というより、オフコースというビッグネームのアーチストが、こんなリスクを犯すだろうか?

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その意味で信じなかった。過去、追っかけの女性からとあるアーチストとの性体験を実際に聞いたことがあり、彼女は高校時代のその体験を「金科玉条」の如く大事にしている。いわゆる誇りのように…。だから、ビッグネームのアーチストといえど、レイプまがいでなければ表沙汰になる事もないし、事を行うときに相手の様子など見越して、事に入る用意周到な奴もいる。

そこはともかく、名もないチャライバンドと違ってオフコースの清水にとってはリスクが大き過ぎる。そういう意味だが、「自分が信じないことを書くのか?」はバカげた揚げ足取りで、物を書く場合は、持論、推論、一般論、他者の論などを交えるもので、いろいろ書いた最後に、「でも、自分は信じないけどね」は各論を総合した上でよく見るセリフ。この女、この辺りでウザくなってきた。

だから、優しく説明する気はなく、「そういうバカげた言い方はするな、笑われるぞ」の思いを書いた。彼女も相手の心情を洞察し、無知な自分を自覚し、退出した方が賢明と思えばいいものを、「憶測による暴論が多い」だのとしつこい。だから追い出すためにいい加減バカはやめれ」と言われてしまう。思いは最初も同じだが、とりあえず無難に礼を保って話はする。

が、「仏の顔も三度」というか、話をしたくなくなるからホンネで追い出しにかかる。別に留まって一人気を吐くのはいいが、無視することになる。確かに、幼児的発言が多いが、それはそれで相手の素養の問題で仕方ない。自分も若いころに先輩諸氏によく言われた。「バカなこというな」、「物を知らないにも程がある」、「こんなことも知らんで、よく生きてるな」。

言われるほど悔しさが込み上げてきた。確かに、指摘されたとおりで、知らないことばかりだった。これでは罵られてもバカにされても仕方がない。それからだな、対等に話をするためには、相手に認めてもらうためには、とりあえず知識を吸収するしかない。「こんなことも知らないの?」は猛烈にショックだった。実際自分は、「そんなことも知らなかった」からだ。

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20歳にして、「公定歩合」という言葉を知らない自分が、「公定歩合って何ですか?」と聞いたとき、「そんなことも知らんでよう生きとるな、自分で調べて来い」とバカにされたある人に感謝している。アレが発端だったかも知れない。キツく突き放され、バカにされたことがよかったのだが、考えてみれば高校の社会で習うし、習って忘れるものは多い。

そういうことよりも、年齢に相応しい常識と知っているべきことを、知らない自分が悪い。頭のいい人間は、学校の成績ではなく、確実に向上心がある。キレがいいという頭の良さ、博識という部分の頭の良さ、どちらも頭の良さを誇示するのではなく、それが世間に役に立つものだということだ。従って、生きていく上で役に立たない頭の良さを、自分は頭がいいと思わない。


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