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傷ついた ②

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他人を喜ばせたり、いい気持ちにさせるのは自分も気分がいい。他人を傷つけるなど考えたこともないし、傷つけて得るものはない。だからと言って、他人を傷つけないように気を使いながら、配慮しながら話をするのは随分思いあがったことではないか?失礼なことであろう。なぜなら、自分が他者から傷つかないよう気を使われたらいい気分ではない。

hanshirouさんを傷つけたら可哀想だし…」、そんな配慮や、会話で気を使うなどと思われたらこっちだって面白くない。もし、親しい人がそのような感じであったなら、「そんな気を使わんでいいよ、別に傷つかないから」と言わなきゃ、勝手に配慮されても迷惑だ。このように、真相がわかれば相手をあざむいているし、無用な配慮、無用な同情は無意識に相手を見下している。

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人は人とフラットな気持ちで接するのが自然ではないか。人間は強い心を授かると、他人に冷淡になれるのだ。別に相手に媚び諂うこともなく、一人で生きていけるようになると、他人に冷たく接することができるようになる。冷淡とか、冷たくとは、温かい人に比べて無慈悲に聞こえるが、世俗的な意味で言っているのであり、他人にも厳しくなれるということ。

他人には優しく、温かくは、道徳というより性格であろう。様々な境遇や家庭環境から自然に身に付くものだと思っている。小学校は「人に優しく、親切に、困っている人みたら助けよう」を道徳として教えるが、教えて身につくものではないし、かといって「人に冷たく、親切なんかしてはいけない、困ってる人は見捨てよう」という標語もなければそのように教えない。

人間社会には様々な道徳がある。他人に親切にしなさい、困った人を助けよう、約束は守ろう、信頼を裏切らない、嘘をつかない、浮気をしてはいけない、人を殺してはいけない、これらは道徳として教わり、身につける。道徳だから守るべきといっても、それだけでは守れないもので、そこには守るべき根拠があれば、それについて思考し、考察もできる。

規則だから守れ、校則だから守れといわれても、その根拠を問うと答えられなかったりする。そういう場合には、権威で「規則は守れ」とするしかない。何を根拠に人を殺してはいけないのか?何を根拠に人に親切にすべきなのか?何を根拠に浮気をしてはいけないのか?何を根拠に嘘をついてはいけないのか…。答えられない人は多いし、答もまばらであろう。

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最も優等生的な答は、「秩序を守るために」ではないだろうか。こういわれて「君は賢い、その通り!」と答えてもいいが、本当に頭が良いと感じる相手なら、さらに突っ込みを入れるべきだ。「秩序を守るためというけれど、人間社会の秩序っていうのはいくらでもあるだろう?キリスト教社会の秩序、イスラム教社会の秩序、未開社会にも秩序はあるはずだ。

如何に混乱する社会にだって秩序はあったろうし、それらはすべて同じではないだろう?」。根拠を「秩序」と答えればこのようなことも思考しなければならない。したがって、簡単なことは難しくせず、簡単に考える方がよい場合が多い。上記したさまざまな根拠は、単に自分がそうされたくないということではないか。殺されたくない、浮気されたくない、裏切られたくない、嘘を吐かれたくない。

これらのことは同時に他人にしてはならないということ。それが道徳である。あるいは自分が、「他人からこうしてもらいたい」ことがあるとすると、それが、「他人にはこうすべきだ」ということになる。それが道徳である。期待の期待こそ、規範意識の根元に他ならない。例えば女性に聞いてみるといい。「何で浮気をしてはダメなんだ?」。こういう答が返るだろう。

「じゃあ、あなたは自分の恋人が浮気してもいいわけ?」。これが人間の道徳である。「人間の欲求を規制する社会規範それ自体もまた、究極的には、人間の現実的な欲求に根をもっており、欲求から活力を引き出している。」(見田宗介『価値意識の理論 - 欲望と道徳の社会学』。規範意識と欲求が相反していながら実は同じというのは、人間存在の矛盾である。


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そういえば見田の長男竜介は漫画家である。漫画音痴の自分はよく知らないが『ドラゴンハーフ』が代表作、他にも成人漫画を本業とする。弟の航介も漫画家・イラストレーターである。祖父は京都帝大卒でヘーゲル研究者として名高い哲学者の見田石介である。父の宗介も東大名誉教授で社会学者だから、華麗で錚々たる家系からエロ漫画家というのもユニークである。

宗介の、「期待の期待こそ規範意識」という考えによるのかも知れない。他人に期待しない者だけが自由に生きていく権利を持つ。つまり、「私が浮気をしないんだからあなたもしてはいけない」、これが規範意識の根源であるということ。そういう規範意識に殉じているから、夫が浮気をすると許せない。が、夫に内緒で浮気をしている妻にあって、もし夫の浮気がバレたら妻は?

怒るのか許すのか、そこは分らないが、理論的には許さなければいけない。夫に「浮気厳禁」と言いながら自分は浮気をするのは非道徳である。浮気という不道徳な行為をする以上、夫にも認めるべきだが、夫の浮気が露呈した場合に烈火のごとく怒る妻を知っている。「可笑しくない?」とチャチ入れると、「当たり前でしょ!私は貞淑な妻ってなってんだから…」と言う。

「腹黒女」と思えばどうってことはないし。まあ、いろんな考え方はあるが、バレたことが悪いと自分は思うから、彼女の言い分を理解した。バレたらバレたなりの対処をすればいいことだ。事実は露呈しなければ事実と認定されないの法則によるし、人間なんてのは、そんなに清く正しい生き物ではないんだし。悪事はするな、ではなくバレないようにすべしであろう。

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大事なことは、バレて言い訳をしないで罪に服す。いかなる仕打ちやいかなる暴言にも耐える覚悟ならいいんじゃないかと。道徳や倫理はともかく、法を破って言い訳はないんだし…。誰だって自分の期待に添わない相手の行為は、非好意的といえるし、それらから人は他人の期待を先取りするようになる。そういう個々の要求が社会一般の要求となる。

それが道徳とか倫理というもの。個人が破るのは個人の責任において自由でも、相手(世間や他人)の要求から外れている、そのことは認めざるを得ない。昨今はスポーツ選手やミュージシャンのtattooがいろいろ言われているが、「ワシの勝手じゃ」といっても、様々なポジション内での規正を強いられる。浮気だって男内では、「上手くやってるな、羨ましい」となる。

近年は女同士でも、「いいわね~、羨ましい」といわれたりするらしい。女が「守る」時代からより積極的に自己を生きる時代になったということだ。そういう点から見れば、道徳なんてのは所詮は自立できない人間の弱さを表しているという見方もできるし、それ自体が決してイイモノだとはお世辞にも言えないにしろ、道徳を守ることで自己満足感に浸る良識派人間もいる。

良識派は例外として、「道徳」の基本は守るべきものというより、自分が弱いから、自立できないから、仕方なく従っているに過ぎない。あらゆる決め事というのは、得てしてそういうものではないか。それプラス他人の批評が怖いからの部分もある。他人は世間であり、世間とは他人のことを言う。「良心」や「善意」でさえも、その実は自身のエゴイズムかも知れないのだ。

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よく見る会社のスローガンに、「私たちは世のため、人のために尽くします」というのがある。自分が出来ないことを介護や介助という形で奉仕したり、人の欲しがるものを作って売るのも、料理や食事を提供するのも、スポーツで美技を披露するのも、すべては世のため人のためで、その事に嘘はない。ただ一つ、「自分のため」というのを省略しているだけだ。

「世のため、人のため、会社の発展のため」とする企業もあり、そちらの方が正直だと自分はみる。どの言葉もあえて書かずとも当たり前のことだが、スローガンとはそうしたもので、企業や団体の理念や、運動の目的を、簡潔に言い表した覚えやすい句・標語・モットーのこと。スローガンは「社訓」、「社是」ともいい、社員以外はあまり知られていないものが多い。

日清食品…「決断なき上司は無能と思え。社長へ直訴せよ」

ワタミ…「地球上で一番たくさんの“ありがとう”を集めるグループになろう」

楽天…「スピード!スピード!スピード!」

グリコ…「創る・楽しむ・わくわくさせる」

ヤマトホールディングス…「ヤマトは我なり」

電通…「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは…」

吉本興業…「修羅場で君は光っているか?君の価値はここで決まる」

雪国まいたけ…「私たちはできない理由は探しません。できる理由を探します」

ラーメン二郎…「ニンニク入れますか?」

イメージ 6人生相談や数々の著書でお馴染みの加藤諦三氏は、このような履歴を記している。「私は親から、加藤家を再興できるのはお前しかいないと聞かされている。祖父は貴族院議員であったり、当時二大政党の一つであった民政党の最高顧問をしていたり、大学の総長をしていたりということで、家の者達は自分達が名門の出のつもりでいた。世間がどう見ていたかは別である。
そして祖父が本当に言ったかどうかは疑問であるが、孫の中で私だけがきわめて優れて祖父のあとを継げる人間だといったと、親から聞いた。祖父がそんなことをいうはずがないと思う。ただ私の親が、そのように私に言うことによって、私をいよいよ縛ろうとしたのだと思っている。そのように育った私には、自分の存在そのものが相手を満足させるなど夢にさえ思わなかった。

しかし、いろいろな勉強をしていくうちに、そのような愛というものがあり、そのような愛によってこそ人間は情緒的に成熟していかれる、とわかったてきた。人間の自我形成にとって、そのような愛こそが必要なのだとわかったのは、青年期も終わってからであった。私にとっては、周囲の期待に叶うことだけが受け入れられる道であり、しかも周囲の期待は強かった。

他人を傷つけたくない。私はそのために随分苦しい思いを自分に課した。それは私が傷つきやすいからである。だから自分が傷ついた時のあの気持ちを、いま同じように他人が味わうと思うと、たまらなかったのである。」誰でも傷つくのは嫌であるが、傷つくことよりも、傷つくことを怖れるあまりに、周到になりすぎて行動をしない人間は多いようだ。

自分はそれが無かった。傷つくのはいつも傷ついたあとだった。誰も行為する前から傷つくなど思っても見ないし、行為の結果として傷つくのである。ひどく傷ついて行為自体を怖れる人間もいるが、行為の結果失敗に終わって傷つくのは仕方のない事だと思っていた。それより行為自体を楽しんだ。楽しむ極意とはこういう事だ。「報われる努力もある、報われない努力もある。」

こう考える人生は楽しく生きられる。「努力は人を裏ぎらない」という書物が多いのは、売るためには当たり前である。「努力が実らないことはある」は、あまりに当たり前すぎて買って読む価値はないし、「努力は必ず実る」の方が、興味を持てる。書籍のタイトルは極端な方が人目を引く。それより、「ああなったらどうしよう」、という予防線を張らないこと。

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結果という打算より、行動そのものを楽しむ方が様々な経験が得れる。経験はまた人間を広げる。柔軟にする。幾度の失敗という苦痛より、その場その場の目新しさが楽しませてくれるし、多くの経験をした人間でないと得られない素養やノウハウが身につく。無意義な経験というのはない程に、経験そのものに意義がある。人間の差は読書ではなく経験の差であろう。

ある事をやらないでいて失敗しないのと、ある事をやって失敗して傷つくこととどっちが大事かは言うまでもないが、では、どっちを選ぶかといえば別れるところだ。経験をたくさん持った人間は、やるか、やらないかを思考するという事もあるが、それ以上に気づいたらもう動いていたという人間であろう。そういう人間は失敗を怖れない、傷つくことを怖れない。

といえば聞こえはいい、カッコもいいが、自分に関してはとにかく、動くこと、つまり行為そのものが楽しみであり、喜びであった。若いとき、自分の行動主義をある真面目男に進言したら、「動くよりじっとしてるのが楽しい」と言った。「じっとしてるのが楽しいって、老人じゃあるめえし、それが詭弁だと気づいてないだけだろ?失敗を怖れてるんだよ」と言い返した。

じっとしてるのが楽しいという事は、瞑想等のケースもあるし否定はしないが、「今の時代、飢え死にすることはないからな、何を失ったところで生きていけるよ」と言った時に、「そうだな、そうかもしれない。そこは考えなかったし、怖いところだった」と反転し、共感を得たのには驚いた。すべてを失ってゼロから生きた人は多い。かつて日本も焦土から立ち直った。

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神戸地震も東北地震の後も、まがりなりにも頑張って生きてる。崩壊と蘇生の歴史の連続の中で、究極的に人間は蘇生である。先人の生きるパワーには脱帽させられる。我々はその一翼を担い、後人にそれを伝授しているのか、どうなのか…。それには若い人たちの逞しい生き方を見届けなければならない。が、先人の伝言は、以下の言い古された言葉しか見当たらない。

「傷つくそのことよりも、傷つくことを怖れぬこと」。命運を握るのは自分しかいない。他人の意志に従う意味はない。自らの意志に委ねるだけだ。しかも、結果に不安やおそれを抱いて行動しないよりは、案ずるなかれ、すべてはやってみるまで分らない。努力の必要性もあるが、上に記したように、「実らぬ努力もあるんだ」と、考えることが人生を楽しくしてくれる。


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