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傷ついた

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「傷ついた」と言われることが多かった。「傷ついた」と言われたら「傷つけた」ことになるんだろう。これは原因と結果の法則によるのだろうか?以前から相手が、「傷ついた」と言われたときの対処は悩みの種だった。以前といっても10代、20代あたりで、その辺りの年代は自分も相手も若い(=子ども)とみれるし、「傷ついた」と言われるとこちらも悩む。

傷ついても口に出さない奴もいるし、それで自分の心の中でやりくりしてなんとか解消しようとする奴と、内に入れたままずっと根に持っている奴がいる。「傷ついた~」とすぐに言葉にする奴は、本当に傷ついたというより、相手の言動にちょっとばかし不満をいいたいという、一種のクレームのような感じだろう。黙って根に持っている奴は随分後になって言ったりする。

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態度が変わる奴もいるし、分らない奴もいる。自己防御反応から言い返す奴もいるし、急に言葉を発しなくなる奴もいる。これらは傷ついたことに対する怒りの表明だろう。どちらも怒り加減は伝わって来るが、表情にも出さず、押し黙った人間は傷ついたことを隠そうとするのか、あるいは怒り感情を表さないように訓練しているからなのか、その辺が分らない。

「傷ついた」という言葉は女性に結構多用されるが、男はあまり言わない。最近の若い子は言うかも知れないが、昭和20年代~40年代の古い世代人から聞くことはない。自分もこんな言葉は一度も言った事がないし、同年代男女から「傷ついた」の言葉を耳にした記憶がない。記憶にあるのは昭和48年生まれの女が、22~23歳当時によく言ってたのが思い出される。

露骨な物言い(自分的には普通なのだが)をしたときに、「傷ついた~」と返すのだが、その言い方は可愛いしぐさにみえた。どの程度傷つき、それをどの程度カバーしてるのかは本人以外には分らないが、ハッキリ「傷ついた~」というのは、「もぉ、なによ」、「ひっどぉーい」、「きっつーい」、「言いすぎだよ~」などの言葉と同じ風にとれた。

東京に行った当時、東京生まれの女が「あら、ずいぶんじゃない?」という言葉をいわれて、そのあまりの品のよさに感動してしまった。こんな日本語があるんだと、カルチャーショックを抱いた言葉である。「失礼なこというわね~」、「よくいうわね~」、「こまっちゃう」、「ご機嫌いかが?」、「そんでもってさ~」、なども異次元空間な言葉だった。

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いまでこそ東京ギャルは、「うちね~」、「うちら…」というけど、当時の東京少女は、「わたし」をもじった「あたし」、「あたい」と、一人称はこの3つ以外にはなかった。「うち」は関西圏~中国地方(東海、中部は知らない)の言い方だった。それが今や、「うち」、「うちら」は標準語である。コラムニスト中森明夫は当時のコギャルを、「ウチラー」と名づけた。

東京の人の多さには驚くよりなかった。が、それでも人間の交友範囲なんてのは、自分の周辺のわずかばかりの人間と限られていた。どんなに人の多い都会でも、猫や牛も人口に数えなければ示しのつかない過疎地でも、日常の人間の交友範囲自体はそうそう変わらない。都会の人の多さは、関係のない人がわんさかいるということだ。それが今やネット社会である。

インターネット原初期は、パソコンに習熟した人たちがアクセスをし、コミュニケーション・チャンネルを広げていたに過ぎない。それでも交友範囲拡大し、日本全国あるいは世界と瞬時につながった。初期のパソコン通信のネットフォーラムには、毎夜多くの人間がたむろし、いわゆる異業種交流に花を咲かせていたが、異性の出会い系専門サイトはなかった。

フォーラムに異性を求めてくる男は当時もいて、部屋にぽつんといる住人のハンドルネームを見ては「男?女?」と聞き、男なら退室する人間も多かった。ネットというのは原初期から、リアルで女性に縁のない男の棲家的様相を示していた。人が集まるという事なら、商売になる。それも異性相手ならなおさら、という商売根性が出会い系サイトを生んだ。


集団で会話をするチャットフォーラムは廃れ、2ショット・チャットとして2名専用に移行したのも必然の流れである。そうした頃にはパソコン普及率も5割を超え、また、親のパソコンを鬼の居ぬ間にコッソリ使う高校生が増え始めた。高校生は中学生⇒小学生へと低年齢化し、そうして携帯電話が電話以外の用途を持ち、個人がパソコンを持ち歩ける時代になった。

社会学者の宮台真司が、『朝日新聞』文化面に、「ブルセラショップの女子高生」を書いたのが1993年である。以降3年間に雑誌や新聞に執筆した膨大な量の原稿をまとめ、『世紀末の作法』として単行本化したのである。宮台は社会学の一環として東京都下町田市近辺のテレクラをフィールド調査をしていた。町田にテレクラが出来たのが1986年(昭和61年)である。

当初から女子高生の売春多しと雑誌にも掲載され、それをカモにした不良男にやり逃げされたり、待ち伏せていた仲間に輪姦されたりの被害が多かった。正当な料金を払って女子高生にあやかる紳士(?)なおじさまだけとは限らないリスクは、嫌が応でも発生し、それを警察沙汰にできない(親の知るところとなる)というのが、女子高校生の弱みでもあった。

見知らぬ男に一人でマネージメントをする危険さからして、純朴なるオヤジは優良顧客であり、不良たちとの被害に出あっても、優良客頼みに彼女たちはせっせと時給3万円のバイトに勤しむ。「穴」一つで稼げる女のコズルさが、早い時期から合理的な仕事に開眼、オヤジをカモり、戦略的に振舞う彼女らにとってのオヤジという存在は、汚れきった卑しき大人の象徴である。

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ホストクラブのイケメンが、脂肪をまとったおバカな有閑マダムにお世辞を吐きまくって金を出させるように、自分の父親の年齢とたがわぬオヤジの加齢臭や、サービス精神のつもりかくだらぬオヤジギャグに愛想笑いをしながら虚無な時間を耐えしのぐ。汚れた大人と承知の上であっても、あるいは自らは汚れた存在を認めつつも、世界を受容していたわけではない。

世界を拒絶することを知らなかった少女は、世界の汚れにまみれることで自らの存在に動揺はするが、彼女たちはプロのソープ嬢や売春婦とはちがって、そうい世界のみに浸透されないイノセントな存在である。確かに一部は全体ではないが、「一事が万事」という自己教育力が希薄なのだ。「一事が万事」とは、一つの物事から他のすべてのことを推し量ることができる。

そういう戒め言葉であろう。「ちょっとくらいならいいではないか」が人間の弱さ、ズルさだが、ちょっとが深みにはまって行く事を人間は気づいていない。それを誰も教えてはくれない。「一事が万事」はそこに気づかせ、自制心を煽る教育的指導用語である。しかしながら、諺や慣用句は言葉自体は残酷でもある。たった一度の失敗で、お前の人生は終わりだ。

「一事が万事」はそういう意味にもなるが、ポジティブに生きる人は、ネガティブな言葉を蹴散らす人でもある。そういうときには、「七転び八起き」という言葉を浮かべる。あるいは、「失敗は成功のもと」でもいいし、諺や慣用句を都合よく自己正当化に持ち出す人、あくまで自己啓発の一環として利用する人、こういった人間の差、は人生の差として現れるであろう。

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都合のいいように考えたくなる時、言葉で自分を偽ろうとする時、「言語は考えを隠すために与えられた」というマラグリダ神父の言葉が浮かぶ。これをどう受け取るかでも変わってくる。「人間はそういう物なんだから仕方ない」ととるか、「そういう物であるなら反発してみせる」ととるか。間違いを間違いと、醜いことは醜いと認めるのは勇気がいることだ。

が、それ以上に醜いことを美しいと思い込もうとする人間がいる。本人は気づいてないのだろうが、それを欺瞞という。誰でも事実を認めることは傷つく。が、そういう場合に傷つくのはむしろ大事である。傷つきたくないから事実認めない、認めようとしない。それで焦燥感が生まれ、自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそ悪を善と思い込めばいいなどの欺瞞に転換する。

人が自らを傷つける時、事実を認めるときであろう。「他人から傷つけられるのと、自分で自分を傷つけるのとどっちが辛いか?」そういう議論をいろんな人とした事がある。そこで自分が導いた答は、「自分が自分を傷つけるのはまだしも、他人を傷つける必要がどこにある?」であった。喧嘩なら相手を傷つけることで勝利するし、それが、喧嘩の王道である。

問題は、傷つける気はないのに相手が傷ついた場合である。それでも謝る必要があるのか?その場合の対処を考えたことがある。謝る本質は自分に非があるからで、相手から勝手に加害者とされ、何で謝らなければならない?謝るのが嫌ではないが、「ごめんなさい」を心無くいうのはバカげている。そんな謝罪に何の意味があろうか?そういう結論でしかない。

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謝る時は自分が悪いと思って謝りたいし、謝罪は気持ちであって言葉ではないのだと。謝罪言葉をいえば一応は謝罪になるが、「一応」は好きじゃない。"他人を傷つけて何の得もない"という気持ちがあれば、人を傷つけることなどしないはずだ。それなのに相手は傷ついたというのは、いかにもお前に傷つけられたと言わんばかりである。そんなバカな…

キツイこと言われた。と相手がいったら「キツイ」言葉になるのか?そのように傷ついてみせたり、相手を非難する奴は多いが、一体どちらが悪いのか?「ヒドイ事いうね~」と言った時点で、言った相手が悪者になるのだろうが、自分はこれを認めない。相手の立場になればそうなのだろうが、問題はそういう言葉を発した側が、本当にヒドイのかどうなのか?

それを互いが検証すべきであろう。が、これは難しい。同じ事をAとBに言って、Aは傷つきBは何でもない。ただ、物には言い方があり、その言い方が礼を逸したというなら、それはそういう言い方をするのがよくない。「物は言いよう」とは、直接的な言い方をせず、あえて回りくどくいうことで印象が変わるという意味。「物は言い方」は少しニュアンスが違う。

「お前はバカか!」と「あなたはあんまり物事を考えませんね」は、言葉は違うが(自分的には)同じ意味だ。前者のように言ったり、後者のような言い方も人によって変える。例えばガム一個万引きした奴に、「いい年して何やってんだ?ガムくらい買えよ。お金持ってんだろ?」と言ったら相手は逆上し、「ガム一個くらいでそんな言い方するのか?」と返す。


判断が分かれるだろうが、上の補導員は言い過ぎか?ガム一個でドロボウ呼ばわりは間違い?自分の考えは、ガム一個だろうが、本10冊だろうが同じ事。理由は盗む人の満足感の問題であり、銀行強盗は1万円では満足できないから100万円を盗み、ガム一個で満足するから万引きする。被害額ではなく行為の問題で、上のバイトは頭がいい、社会に有益な人間だ。

「腕一本切り落とされたくらいで文句いうなよ。命を取ったわけではあるまいてな言い方もあるまい。傷害も殺人も犯罪行為である。蹴り飛ばしたも、頭をポカリとやったも、やった側が「殺したわけではないだろう」と自己正当化をできることではない。つまり、悪事をした以上、それをどのような言い方で咎められても、反論はできない。それが言い訳を禁ずる意味において同じ。

「たかがガム一個だろう」、「命まで取ったわけではないだろう」は悪事をした者の愚かないいわけであり、言われるのが嫌なら悪事をするな。する以上は何を言われても仕方ないという覚悟を持て、これが自分の悪事に対する考えであって、この場でも何度もいっている。人間は悪事をするんだし、する以上はするときの心構えでやる。言い訳するくらいなら悪事をするな。

分かりやすいが、人間に言い訳をいわせたらキリがないし、面倒くさいし、聞いてはいられないような幼児の言い訳など、平気でするのが人間。「ガム一個くらいでガタガタいうなよ」という奴は、「ガム一個万引きするようなセコ野郎が、大口垂れる資格はないんだよ!」と言いたい自分である。セコイ自分を棚にあげ、「ガタガタ抜かすな!」の強弁など笑わせるなである

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ガム一個くらいに即した言い方があるのか、ないのか、そんなことよりも、万引きをした人間は、その人にとって必要な真実を受け入れ、であるからこそ自身の糧となり、成長もし、昇華もできるのだ。自分の身内、あるいは味方が自分にくれる称賛よりも、敵が放つ毒矢の方が良き薬になるように…。人には育った環境もあり、そこから派生した性格というものがある。

いろいろ見てき、いろいろ体験してきていえることは、相手の言葉を(善意であっても)悪意にとったり、傷つける意図などないにも関わらず(本人にはそれが判らないし(判らないからといって自身の判断が正しいわけでもないが…)、傷ついたとか、上目線などと批判的に感じるひとは、上に記したような自己向上心のない人が多い。余裕すらなく目一杯で生きている。

人が自分を潰そうと企んでいるなど、自分以外の人間は敵意識が強いのだろう。言い換えると自己愛が強いか、いじめ体験などを受けた反動か、いろいろいな要素があると感じる。仲間以外はみな風景にすぎないという虚無性、今世界や周囲への無関心、かつての不良少女とは異質の無目的不良な少女や少年は、無目的な犯罪を行う怖さを秘めている。

目的には動機があるが、無目的殺人の怖さは、常人の動機がない点にある。一般の殺人動機の多くは人間関係のもつれからつい、カッとなって殺してしまった。あるいは、金目当ての殺人などもある。これらは理解できる動機だが、長崎高1女子殺人の犯行動機として、「人を殺してみたかった」、「解剖してみたかった」というのは、一般の人の理解を超えている。

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彼女にとっての動機といえ、常人には病理である。そういう動機は世の中の動機と乖離する。キチガイは檻の中に押し込めておくのが、世間の治安を守ることでもある。13日、加害者少女は医療少年院送致が決定した。平井健一郎裁判長は、「刑罰による(再犯)抑止は効果がない。少女の特性に応じた長期間の矯正教育と医療支援で、矯正の可能性は残されている。

快楽殺人であり、残虐さや非人間性には戦慄を禁じ得ない」と指摘する一方、少女がいまだに殺人欲求を抱き続けているとしながらも「謝罪の言葉を述べるなど変化の兆しはみられる」と述べた。被害遺族は少女の更生をクビ長くして待つ日々を送る。酒鬼薔薇こと少年Aと同じ処置である。少年Aは贖罪していない。長崎の少女は、どうであろうか…



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