かつて、友人たちとさまざま議論した。加熱したこともあったが、若いということは何かほとばしる力というのか、体に漲るエネルギーが充満していたと思う。なぜあんなに自己主張をするのだろうか?大した知識も素養もない、社会経験もない若者が自身の中にある得体の知れない何かを支えに、"これが正しい!"と夜を徹して話したあれは一体なんだったのだろう。
「自己主張しなさい」という先人もいるし、「自己主張は止めなさい」という人もいる。なぜ人によって違うのかを、当時は性格の相違と考えていた。「自己主張しなきゃダメ」という人は自己主張で成功したのだろう。成功とは栄光とかではなく、プラスに働いたということ。反対に「自己主張はダメ。嫌われるよ」という人は自らの失敗体験か、他人を見ての言葉か。
一体どっちが正しいのか?それはないな。何事も唯一これが正しいという正解がないように、自己主張を是か非か捉えるのは意味はない、正しくない。が、同じテーマでさまざまに言い合ったのを覚えている。あの当時(20代)は、正解があると信じ、自己主張肯定派はその意義やメリットばかりをいい、否定派は当然にして、自己主張のデメリットばかりを主張する。
自分は自己主張否定派の友人にいった。「自己主張を否定するお前が、自己主張はダメと自己主張するのは何だ?」。友人は一瞬困った顔でこう言った。「なるほどな…、言われて気づいたよ。オレは自己主張のターゲットを上司、先輩、目上の人と捉えていたかも。対等なお前たちとは、いつも、こうして自己主張をしてる。今までその事に気づかなかった。」
ちょい面食らったが、彼は何かに気づいたようだ。「自己主張」という言葉は、自己を主張するから、本来は相手構わずするものだろうが、上司や先輩にそれを控えるのは、実は日本人の特質であろう。上司、先輩に自己主張をしないのは、自己主張が時にはよくないとの意識があるからだ。つまり、自己主張していい人と、よくない人を我々は選別している。
何気ない一言で、ふとそういうところに気づき、自己主張の是非という問題から、自己主張の用途(目上、上司、先輩に対して是か非か)に話題が変質した。自己主張をすべきでないといいながら、自己主張するという矛盾になぜ人間は気づかないのか?しかし人間は言う。「この世は矛盾に満ち、我々は社会の矛盾に適応できず悩む」。矛盾は本当に社会に存在するのか?
社会に存在する矛盾とは、実は人間の矛盾である。なぜなら、社会は自然とは異なり、人間によって人為的に作られたもの。つまり、社会を人間が作ったなら、人間は「この世は矛盾している」というべきではないし、矛盾は人間が作ったと解すべきであろう。人間が社会の矛盾を解決しようとするなら、人間の矛盾、自己の矛盾を解決すべきではないか。
「自己主張 するなと言って 自己主張」。思い付きの川柳だが、こういう簡単なことを気づかず、自分勝手に生きている人間そのものの矛盾である。それを指摘して気づいた彼は頭のいい男であって、おそらく程度の悪い人間は指摘しても気づかないだろう。彼は自分の発した一言から、自身のこれまでの生き方、また今後の人生について考えを新たにしたという。
40年以上も前のことだが、このことを思い出したのが一昨日の女性とのやり取りだ。オフコースの熱烈なファンであり、小田、松尾の信者でもあるのは構わない。いきなり、「DVDを観ろ」との高飛車なコメントを見て、業者の宣伝と思った。近年はこの種の意図を隠した宣伝が実に多い。松尾のDVDと言わず、あえて長々しいタイトルを記したことでそのように感じた。
一ファンなら反論を書くだろうし、いきなり「DVDを見ろ」の命令口調で相手が、「ハイ、観て見ます」とでも思っているならバカであり、だから業者の宣伝であると。宣伝は即効削除だが、前者の可能性もあろうかと、1日猶予を与えてみた。今どきの若者は、この程度の非礼コメントくらい平気でするとの含みもあった。その後の書き込みは業者を否定できないが、ファンなのは間違いない。
「プロデューサーの武藤さんが2人のオフコースの才能を脅かす存在になり得ると松尾さんに曲を書かせるの反対されていたのを、若い才能のある人間に書かせるのは必然的と小田さん自身が松尾さんに曲を書くようにと進めていたエピソードを小田さん自身の口から語られる映像が、このDvdには収録されていますよ。」と、この記述には笑ってしまった。
上記は、ファンからみれば涙溢れんばかりの喜び満載の美談であり、そういう事実を知ったことの純粋な気持ちをファン以外の(?)自分に伝えたくてたまらない、そんなありがちなファン心理であったと察する。彼女に罪はないが、世の中の汚さや欺瞞を知る自分にとって、受け入れ難い笑止千万の綺麗ごとである。小田がこんな浮かれた言葉を本当に言ってるのか?
いかに松尾の60年の半生を記念したDVDといえど、ここまでヨイショされると笑えてしまうのが、ファン以外の人間だろう。何度読んでも恥ずかしいが、こういう浪花節的な美談をファンは喜ぶのだろうか?ファンであるのはいいが、ファンとは信者なのか?宗教は信者というが、狂信的なファンを信者ともいう。自分は狂信的でなくとも、ファンは信者と思っている。
◎ファン…好きな者(タレント、番組、球団など)でも悪いと思った所は悪いと言える人
◎信者…好きな者以外を叩くような輩やファンの質を下げようとするような輩
◎ファン…ある人やあるグループを好んで応援する人のこと
◎信者…ある人やあるグループになら命や人生を捧げても構わないと思っている人のこと
◎ファン…常識がある。善悪の区別がつく。対象がなにか悪いことなどをした際、その事実をきちんと受け止められる。
◎信者…常識がない。善悪の区別がつかない。対象が何をしても必ず擁護し、それに異を唱える人を敵と見なし叩く。
◎信者…常識がない。善悪の区別がつかない。対象が何をしても必ず擁護し、それに異を唱える人を敵と見なし叩く。
◎ファン…自分が悪いと思ったことは批判したりする
◎信者…盲目で何があってもカルト的
◎信者…盲目で何があってもカルト的
自分の考えはともかく、世相として捉えられた「ファン」と「信者」は、明確に仕分けされている。自分がオフコースのファンを怒らせるつもりで記事を書いたのではないが、それを見て怒るファンなど知ったことではないし、あえていうなら、ファンとは、信者とは、ファン外の人間の言動に一喜一憂すべきではないだろう。それでこそ真のファンである。
迫害に耐えてこそ真正なる信者である。いろんなファンを見てきたが、ファンたるものはそういうことだ。宗教を押し付ける必要はないように、ファンであるアーチストを押し付ける必要はない。好きなものは好きでいいし、嫌いなものは嫌いでいいし、このブログにも「ファン心理」を幾度か書いたが、ファンでない人を認めるキャパがないファンがいる。
だから、それと同じことを返答した。当の女性は、小田や松尾の口から真実を聞いて知っているし、DVDも観ない人間が何を知っているのだ。と言わんばかり。「口から出る言葉が真実か?」と、大人の応対をしたが伝わらない。その時点で女だと感じた。言葉を間に受けるから、「振り込め詐欺」に合い、ネットで少女が性被外に合う。そういう広い視点を指摘した。そんなことが"オフコース命"の少女に耳に入る言葉ではないが、それも結果論。ハナっから見下げて適当にあしらうことを良しとしない、自分の性癖である。相手にすべきでない人間の見定めも必要だろうが、それをしてこなかった自分ゆえに、様々な説得術が身についた部分もある。どんな人間でも必ず思いを伝えて見せるという意気込みはあった。
それの名残りであろう。少女の言葉は稚拙でで幼児的だが、そういう風に見てしまうと話すのが面倒になる。論破といえば聞こえはいいが、結果的に相手の言い分を潰して怒らせて逃げた女は腐るほどいたし、それらはすべて結果論。そうではない女もいたし、感情的にならずチャンと話せる女もいるし、女がみんな田嶋陽子ではない。だから、結果は気にしない。
木を見て森を見ないからやり込められる。そこに気づかず、視野も狭いなら女は議論に向いていない。幼児と大人が対話をすれば、大人は赤子の手を簡単に捻ることは簡単だ。そういう見下しをせず、キチンと丁寧に話しをし、それで相手が怒ってキレるなら仕方がないが、それも結果論。自身の言い分が通らないとキレる人は、最初からそうと分らない。
自分の言い分が通らないでヒステリー起こす女は幼児期から母親で経験済みで、女はこういうものという認識を得た。そうはいっても、予断や偏見で応対するのは失礼である。最後に怒らすのとハナっから決め付けて応対しないのと、どっちが正しい?これも正解はない。自分の信ずる選択しかあるまい。大人は子どもに腹を立てず、あやすことこそ真の大人という結論にある。
相手がキレるのはいいとしても、同じ線上に降りて不毛な言い合いなどはみっともない。親子では頻繁にあるが、自分は演技でそれをやっていた。子どもの性格を把握し、「もう、お前みたいなバカとは関わらん」という最後通告が効果があるのを知っている。緒戦は親子なんて、馴れ合った同士の戯れであり、母と娘などは見ていて漫才である。男親は本気を見せる必要がある。
よく女と言い合いした後に男が、あるいは我が子と言い合いした後で親が、「こんなんだったら最初から言わなければ良かった。時間の無駄、労力の無駄だった」との言い方をするが、これはオカシな話だ。結論が分かったあとで言える言葉であるのに、終ってみて「最初からすべきでなかった」というのは、何事においてもオカシイ。オカシイから自分はそういう言葉は出ない。
大事なのはプロセスで、それなくして結果は絶対にない。が、「労力の無駄だった」といって、自分を慰める。自分を慰めるなどは弱い人間と思えば、弱い人間になどなりたくない気概が沸く。やってみなければ分らないことを、最初からやらなければよかったなど言うだけ無意味と言い聞かせる。プロセスと労力こそがすべて、結果は副産物だと思えば、人生も変わる。
のっけに友人が、自己主張はしないといいながら自己主張をしてる自分に気づいたように、オフコースファンの少女は、「憶測」を批判しながら憶測ばかり言っている。分らないことだらけの世の中で、どうして憶測なしで生きていけるのかが分らないからいうのだろうが、人間は矛盾した生き物であるからして、こういうお利口さん的発言は、自己矛盾を披露するだけ。
「憶測で物をいうべきでない」という言葉は、キチンと調べて用意周到に発言せよという注意。学者や研究者には必須であろう。誰でもそうありたいが無理だろう。学者や研究者と違って、責任が発生しない我々は、憶測なしに会話はできない。自己主張なしに生きていけない。問題は憶測の素養を高めること。これは「洞察」という能力。自己主張もいいが、実のある事をいわねばバカにされる。
「それはよくない」と批判しながらやるのだから、「それはいけない」という言葉は本当は勇気のいる発言なのに、誰も自分のことは見えていないから簡単に言える。「人のフリ見て我がフリ直せ」というのは、何事もコッソリ直せばいいのであって、人を批判して自分が良くなるわけじゃない。女が最後にはお決まりのように、憤慨し、暴言が出るのは残念である。
議論ができないから人格攻撃で勝とうとするのだろうし、自尊心が傷つかぬよう守るのだろうが、同じ自尊心を守る方法でも、賢い人間は口を閉ざす。バカはくだらないことを吠え捲るから、相手からさらなる強い言葉を発せられ、さらに自尊心を潰される。「沈黙は金」というのは、ボロがでないよう黙っておくのが得ということ。それができないのが女の性かも。
「女は扱いにくい」という言い方をされるが、論理のぶつかり合いの中に参入する以上、論理を磨くしかあるまい。もしくは議論慣れしてないなら、ハナから議論に加わらない方がいい。それなら自尊心が傷つくこともあるまい。オフコースの女性も、適当なところで切り上げておればよかったものを、長居してバカなことをいう事になるから、バカだと思われる。
「昇華するか、退却するか」、どちらもままならぬ扱いにくい女性を扱うのも男の仕事なら、きつくいうしかない。しかるに奥の手である「泣き」が入っても、それを憐れと思わなければ女は指導できる。女性が女性に厳しいのは、「泣き」を許さないからだが、男はなぜ女の涙に弱いのだろうか?女に甘いとも言われるが、前者は心理学的には以下言われている。
男が男を指導するとき泣く男はいないし、泣けば無能扱いされる。「荷物まとめて帰れ!」ということだ。男に理解できる涙と言うのは、「喜怒哀楽」中の範疇で、訓練中に泣くなどあり得ない。男は女の唐突な涙について思考をめぐらすが、理解できない女の涙に困惑する。男にとっては、カタチのない感情を理解することが苦手というか難しいことのようだ。
上の解散コンサートの、「涙・ナミダ」にしてもだが、男は女の涙の理由が分からず、事あるごとに泣く女を次第に面倒と感じ、泣かせないよう気を付けようと思えど、また泣かれるといい加減腹も立ってくる。女が涙を武器にしようとするなら、そのことを理解しておく必要アリだ。中には、しっかり女性の気持ちを察し、傍に寄って見守ってくれたりする男もいるだろう。
それを優しいと感じるのが女だろうが、そこに甘えるようであっては、仕事の効率は見込めない。恋愛ではないし、有能な管理者ならそういう女性はクビにするだろう。そういう女の情緒は、仕事を習得するという姿勢において不向きである。まあ、恋愛の涙もしかり、あまり安売りするのは避けた方がよい。女の涙は「いざ」というときにこそ光るものだ。
ただ、女の涙も人格攻撃も、議論を終了する口実を与えてくれる。そう言ってもいいし、言わなくてもいいし、この女と関わりたくと思うなら黙って去るのがいい。火に油を注いでも得はない。「女たちをしゃべらせるには、さまざまな方法があるが、黙らせるためのものはひとつもない」と言う名言がある。一つあるなら逃げることだ。その場から立ち去ること。
女の武器である「涙」も「人格攻撃」も、男が女から逃げるため都合のよいt口実となる。これが出たら逃げるサイン。女の武器を武器として使用させないのが賢明だ。「うるさい、黙れ!まともなこと言わないなら帰るぞ!」とか、「いじめてるわけじゃないのに、勝手に泣くなよな~」などは腹黒女への対抗策だ。美しい涙と腹黒涙の見分けがつけば、免許皆伝だろ。