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「腹黒女」と「ボクちゃん男」

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ある男の体験談として以下のことが記されていた。女性とはじつにややこしい生き物である。良かれと思って容姿を褒めれば、「見かけで判断する人なんだ」と言われ、「君と同じものを食べようと思う。何が食べたい?」と聞けば、「自分で決められないの?」と返された。こんな風に彼女が求める「正解」にたどり着けず、悩む男性も多いのではないだろうか?

これらのことは男ならば誰もが深く頷くことでは?へ~、言葉を返すようだが、「全然頷けない」。容姿を褒めたときに、「見かけで判断する人なんだ」など一度も言われたことがない。大体は、「ありがとう」か、「そんなことないです」と謙遜するかで、「見かけで判断する人なんだ」の言い方、自分の女性観としては0点。こんな角の立った物言いするのか?

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食事のときも、自分で食べたいものをメニューみてさっと決め、相手には、「ごゆっくりどうぞ」であるから、上のような言われ方などは経験がないな。が、仮に「同じ物を食べたい、何がいい?」と問い、「自分で決められないの?」などと言われたら、人にもよるが、その場からさっさと帰るかもしれない。まるで喧嘩を売るような、思いあがった言い方だ。

このようなことを男が言われるのは、完璧に舐められているとしか言いようがない。余程のヘタレ男ではないのかと。女性がこのようなことを言うなんて、目くそほども思えないから、言われたら上に言ったように、「ざけんじゃない」だろう。まあ、こんな女と食事やデートして楽しいなどあり得ん。自分的には想像もできないシュチエーションだからいいけれども…。

男はさらにこのようにいう。「言われてとくに困るのが、女性の多くが口にするであろう『私のどこが好き?』という質問である」と、この男のナイーブさに呆れる。こんな質問のどこが困るんだろ?かつて言われたことはあるのだろうが、記憶にない。ないけれども、こんなのが聞かれて困る質問なのか?もし、自分が聞かれたら日毎、何十通りもの答を返してやるよ。

こんなのは質問というより会話の類で、質問と思うならかまわんが、会話を楽しむなら質問を怖がること自体ヘタレ男だ。楽しんで答えを言うならいくらでも、その時の気分で面白く答えられるし、そういった会話を楽しむ気持ちがみられない。そんなに女を怖れてどうすんだ?情けなさ過ぎる。これではおじさんがモテるのも無理はない。若い男は脆弱というか、子ども過ぎる。

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質問を怖がるという時点で情けないわ。これを受けてある女性が、「『私のどこが好き?』のような種の質問は、女性が"自分が受け入れられていないような気がして、不安になったとき"に出てくるものだから、"コンプレックスも含めた、内面的な部分を肯定"すればOKですよ」などアドバイスしている。顔は見えないが、こんなことをいう女は「したり顔」ではないのか?

「したり顔」って、若い人はあんまり使わないようだが、「よく知ったような顔」、「得意そうなさま」という意味で、いかにも自分の意見が女性を代表した意見であるみたいな、そんな彼女の言葉である。一見正しく、一見正しくない。あんな言葉って、会話の流れで何気に言ったりするんじゃないのか?女性だから女性の心理がわかるわ。「だからこれが正しい答」って、調子に乗るな。

そもそも、こんな答をいちいち男に教えなければならないのか?これがいわゆる、「マニュアル世代」的特長なのだろうか?その場にいない人間が藪から棒に女性心理云々というより、言われた男が自分で考えろ。まあ、自分に言わせると考えるというより、そんな深い意味のない恋人同士の慣れ合いことばだろう。ちょっくらシュミレーションしてみると、こんな具合か…

 「ね~、私のどこが好きなの?」 

 「どこがって、お前は身と心で出来てるんだろ?だから、身と心だよ。」

 「そんなんじゃなくて、ちゃんと言ってよ」

 「ちゃんと言ってるよ。お前が黄身と白身で出来てたら黄身っていうけど…」

 「もぉ!ちゃんと答えてな~い」

 「身と心で気に入らないなら、股と胸っていおうか?」

 「なによ、それ!ヘンターイ」

 「変態?持ち物だろ?まあ、身と心で喜べよ。つまり全部ってことなんだし」

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会話ってのは、こういう調子でやるもんだし、「私のどこが好き?」と聞かれて、世の男性諸氏は困るはずだというところが蒼いというか、軟弱すぎる。「質問」などと思うくらいだし、まともに受け答えすぎだよ。それより女にビクビク、オドオドした感じが伝わる。これが昨今の女性主導の要因なのか?もっと女に覆い被さったらどうなんだ?こんな言い方も浮かぶな。

 「ね~、私のどこが好きなの?」

 「うん…?いきなりなんだい?今日は足かな、昨日は指だった。」

 「もぉ、マジメにこたえてな~い」

 「どこが好きって部品のことか?それとも機能のことか?部品も機能も多いしな。」

 「部品、機能ってシツレーね~、あたし、機械じゃないんだけど…」

 「当たり前だろ?お前はナマ○○子だ。煮てもない、焼かれてもないし。女もビールもナマに限るわい」

 「なんか、ごまかされた気する」

 「なんでだ?日替わりで楽しませてくれてるんだ、いいことじゃん。明日はケツかも」

これが会話だろう?「質問」なんて仰々しく構えてないで、学校のお勉強みたいな答えなんかするんじゃないよ。頭のいい男はバカより増しだが、頭の良さってのが学問じゃないということ。一つことに凝り固まるのは学者的に必要だが、世俗で頭の良さってのは、機転、回転の速さだろう。自分が頭がいいとは思わないが、硬苦しく仰々しく答えるのはバカに見える。

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学問と違って答は一つじゃない。何か正解のようなものを求めようとするところが、そもそも人と人の触れ合いを楽しめてないな。部屋にこもって、塾にこもって勉強ばかりした弊害は、物事の思考が柔軟性に欠けるというのが現れている。学問は一つの回答をもとめるが、コミュニケーションは回答なんか求めない。むしろ、相手を主導する何かであろう。

「こんな風に彼女が求める"正解"にたどり着けず、悩む男性も多いのではないだろうか?」と、この言い方が偏差値世代的である。何が彼女が求める正解じゃ?アホちゃうか、笑ってしまいそう。自分がもう一度親をやるにしても、絶対にこんな風な子どもを作らないようにする。私語もないシーンとした塾で、一心不乱に黒板眺めてるような時間って、キモチ悪い。

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昔の寺子屋のような、立ったり座ったり、私語は乱舞するわの楽しい塾なら、キモチワリイ人間はできないだろうが、受験勉強といいながら、子どもから子ども心を奪った大人の責任は重い。そういえば『海街diary』で、幸のいいセリフがあった。「子どもであることを奪われたほど哀しいものはありません」。これは原作者の吉田秋生が、単行本の第一話の中で述べている言葉。

四女のすずはいわば、子どもであることを奪われた子どもだった。弟を守り、母がやらない父の看病し、そして自分を守る。そういう環境から抜け出し、年上の、しかも異母姉妹たちの中ですずが、しがらみから解放され、子どもを取り戻そうとするひととき、おねえちゃんたちにうごめく大人の時間を見ながら、子どもを卒業することを自らに強いている。

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これがこの物語の美しさでもある。子ども時代に子どもを奪われた人間に、約束された高価値の将来があったとしても、子ども時代を失って得たものに本当の価値があるのだろうか?吉田秋生はそれを「哀しみ」と言ったが、そういう観点から周囲を眺めると、荒んだ社会だと、ずっと感じている。子ども時代を犠牲にしても果たされない約束の存在を親は知らない。

自分の夢が叶わないからと、子どもに夢を託すって…、こんな傲慢はない。親になるときは絶対に「傲慢」の二字を廃する決意をした自分でも、「傲慢」の二字に屈してしまったのを悔いる。その後悔というものが映画や小説に何かを求めている。あるいは、文字でここに書いている。人間は所詮は理想などは追えない生き物だが、叶えた人には拍手を惜しまない。

大人の論理、大人の傲慢の中でうごめく子どもたちの悲哀が、自身の体験を含めて自分の最大の注視事項である。知らない子どもたちの笑顔に癒されるのは、大人なら誰でも同じであろう。それなのに、我が子を苦しめる親、その正体の根源はなんであろうか?答えは分かっている。「欲」の一文字だ。その欲を「子どもの幸せ」と置き換えるズルさが気に食わない。

子育ては一度しか出来ないが、多くの親は失敗する。さりとて二度目はないのだから、しかとその失敗を受け止めるしかない。0点取っても笑っていられた親であったが、長男がある日、「もう少し勉強しておけばよかった」と言ったときは、さらに笑えた。それは親の後悔ではなく、本人の後悔である。「あの頃お前に勉強しろ!といってしたか?」

イメージ 1「いや、してない」と予想通りの答である。案ずるなかれ、「後悔」とはそういうもので、一つの選択しかできない以上、誰にも備わるものだ。女の言葉や態度に一喜一憂する男たちを笑ってはいけないのだろうが、それをイイことに、『女が好む男』、『女のハートを射止める男って?』、『モテる男の言う言葉』などの本を書き、それらを座右の書の如く買う男。

「女はこうだ」、「女はこういう時にこういう言葉を求める」、「こんな風にいうときっと好感もたれる」など、こんなことが書かれてある書籍の類はすべて空想の世界だ。自分も用例として空想のことを書いたに過ぎない。女に好かれたい、もてたい男に何かをいうなら、こんな本を参考になどしないこと。要は心構え、気構えなのか?それも違う。

自分の世界観を持つことではないか。「こう言われたらこう言う」ではなく、すべてを自分の世界に持って行く、運んで行く。女の基本は依存である。性器の形が示すように、根本的に受身である。何だカンだと強がっても、うるさく言おうが、男を差し置いて戦争には行かない種族である。いざとなったら都合よく逃げる女に、普段から大きな顔をさせてはダメだ。

これが賢い男の鉄則である。繰り返す、いざとなったら都合よく「女」を利用して逃げる腹黒い種族である。そういう根本を頭に入れておけば、男と女は対等となろう。およそ多くの女は、自身のズルさ、腹黒さに絶対に気づいている。知らない女はいないのではないか?気づいてない女は、むしろ女失格であろう。そして、それを隠すのが女であろう。

巷、女がよくいう「男は単純」という言葉は、結局そういう事をいっている。男はその言葉の真意を理解していない。世の男が単純で純朴であるから、女は腹黒くなるのだから、そこは仕方がない。とにかく、女は男がリードするのが正しい。(いざとなったら逃げる)という点において正しい。だから普段はのさばりたいのだろうが、男がシッカリすれば女はついてくる。

昨今のような偏差値世代社会の恋愛というのは、数式のような正解を男が強いられているのか?とはいえ、「彼女の求める正解」なる思考は止めた方がいい。腹黒女はいつも自分の望む答を求めて質問し、その答が自分の意図しないものでも、何ら案ずることはない。男のリード次第といいたいが、そこはまあ、男が女にリスペクトされていなければならない。

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あくまで自分の言い分であるけれども、女の御用聞きでない逞しい男を目指すなら、『こういう男は嫌われる』みたいな本をしかと読み漁るとか、こういう場合はこう、ああいう場合はこう、見たいなマニュアルから、女性に気に入られる言葉をストックするようなバカげたことは止めること。上に言うリスペクトされる男になる。と、言葉でいうほど簡単ではない。

すべての起因は幼少時期にあるからだろう。言わずと知れたママゴンの存在だ。ママゴンがボクちゃんを作り、父親がゴルフ三昧でそれを容認した。勉強で疲弊したどうにもならない、荒んだ脆弱な性格をどう逞しくしろというのか?だから手っ取り早い「How To」本を漁る、それに頼る。確かにどんな選択をしたところで失うものはある。何かを選べば何かが犠牲になる。

これは経済原則だが、「選択の原則」といっていい。1000円で本を買えば定食は食べられず、花まるの130円のうどんとなる。人間の最も強靭な生き方は『ロビンソン・クルーソー』のような、すべてにおいての自給自足であろう。彼はそんな生活を28年も強いられた。100円でポテチが食べられる御時世なのは、一切が分業のなせる技。すべて一人で作ったらどうなる?

土に種イモを仕込み、育てる肥料、刈り取るトラクター、取ったジャガの運搬費、チップに加工する手間、フライパンに油に塩、どれだけの工程と人員が必要か。それが100円で買える。我々はロビンソンのように孤独ではない。が、あまりに多くのことを仕込まれた結果、結局何も得てないと同じに孤独である。野球やサッカー選手のように何かに特化した人間は強い。

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頭でっかちの孤独な若者が、恋愛といういう分野で苦労するのは仕方あるまい。だから思春期に異性に特化すべきである。野球やサッカー選手が理想の選手像を作るように、異性に恋愛に特化し、ひいては理想の家族像、家庭を作る。自身の満足度のなるべく大きい選択をする。合わない異性と一緒になるな。マーケットは広い、自分に相応しい相手を選ぶこと。


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