書き物をしている身である。何かを書くということは、他人からみたら、「てめぇ、何をくだらんこと書いてやがるんだ、この~!」というのは十分にありだ。自分と他人の考えが違うわけだからあって当たり前だが、それに対して意思表示の反論を書くか、黙して見過ごすか、あるいは共感するか…。共感するとついエールを送りたくなって意思表示を書くこともあろう。
そういえば、『海街diary』の劇中、長女の幸が恋人にいう。「私はどうしても人の悪いところばかり見てしまうんですよ」。「いいんじゃないか?それだけ自分にも厳しいってことだろう」。「学級委員やってたからかも…」、そういう尾ひれのついたセリフだ。学級委員やってると人の悪いところに目が行くのかどうか、とりあえず良いクラスを作ろうとの使命感はあろう。
映画の幸は、妹たちに対していろいろと小うるさいが、あれも長女の使命感なのだろう。「姉御風(あねごかぜ)を吹かす」という言い方を子どもの頃から耳にしたが、所変われば品変わるで、他の地域では違う言い方をするのかも。「兄貴風を吹かす」は、何の小説だか文中出てきた言葉で、「姉御風」同様、本当は標準語かも知れない。「先輩風を吹かす」ともいう。
四人の子を持ったが、兄弟の中で自然に自治が生まれると書いた。それで親は大いに助かる。一番上が姉御風を吹かせまくって、仕切っていた我が家である。一番末っ子はだからか、自分の下になんで妹や弟がいないのかという不満は当然にわく。上が威張るわけではないが、何かにつけて一番下と言うのは損なようで、そこから派生する「末っ子」の性格的特徴はある。
末っ子は年上の兄・姉がどう人生につまずき、どう克服していったか、あるいは堕落して言ったかをつぶさに見ている。よって末っ子はそれらを参考にしながら、人生を歩むことができるという特質をもつ。その結果、要領が良くなる。また、兄・姉が羨ましい存在であるからか、少なからず妬みを抱きながら育ち、兄・姉と張り合う、追い抜こうなどを画策する。
自分では何もできないうちから周囲の大人や兄弟が自分であれこれ行動している様子を観察する末っ子は、兄・姉より言葉にしろ、何にしろを覚えるのが早かったりなど、常に周りに影響されて育って行く。我が家でも末っ子の三女が異常に早い年齢で7並べを覚えていたのには、家族の誰もが驚かされた。いつの間に覚えたのかというように、すぐにできた。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」とは言ったものだ。とにかく周囲に手本となる人が多いためか、自分で1から行動を起こすことは得意ではない、よって、誰かが既に始めていることに対し、自分の意見や考えをいれて発展させる。言葉を変えると"チャチ入れるのが得意"。常に周りを観察しながら自分の行動を決めている。それも末っ子の1つの特徴と言っていい。第一子は、初めての子ということもあって、親がチヤホヤさせてしまいがちだが、末っ子は、兄弟に可愛がってもらえる反面、無力感に襲われ、自信を持てないことが多くなるが、自分の実力はこんなもの、できなくても当たり前など、諦めてしまう傾向がある。自分だけ出来てしまうと、(自分だけ愛されて)みなに悪いと無意識に思うらしい。甘えることも自己防衛本能である。
確かに末っ子は、上の兄弟と違って甘え上手な所があるが、これは下の子が出来ると親の意識がそちらに行くからだ。上の子は「自分のことは自分でしなさい」、「妹(弟)の面倒を見て!」などと親の都合(?)でいわれたりする。また、末っ子は他の兄弟が自分で行動し始めた時期を過ぎても、下に兄弟がいないため、親にすると常に親の力が必要な子、という認識となる。
それもあって、末っ子は常に大人や兄弟たちの力を借りて育って行くようで、だから「甘え上手」、「人に頼ることが得意」という特徴となる。が、周囲への観察力が優れた末っ子は、将来仕事場で怖い先輩、怖い上司と判断した場合には、頼らず自力で調べたり、完成させるなど容量のよさもある。しかし、末っ子の最大の特徴は?と聞かれると、「負けず嫌い」、これに尽きる。
理由は、幼少時期において兄弟喧嘩もし、お互い生意気な態度を取り合うことが多いとき、末っ子は年端もいかない年齢ゆえに、うまく言い返せなかったり、上手いこと対処できなかったり、失敗などを兄弟に笑われたりからかわれたり…する。映画『海街diary』でも、末っ子の千佳は大人になっても、「あんた、あの時迷子になった」、「うんこもらした」などいわれたり。
永遠について廻る失敗談を消すことはできない。よって自然末っ子は負けず嫌い性格になる。"先輩や同僚に負けたくない"と闘志を燃やすか、"自分の実力はこんなもの、できなくても当たり前"など、諦めてしまう傾向の特徴もあるので、どちらかになる傾向が強い。さらに末っ子の特徴は、我が家を見ても感じるのは、とにかく自分の意見を通したい、通そうと意地になる。
子どもがわがままなのは誰しもであるが、大人になってもわがまま傾向にあるのが末っ子であろう。ない物にされてきた、意見など取り入れられないで無視されてきた、そういう悔しさが強く性格に反映されるのであろう。子どものわがままは、大人になるにつれて事情がわかったり、空気を読んでタイミングを見計らったり、わがままを抑えたり、いわなくなるものだ。が、末っ子は兄弟の中で常に一番下なので、上記の特徴プラス、兄・姉が聞き分けある年齢に達しても末っ子はまだ子どもゆえに、「あの子のやりたい様にさせよう」など、わがままを聞いてくれる機会が多い。そのためか、比較的わがままや自分の意見を通してきた末っ子は、大人になっても自分の意見を通したい傾向にある。負けず嫌い+わがまま=最強の末っ子である。
食事に行く時に「何が食べたい」と聞かれ、自分の食べたいものを譲らない人や、恋人に何かお願いごとをしたのはいいが、その意見が通らなかった時に不機嫌になる女性がいれば、末っ子の可能性が高い。とはいえ、末っ子は、なんだかんだ愛される性格を有する場合も多い。『海街diary』の末っ子千佳は、両姉の怖さを知っているのが伺え、だから無益な争いをしない。
女の人の怖さを基本的に知っているのが末っ子。だからか上記した、"怖そうな人を見極める能力が高い"となる。強引さや気の強さを持ってはいても、引き際はちゃんとわきまえている。つまり、わきまえながらやってるフシが見えるということか。愛され上手なのは、愛されている自分が好きだからで、そのための努力は惜しまない。あちこちへ興味をもって出かけていく。
あまり物事に過剰な期待はしないのは、兄・姉から得た何がしかの達観だろうか、男に対していい意味であまり夢を持っていない。確かに環境が長女的、次女的、末っ子的、一人っ子的といわれる性格を作るが、すべての人に当てはまるといえないのは、人間の多くは理性で自身を調節するからである。長女でありながら末っ子的、あるいはその逆と見受けられる性格もある。
潜在的なものと、理性と、流れと、それらが相俟って、自らで格闘しながら生きていくのが人間であろう。折角もっている「いいもの」を出さないで、「よくないもの」を出すような不器用な人もいるし、また善悪良否は相対的なものであるから、人間的に良き相手に恵まれることも大事である。かつて女は「舟」、男は舟の舵をとる「船頭」と言われた時代があった。
我々はそういう時代に学校から、社会か、「男はこうである」的教育を受けた。船頭が右に舵を取れば舟は右に、左に舵をとれば舟は左に、無理な舵をとらずに舟を真っ直ぐ進めることも船頭次第。「犯罪の影に女アリ」という言葉も確かにある。昔、「悪女」といわれる女がいた。今も「悪女」といわれる女はいる。違いはあるのか、昔と今の悪女には…。
「悪女」についての本を数冊読んだが、悪女が何か分らないので悪女について知りたかったからだが、本を読んで悪女が分かるものではない。「幸福」本を読んでも幸福が分らないようにだ。ならば経験したのか悪女を?これまで生きてきて悪女と言える女はいない。性格の悪い女はいたがすぐに逃げるから、味わうことはなかった。が、悪女という女は一人だけいた。
極めつけの悪女である。逃げるに逃げれないしがらみの中で、右往左往しながら、彼女から影響を受けるのを避けた。何十年もかかってその呪縛からやっと逃れることが出来た。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」誰でもそうであろう。少年Aに子どもを無残に殺された親であっても、日々の慰安の中で忘れさせてくれる。が、今回の手記はその意味で被害遺族の心情を踏みにじったものだ。
自分のいう悪女とは実母のことである。実母を悪女といっていいのか?悪女に境界線はない。女である事。悲惨な目にあった事。心が蝕まれた事。殺したいと思った事。などなど、これだけ条項が揃えば十分悪女である。実母を悪女と言うのは確かに滑稽だし、歪に思えるが、他人に向けていうのではない。自らに語る以上、実母は十分すぎる悪女の有資格者である。
本当は言いたくない。あってはならないこと。誇れないこと。悲しいことだが、罪は悪女本人にある。晒す自分に何がしか罪があるというなら、そんな罪は受けるし屁でもない。そんな悪女もオンとし86歳とあらば、人生の終焉に差し掛かったとあっては、悪女振りを発揮できず手持ち無沙汰であろう。それでも嫁いじめだけはご健在だが、何かあれば嫁のクルマで病院に直行。
姑にすれば嫁は使い走り程度にしかないようで、これも悪女の類である。互いが敬愛心を持って分かち合う嫁と姑も存在することを思えば、嫁姑戦争の渦中にあるものは、いずれにも原因があろう。我妻のあれほどの悪女に対する耐性は立派という一言である。「敵の敵は味方」と言った。母の敵は自分である。その自分を敵に仕向けるように、母は妻にけし掛けた。
嫁を味方に引き入れることこそ、「敵の敵は味方」となる。母は洗いざらい自分の汚点を晒して悪者にしようとしたが、そういう事をやる女の思慮の無さからいっても悪女である。そんな工作に乗っかる理由もない妻は賢明であったろうが、意のままにならない嫁が気に食わない。姑というのはなんと、傲慢不遜であろう。自分の敵は母である。「敵の敵は味方」という。
だったら、嫁を母の敵に仕向けるのか?バカバカしい、そんなことを男がやっていられるか。実母は我が頭上の敵であって、支援などは無用である。したがってここに書いてることも、ありのままを書いているだけで、むしろ哀しい宿命を負った母子と思っている。親は恩を売るために子を作ったわけでも、育てたわけでもあるまいが、そういう短慮な思考の親もいるということだ。
そういう親に対しては、短慮だ、馬鹿げている、傲慢だという視点を子どもがもつことがいい。親の身に成り代わって、親は子を持つ幸福感に酔いたい、実感したいだろうな、親になってよかったなという充実感・満足感を得たいのだろうな、子どもに感謝されて嬉しいだろうな、などは無用である。間違ったことを言ったり、したりの親には正しい視点を持つことだ。
それをしないと自分が同じ正しくない、傲慢な親になってしまうであろうそうならないための是々非々の視点である。つまり、子どもは子どものうちから、自分が将来なるであろう「親」を見据えておかないと、その場その場の成り行きでは、理想の親像は望めまい。こういう親になりたいの多くを、こういう親には絶対になりたくないの反面教師から得るのが良策であろう。
子ども時代にはや親になったときを見据えては、自分の場合はそのように思わなければ、子ども時代をやり過ごせなかった苦肉の策であったと思う。されること、いわれること一切の、親という傲慢不遜な生き物を、まったく否定するしかなかったし、それなくば自己の精神の内部分裂から、自己崩壊していたろう。それが自殺であったり、親殺しであったりではないだろうか。
情緒の不安定な時期に、己の情緒を見据え、正す方法は、「こんな親には絶対にならない!」という極悪サンプルの観覧であった。なぜ、これだけ子どもに嫌われているかを自問し、自答できる人間(親)なら、すべてを理解の上この世から発つことは出来るだろう。そういえば、『海街diary』に面白いシーンがあった。札幌に居住する三姉妹の実母が鎌倉の生家を訪れる。
三人が居住しているにも関わらず、唐突に「この家、売りに出さなきゃいけないね。あなたたちもどうせ嫁に行くんだし…と言う。可能性のある事だが、今いう事ではあるまいに。長女は怒りを表して言う。「自分が勝手に出て行って、この家売るなど、何でそんな権利があなたにあるの?勝手なこと言わないで!」。是枝は女の唐突な物言いを表現したかったのだろう。
「藪から棒に何を言い出すんだ?」は自分も実母で体験した。その場の感情のままに発言する女の思慮の無さには呆れるばかり。女という言い方でカチンとくる女性はいるだろうが、そういう女性も、母親や友人女性から、思いつきで何事か言われたことはあるだろう。その時には、「なによ、この女は!」と思ったのではないか?男にそういうのがいないとは言わない。
が、もし男が社会でそのような思慮分別なき発言をするなら一事が万事、こういう男は社会的に抹殺だ。どこから突かれようが論理建てを強いられる男世界である。思ったから言った、思ったからやった、こう思った、ああ思った…では、言い訳としても許されない。行動の根拠が思考であれば言い訳は許されない男社会の厳しさだが、それが男にとっては当然である。
「女は女に生まれない。女になる」とは、ボーボワール女史の言葉だが、「男も男には生まれない。男になる」と言えそうだ。時に男の子を持つ母親は、行き当たりばったり、その場限りの物言いばかりやっていると、確実に(賢い)男の子には見下げられよう。今日言ったことは、明日変えない。一週間後も、一年後も変えないことだ。男の子にはそれが信頼の拠り所となる。