死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ
バラもコスモスたちも 枯れておしまいと
髪をみじかくしたり つよく小指をかんだり
自分ばかりをせめて泣いてすごしたわ
ねえおかしいでしょ若いころ ねえ滑稽でしょ若いころ
笑いばなしに涙がいっぱい 涙の中に若さがいっぱい
人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの
バラもコスモスたちも 枯れておしまいと
髪をみじかくしたり つよく小指をかんだり
自分ばかりをせめて泣いてすごしたわ
ねえおかしいでしょ若いころ ねえ滑稽でしょ若いころ
笑いばなしに涙がいっぱい 涙の中に若さがいっぱい
人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの
恋は突然くるわ 別れもそうね
そしてこころを乱し 神に祈るのよ
どんな大事な恋も 軽いあそびでも
一度なくしてわかる胸のときめきよ
いまかがやくのよ私たち いまとびたつのよ私たち
笑いばなしに希望がいっぱい 希望の中に若さがいっぱい
人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの
人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの
「人生いろいろ」は1987年に発売された島倉千代子のヒット曲である。「人間いろいろ」とは、姿・形・性格・民族などいろいろと書いたが、様々な人がたくさんいることで、「いろいろな人間がいる」などと言われる。「人生いろいろ」とはどういう意味であろうか?酒など酌み交わしながら、「人生いろいろだよな~」などと言った人はいるだろう。
言いたくなるセリフだろうな、ある程度の年齢になるといろいろ振り返ることもあろうから自然に言葉に出るが、15歳や20歳くらいの若僧が、「人生いろいろだよな~」というと、未来についての選択という風に取れる。この年で過去を振り返って「人生いろいろ」といっても、「人生」というガラではない。だから、未来・将来に思いを馳せての「人生いろいろ」だ。
人生とは、人間がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのこととあるが、異論はない。生きているから「人生」と言えるし、死んだものが「人生」などの言葉はもはや吐けない。 人生に対する見方や、人生の意味の理解のしかたを人生観という。したがって、「人生いろいろ」いろんな生き方がある、とは別のいろいろな人生観があるということか。
「お前の人生観は何だ?」と言われても、問われて答がでるような確たる人生観はない。折りにふれて自分なりの考えや価値観を発することはあるが、それが人生観というならそうだろうし、そういった自身の人生観に照らしあって時々の行動の選択をを死ながら人は生きていくのだろう。「人生はこうあるべき」、「こういう人生を送るべき」といえる人を賢者という。
あるいは、それなりに何かを成した人の言葉なら説得力を持つ。一口に人生観といっても一口に言えないくらいに様々あるし、だから「人生いろいろ」ということになる。のっけの「人生いろいろ」という歌詞について考えてみる。歌詞の当事者は女性であり、いろいろ悩んだ様子が伺える。自殺を考えたり、髪を短く切ってみたり、強く小指をかんだり、自分を責めたり…
そういった若き日の自分をいくぶん笑い話に見る年代になったようだ。終ってみればいろいろな男がいたなと、どんな男によってさえ自分は咲き乱れたのだと…。二番を聞くまでもなく恋の苦しみであるのがわかる。恋がどんなものであるかは体験してみて分かること。それは悟りというより現実であろう。今輝く、今飛び立つという言葉から、幸せを見つけたようだ。
「どのように生きるべきかを考える意味があるのか?」と言った奴がいる。その事に否定的になれなかったが、「そうはいっても考えないではいられないだろう?」と自分は言った。彼はしばし沈黙してこんな風にいった。「必死に生きても、真剣に生きても、何となく生きても、自分の人生だし、そこにどういう違いがあると思うか?」、自分はどう答えたか記憶にない。
今ならどう答えるだろうか。「余命を限定されているなら考えるかもしれない」と、彼は付け加えた。確かにどう生きても自分の人生には違いない。必死に生きるか、何となく生きるか、どちらかを選ばなければ両方やれない。必死で生きたなら、楽に生きたらどうであったかを知ることはできない。反対もしかりだ。だからか人の多くは頑張って結果が出ないと呪う。
「もっと楽に生きればよかった」などという。必死で頑張って生きて、それなりの結果を得たなら人は満足するのだろうか?「満足する」というのが、公式みたいになっている。何となく生きて変哲もない人生であったことに不満をいうのだろうか?「もう少し頑張ってみればよかった。それなら生活も楽になったかも知れない」みたいなことを言う奴は多い。
本当にそうなのか?頑張ったら何か期待通りの結果が得れたのか?得れたのではないかと思うだけではないのか?このブログで「努力は結果抜きにやるものだ」と幾度も書いた。書いたという事はそれが持論である。努力する場合においてだ。楽に生きる、何となく生きるというのを自分は否定しない。自分は取り立て努力をしたといえるものはないから、楽に生きたと思う。
それに不満はないから、「努力すればよかった」と思わない。楽に生きて、それが不満な人間が「努力すればよかった」というのだろう。思ってどうなるものでもないが、思わずにいられないのも人間だ。友人が「どう生きたらいいか、考えても仕方がない」と言ったときにも、「そうは言ってみても、考えずにおれないのが人間だろう」と自分は答える。
「余命を切られればどう生きるか考える」といったことも、否定的だ。そこで本当に考えるのは「どう生きるかではなく、どう死ぬか」ではないか。人は苦しいときにおいて、どう生きるかを考えるが、平和にあっては、「どう生きるか」などは、問うに価しないことではないだろう。部屋の隅に追い詰められたネズミは、ネコを噛むというではないか。
苦しさに追い詰められたときでしか「どう生きていくか」なんか考えないのではないか?それでも生きることを閉ざされた人間は、何かを呪って自死することもある。これは自殺テロという行為であろう。6月30日に新幹線で焼身自殺した林崎容疑者は、35年間も真面目に年金を納めたにもかかわらず、月額12万円の支給で国民健康保険や住民税を天引きされる。
彼の居住する東京・杉並区の生活保護基準は14万4430円。しかも、生活保護受給の場合は国民健康保険や住民税などの負担が減免される。林崎容疑者は、6月12日には、区議会議員に電話で生活相談をしていた。応対した議員は、「『年金が少なくて生活が大変だ』と言っていました。生活保護の申請ができるか、今度会って話をしましょうと言いました。
後日に日程調整をしようと携帯電話に連絡を入れたのですが、そのときは留守だったんです。折り返しの連絡を待っていたのですが、こんなことになるなんて…」と区会議員は言う。ネコに追い詰められたネズミは生きるためにネコ噛むが、林崎は追い詰められて誰も噛み付くでなく、自らの命を絶った。ネズミと人間の違いは自殺という行為をするかしないかである。
人間は本能の壊れた動物であるが、生存本能さえも破壊されている。林崎のケースは典型的な下流老人であるという。現役時代の収入が少なく、貯蓄も底をついた時に、生活の助けを求めることのできる家族や友人関係もない。ある試算によると、今後高齢者の9割が下流老人になる可能性があるという。新幹線焼身自殺は、怒り狂った人間の衝動としか言いようがない。
確かに「人生いろいろ」であるが、そうは言っても、人は人生に共通の願いを持つのではないか。願いが叶った人と願いが叶わなかった人は間違いなく存在するが、宝くじが当たった人の末路が不幸であったという話はしばしば聞く。直接語られたのを耳にした事はないが、ロト6で3億2000万円を当て、リアル億万長者となった当事者が体験談を綴っていた。
「もう8年前ですね。僕が38歳のときにロト6で3億2000万円を当てたのは。当時、給料は手取りで18万円ぐらいだったので毎週ロト6を買っていました。それで、「宝くじに当たったら…」ってよく考えてました。ロト6で3億2000万円が当たり、自分の口座に振り込まれると、まず2000万円を銀行から下ろし、週の半分くらいはキャバクラに通うようになりました。
夕方になると、たくさんのキャバ嬢からメールが来るんです。「今日は来るの?」とか。それでモテた気になっていました。大金を持って、一番つらかったのは、誰にも言えないことです。今でも同じ会社の人間には知られていませんが、ロレックスを買っても、同僚にバレたら怖いから会社にはつけていかなかったし、外車も怖くて買えなかった。
どうしても誰かに言いたくてブログを始めたんです。当選して1年ぐらい過ぎてから、タイ人クラブで知り合った女のコと付き合うようになって、彼女がタイに戻ると、彼女を追いかけて、ビジネスクラスで月に2回はタイに行きました。合計100回以上行ってると思います。彼女のために車やマンションも買いました。結婚しようと思って、それこそ数千万円単位で使いました。
でも彼女はとっくに結婚していた。裏切られたというか、ダマされてましたね。浪費したお金を取り戻すために、株やFXをやるんですが、アッという間に預金残高が3億円から億円になって、4年で3000万円です。それで、一切預金には手をつけないことにしました。お金もそんなに残っていませんが、そろそろ結婚を考えてもいいかもと思って中古マンションを買いました。
お金がなくなって、ようやく幸せになれるような感じですね。一番良かったことですか?結局、仕事を辞めなかったことですね。もし辞めていたら、今頃僕なんて無職だと思いますから。もっと大事な使い道あると思うんですがね。とも思ってしまうような方ですが、実際に高額当選したら、誰しもが贅沢三昧でお金がなくなるのでしょうね。」
こういう話を耳にすると大概の人は、「自分ならこんなバカなことはしない。お金は無駄遣いせず、老後の蓄えに取っておくよ」と思うだろうが、苦労せずに降って沸いたような金が手許にあれば、使うのではないか?ないものは使えないが、あるのに使えないのは苦しいのではないか?なんでそんな苦しい思いをしなきゃいけないんだ?と思って使うだろう。
「人生には二つの悲劇がある。一つは心の願いが達せられないこと。もう一つはそれが達せられること。」
これはバーナード・ショーの言葉だが、『宮本武蔵』などの著者吉川英治もこのように言い。「登山の目標は山頂と決まっている。しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある」。サン=テグジュペリは、「歩みだけが重要である。歩みこそ持続するものであって、目的地ではないからである」。と言った。言葉こそ違うが意味はみな同じであろう。
人生は、その「歩み」である。どこまで歩いても、過程にとどまり、ついに目的地に達することはないだろう。しかし、過程はまら、始源でもあるのではないか。死が目的地であるのは疑いようはない。死を目的とするのではなく、死が人間の人生の目的地である。人は誰も「死ぬまで生きる」。挫折が自死であるなら、「死ぬまで生きよう」と声を掛け合う。
幸せは主観的なものだから、自分が幸せと思うなら幸せなのだ。身の回りを片付けられる人間と、片付けられない人間がいるように、幸せになれる人間と幸せになれない人間がいる。そお根本のところでは学力も学歴も経済力も関係ない。とりあえず、主観的な幸せという意識をもてるかどうかである。今はもう、そこそこの秀才は必要ない時代である。
最も必要とされるのは秀才よりも、「何かができる」、「物怖じしない」、そういう能力であろう。頭がいいからといって、何もしないことでの頭のよさは役に立たない。「物怖じしない」で何かをやれる人間は、誰が見ても「凄い」のである。人より優れた頭脳を持つのが能力であると同様に、人ができない行動力を持つのも凄い能力である。