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「腹黒男」と「かまとと女」

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というタイトルになった。なったのはいいが、「腹黒女とボクちゃん男」のタイトルに比べて書くべく中身に自信がない。その理由は、「腹黒男」といわれるような男も、おそらくこの世にいるのだろうが、これといって思い当たるほどの腹黒男の宛てがない。男には腹黒が少ないと思う理由は、性格にそれほど表裏がないというのが、男の共通イメージだからだ。

「腹黒女」という種は、多かれ少なかれすべての女に共通するイメージであり、という事は女性は性格に表裏があるという意味でか?それもあるが、体験談として具体的に言葉にするのは難しいところもある。それなら「腹黒女」の世間的イメージを問うてみる。男が抽出した「腹黒いなと思う女の特徴のベスト10」というのがあったのでそれに習うか。自分の考えはその後で…

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 ・第1位/「異性と同性の前では性格が豹変する」…32.4%
 ・第2位/「自分に得になる人しか友だちにならない」…23.8%
 ・第3位/「ウワサ話が好き」…22.9%
 ・第3位/「男性の前ではか弱いふり」…22.9%
 ・第5位/「男性に奢ってもらったり貢いでもらうのが当たり前」…21.9%
 ・第5位/「面倒なことは人に押しつける」…21.9%
 ・第7位/「彼氏がいることを隠している」…20.9%
 ・第8位/「同性の友だちが少ない」…16.2%
 ・第8位/「人の成功をねたむ」…16.2%
 ・第8位/「ぶりっこ」…16.2%

ということだが、これが世間でいうところの女の腹黒さのようだ。しかし、「腹黒い」という意味を正確に言えるのか?分かっているのか?上にあげた項目でいいのか?自分の思う「腹黒い」は、一言でいうと「虎視眈々」という言葉が近い。「虎視眈々」は読んで字の如く、虎が獲物を狙って鋭い目でじっと見下ろすように、機会を狙って状況を伺うさま。

厳密には女の腹黒と「虎視眈々」は違うが、もうちょい具体的にいうと、女はやはり様子を伺うようであり、相手の情勢を見ながらそれに対応・適応しようとする。具体的な例はたくさんあるが、自分の主体的な愛情は隠し、相手の愛情の量によって対処(加減を含む)をするところがある。そうではなくて、相手云々お構いなしに、自身の愛情を披露する女に「腹黒さ」を感じない。

自分が指摘したような、「腹黒女」は、指摘できるという意味でバレバレである。本来は隠そうとするところだが、確かに20代、30代では見抜けなかった事でも、やはり数をこなせば見えてくる。本質が見えるというより、先にあげた相手の対応でトコロを変えないような、捨て身でひたむきな情愛を見せる女との違いから腹黒さが見え、それを自分は「腹黒女」としている。

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本質が見えない場合は、違いで見分ければいい。いろいろな機微があるから、言葉や文字にはできないところもあるが、「腹黒」のイメージは主体性を隠し、相手の動向に適応しようというところであろう。哺乳類や鳥類などの「野生の王国」的な番組を見ていても、メスはオスの動向に適応しようとする部分は多く、人間のメスも本能的なものかも知れない。

が、本能が破壊傾向にある人間においては、やはり「思考」の部分が強いのかも。「後出しじゃんけん」はズルイの代表だが、保守性の強い女は、後出しじゃんけんが好きなんだと思っている。それが出来ないから、それに変わる何かで先走らないようするようだ。先走りな男、おっちょこちょい男。一番槍の栄誉もそうだが、「先んずれば人を制す」的な男の性向であろう。

そこが男の幼児性、娯楽性といえるかも。幼児が遊びが好きなように、男はいくつになっても遊び心を絶やさない。浅田彰の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房:1984年)が懐かしいが、スキゾとはスキゾフレニア。スキゾキッズとは、子どものようにすぐ気が散る、よそ見する、より道する。浅田は人間をスキゾ型とパラノイア型に二分した。

スキゾフレニー(分裂型)…そのつど時点ゼロで微分=差異化しているような、いわば≪逃げるヒト≫「コイツは何かあったら逃げる。踏み留まったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけである。」

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パラノイア(偏執型)…過去のすべてを積分=統合化して背負っているような、いわば≪住むヒト≫「一家を構え、そこを核とし、テリトリーの拡大を図る。家財を蓄積し、妻を性的に独占し、子供の尻を叩いて一家の発展を目指す。このゲームは途中で降りたら負け。これは一種のビョーキだが、近代文明というものはこうしたパラノ・ドライヴによって成長してきた。」

なぜこの話を出したかといえば、傾向的に男はスキゾ、女はパラノである。パラノイアとは偏執と訳すが、誇大妄想・被害妄想がその根底にあり、何かに異常な拘りや執着が見られる状態をいうが、前提にあるのは自己愛、自己中心的思考。自分の意に反するものがあることが許せない。自分の狭い価値体系を絶対的なものとし、それに反するものが許せないという事。

幼児期から世間知らずでありながら、プライドだけはいっちょ前に高いなどの特徴がある。基本的にパラノイアになる人は、自己を他者に承認された経験が少なく、自分の脆弱さ、自信のなさを隠すために、たった一つの価値に凝り固まろうとする。いわゆるオタク系が想起される。己の無知を知らないパラノイアは、強き者には向けられず、弱者へ向けられる。

脳科学によると男女の違いは脳の違いとされる。男はシステム脳になりやすいという。男の子と女の子を比べるとわかるが、男の子はおもちゃがどうできているのか分解し、仕組みを知ろうとするなど、何につけてもシステムを知ろうとする。女性は共感脳になりがちといわれる。女の子は決して人形を分解したりはしないし、綺麗に着飾って抱っこする。

イメージ 4男性のように理論で物事を判断するのが苦手で、直感でイメージして判断していくようだ。本来的に男がスキゾ的であるのはわかるし、スキゾ的に生きられるのが男冥利かもしれない。浅田はスキゾを勧めているが、『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』は、30年前に京都大学人文科学研究所の助手時代に書かれた著書。「知のアイドル」といわれた彼も、今は58歳のおっさんである。

「腹黒」に話を戻そう。上にあげた男が指摘する「腹黒女」の項目だが、男にこのように指摘されるということは、本来は男に見せていないつもりなのに、実はバレているということになる。こんなにバレるような項目ならそれほど「腹黒」といえるのかどうか。バレない行為こそ「腹黒」の真髄であろう。バレてしまっては効果がないとはいわないが、バカな男もいるからいいとする。

2位も3位も、その他の項目を見ても自分的には腹黒女というより、共通する性向に思える。噂話好きも、男の前で弱いフリも、男に驕らせたいも、面倒なことを押し付ける、あるいは面倒から逃げる、人を妬むも、こんなのは女的に腹黒という事でもない普通のことだが、中にはそういう傾向のない女もいて、それと比較すれば腹黒に思えるんだろう。して、最後のぶりっ子…

表題の「かまとと」を近年の言葉で「ぶりっ子」といっているようだ。だいたい同じ意味だが、「かまとと」は「知らないふりをする」ことに強調され、「ぶりっ子」は、「いい子ぶりっ子」の省略形で、「いい子ぶる」、「可愛いふりをする」、「上品ぶる」であろう。知らないふりをする=いい子ぶると言えないこともなく、同義語でいいのではないか。

ただし、かまととは死語になりつつあるし、「ぶりっ子」の方が直接的で意味が分かりやすいからであろう。そもそも「かまとと」の語源は諸説あって、「かま」は蒲鉾(かまぼこ)のこと、「とと」は魚のこと。蒲鉾は魚から出来るというのを知っているのに、姿・形は魚に見えないことから、「蒲鉾っておとと(魚)でしょう?」と知らぬフリをすること。

「猫をかぶる」も、主に男の前で無知なフリをして甘える、非力のフリをする、わざとらしい女らしさ(愛らしさ、可愛らしさ)のアピールをする、とすれば、これも同じ意味だが、「かまとと」も「猫をかぶる」も言葉自体に意味は見えないゆえに、「ぶりっ子」に限定されていくだろう。近年はやたら直接言葉が使用され、昔情緒ある言葉が衰退していく。

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男にその手の言葉はあるんだろうか?「かまとと男」なんか聞いた事ない、「いい男ぶりっ子」もない、「猫をかぶる」もない、「皮をかぶる」は男用だが意味が違う。と言ったところで、本題の「かまとと女」については大体述べたし、問題は「腹黒男」である。歴史上人物で腹黒と聞くのは黒田官兵衛を耳にするが、策士と腹黒さは紙一重といわざるを得ない。

「野心家だ」、いや「律義者だ」に二分される官兵衛評だが、野心より家名を大事にしたところは間違いない。秀吉が官兵衛を怖れたともあるが、家康と官兵衛とを比べてどちらを怖れたかという比較なら言わずもがなであろう。その家康にも腹黒評はある。狸ともいわれるが、事をあせらず「鳴くまで待とう」の心根は、我慢という腹黒さの恩恵であろう。

腹黒診断によると、視点を変えると我慢は腹黒の範疇といえるが、我慢を腹黒MAXとは誰も言わない。つまり男の腹黒さというのは、戦略や策士的な意味で、プラス評価に思えるがどうだろう。家康が腹黒いというなら、その腹黒さのおかげで陽の目を見たともいえる。したがって男には腹黒という言い方よりも「腹に一物」という言葉の方が、いかにも男の気概であろう。

「腹に一物」も、近年は会話に盛り込まれない言葉になった。我々は若いときには普通に使った用語である。「心に企みをもっている」との意味だ。「男の一物」は陰茎のことだからまったく意味違いで、これも使わない言葉となった。「腹に一物ある奴」は、一癖ある男にいう場合が多いが、男は寡黙で不言実行を旨とするなら、「腹に一物」は当然であろう。

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自分は「腹に一物」的男は賢い男、寡黙で男らしい、逞しいという評価である。事を成すのに周辺にまでそ知らぬふりをしておかないと、壁に耳アリの責任は免れない。家康の、「せいては事を仕損じる」や「腹に一物」が腹黒いというのは狭隘な物の見方である。「天才とバカは紙一重」という意味に似ているし、世の多くのことは常に背中合わせ、表裏の関係にある。

親切も押し付けであったり、善意と悪意も紙一重。俊敏な行動はせっかちとなり、じっと様子を伺うのは「動かざるは山の如し」という評価に変わる。巷の会話ではしばしば、「あいつは腹黒いで~、気をつけんと」などの言い方を聞く。言われると、「そうか、気をつけるよ」と一応返すだろうが、そこには、「腹黒い」という共通認識がなされているようだ。しかし、本当に共通なのか?

「あいつはズルいから気をつけろ」、「バカだから気をつけろ」などもいうが、何がズルいのか、どういう点がバカなのかを知ろうと思うなら、「どういうところがズルいんだ?」とか、「どういう風にバカなんだ?」と自分は聞く派である。言葉だけを鵜呑みにして人を判断するのは危険だし、単に嫌いなやつ、相性が悪い、嫉妬心などから言ってる奴もいるからだ。

親切に言ってくれてるようでも、実は悪意に満ちたりと、人間関係はいろいろだから、人の言葉を鵜呑みにするのはよくない。理由を聞いてみれば、何でもないことも多い。相手には許容できずとも、こちらには許容できたりもある。「あそこのラーメンは美味い」、「あそこのカツ丼は不味い」という巷の情報に裏切られたことは誰にもあろう。人は人、自分は自分なのだ。

イメージ 7「どこが美味しいんだ、全然不味いわ」というのも正直な返答であり、そんな遠慮はしない自分だが、人によっては不味くても、「美味しかったよ」と伝える奴もいる。ある奴に勧められて女と二人で食べに行ったときに、「何だ!これは不味い。あいつに文句いってやる」と言ったら、「ダメよ、そんなこと言ったら。美味しいと思って勧めてくれたんだし…」という女に、「…」と思った事がある。

いかにも女は「共感型」である。批判を悪とするところの人間関係が主であり、だから表面的な付き合いとなる。女に生まれたら自分もそうやるしかないのだろうと、納得はするが、何事もすべからく言い合う方が腹の底が分かって面白い。「こいつはこんな風に考えてるんだ」、「こういう風に生きてるんだ」が分かるからだ。ちなみに自分は、「腹に一物」抱えた生き方は、到底無理だ。

堰き止めたダムのように、頃を見て一気に放出するような、作為的な、計画性的な、そういう風には生きられない。あるがままを、あるがままに出し、受け入れ、その都度解決して行く。こうすれば問題は起こらないだろうな?というのがないのは、問題の発生を怖れないからであろう。問題が発生すれば解決すればいいし、難題ほどやりがいが感じられる。

問題を避けて行くか、問題を蹴散らして行くか、人を観察しているとこの2通りを強く感じる。前者は保守的、堅実的、後者は革新的、遊興的。自分は言わずとしれた後者である。何も起こらないよりは、何かが起こった方が面白いではないか。前者は辛気臭い人間に思える。辛気臭いは関西以西の言葉で、思うように ならず、いらいらするさま。また、気がめいるさま。

「ブログなんかようやるで~、自分、そんな辛気臭いことやってられへんわ」など、明石家さんまがよく使っていた言葉だが、関西以北の境目はどの辺りか分からぬが、東京人は使わない。というところで、な~んも辛気臭いことないが、この辺でやめとこ。「腹黒男」の表題で書けるかな?と思ったが、内容はともかくとりあえず書いてもうたよ…


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