人間のいろいろとは、顔もいろいろ、体型もいろいろ、性格もいろいろ、と大体この3つに分けられる。好みもあるではないかというが、嗜好は性格の範疇であろう。人間というからには世界に視点を広げるなら「人種」も加え、人種もいろいろというべきかも知れない。それにして同じ地球上に、白人、黒人、黄色人種がいるのだろうか?その前になぜ黄人と言わない?
白人、黒人なら黄人でいいし、もしくは白色人種、黒色人種、黄色人種でもいい。随分前にそういう疑問はあった。生物教師に聞いたが、「何でだろうね?」で、知らないようだった。中学の英語教師にビートルズの歌詞を訳してといわれて逃げられたこともあったが、「教師は何でも知っている」という子どもの思いは無残に消し去られた。黄色人種しかりである。
「調べて教えてやるよ」くらい言っても良さそうなものだが、教師もいろいろだ。小学生の時に何を聞いたかは忘れたが、「調べて教えてやる」という先生はいたが、仕事熱心だったのだろう。教師は教える人のことだが、知ってることを教えるのであって、知らないことを教えられるはずはない。しかし、子どもは自分の知らないことを知りたいから教師に聞く。
その気持ちは素朴であるが、教師が何でも知ってるわけではないというのも、年齢を重ねるうちに分かってくる。確か小学生の低学年だったか、友人と言い合いした事があった。週刊誌か新聞かで、「アレクサンドラ王女来日」という記事があった。ネットで調べてみると、「1961年に来日し、第二次世界大戦後の日本を訪れた最初の英国王族となった」とある。
友人はアレキサンドラ王女という活字をみたらしく、自分はアレクサンドラ王女の文字を見た。二人で言い合いしたが埒が明かない。そこで近所を一軒一軒訪ねて、家の主に聴いて廻ったのだが、唐突にそんなこと聞かれて、誰も答えてくれなかった。最後に自分の父に聞くことにした。そのとき父は、「昔、アレクサンダー大王というのがいたから、アレクサンドラだろう」といった。
自分の方が正しかったと決着がついた。懐かしい想い出だが今でもハッキリ覚えている。が、父の答は正しくなかった。英語でアレキサンダー「Alexander」は、アレクサンドロス「Alexandros」の英語名・発音であり、日本語表記はアレクサンダーでも構わない。子どもに違いの意味を教えるのは難しいが、後にわかることで、「どちらも正解」といえばよい。
このようなことを一軒一軒尋ね廻るというのは、地域社会の教育力が確実にあった時代である。そうして最後に行き着いたのが父であった。昔、アメリカのテレビ番組で、「パパは何でも知っている」というのがあった。原題は「Father Knows Best」といい、日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで、日本テレビ系列にて日本語吹替版で放映されていた。
ストーリー性の強い長編コメディ形式(シチュエーション・コメディ=シットコム)で、このスタイルのコメディは、イギリスでラジオドラマの一ジャンルとして普及していたが、現在ではテレビドラマとして盛んに作られている。世界各国で作られ、特にアメリカでの制作が盛んでアメリカのテレビドラマの一大ジャンルとなっている。日本でも真似て作られた。
NHK大阪放送局制作のラジオドラマ、『お父さんはお人好し』(1954年12月13日 - 1965年3月29日)などがある。テレビ時代に入ると、『てなもんや三度笠』、『番頭はんと丁稚どん』、『頓馬天狗』などが挙げられ、日本では関西で特に人気があるスタイルだった。1話完結なので、厳密にはシットコムではないが、「吉本新喜劇」も近いスタイルを持っている。
ところで、なぜ黄人と言わないかだが、日本人から見た区別の「白人」、「黒人」であって、自分たちをわざわざ「黄人」という必要がなかったからだ。それと、白、黒、赤、青というが、「黄」に限っては一般的に「黄色」と呼ぶ。これは、「黄」だけでは語呂が悪く、馴染みもなく、また、同音異義語が多過ぎるのを避ける意味もある。「灰色」、「茶色」も同様。
人間のいろいろの中で、特に性格に関する人類の関心は古代から強いものであった。ギリシャ時代には四気質説(四大体液ともいう。多血質、粘液質、胆汁質、黒胆汁質)が唱えられたが科学的に否定された。四大体液説さまざまな疾病は体内の体液バランスが崩れた結果と考えられたが、医学的には根拠なき妄想である。日本国のみ盛んな血液型性向もこれに殉ずる。
現代においても人間の性格を分類する試みは心理学上の大きなテーマである。日常生活の様々な要素から性格的傾向を導こうとする。例えば、「あなたはネコ派?それともイヌ派?」はよく言われ、「あなたは鳥派?ハムスター派?」とは言わない。やはり、イヌとネコが主要なペットである。ヘビやトカゲが主流なら、「あなたはヘビ派?トカゲ派?」となろう。
爬虫類を嫌うのが一般的な人間だろう。巷のいう、「イヌ派?ネコ派?」でいうなら、自分はイヌ派である。ペットショップに行ってもイヌばかり見ている。それも横文字のイヌの知識は皆無で、柴犬ばかり見ている。横文字の犬は可愛いと思ったことはなく、犬は柴犬系雑種しか興味がない。レトリーバー系も嫌いではないが、大型犬は見るだけで飼いたいと思わない。
と、ここまで言えば自分の性格が分類されるのだろうか?性格というのは、それが分かったことで何かの役に立つのか?何がどうなるものでもないと思うが…。ペットによる性格分類はアンケート調査を元にしたものが基盤になっている。イギリスのペット保険会社であるPetplan社が、行ったこの飼い主の性格分析調査によると、以下の結果が示されている。
犬の飼い主は、早起きで勤勉な人が多く、外交的で、論理的な性格でしかもきれい好きな人が多い。これは、郊外の都市に居住する既婚男性に多くみられた傾向で、ペットとして飼育している犬種によっても、微妙に性格が異なる。ジャーマンシェパードを飼育する人の74%の人が勤勉な性格であると回答している。警察犬として採用される犬種だけに関連性があるのか?
コッカー・スパニエルという犬種の場合、15%の人が自分はおっちょこちょいな性格だと回答している。コッカー・スパニエルは甘えん坊で活発な犬種として知られており、何となく犬種と飼い主が似通ったイメージとしてとらえることができる。対して、ネコの飼い主の場合は、夜型の生活者が多く、スタイリッシュで個性的な反面で、内向的で繊細な人が多い。
家はちらかり気味である20代の独身女性に多くみられた。三毛猫を飼っている人は、内向的だがお洒落が好きが多く、控えめであまり自己主張をしないことから、人に見くびられると感じる飼い主が半数に達した。ベンガルネコの場合は、自分のことをクリエイティブな人間だと回答した人が最も多く、その数値は56%にも達している。以上、イギリスでの調査である。
日本人はどうか?基本的に犬好きの人は外向性が高く、本人も真面目な性格な人が多いという。精神的にも安定していて、協調性が高く、いわゆる大人な性格の人に犬好きは多い印象。対する猫好きは、比較的に精神的に不安定で、感情のコントロールが上手くない人、内向的でちょっと変わった人が多い。これらは傾向性はあるかも知れぬが、「枠」には嵌められない。
ちなみに犬派と猫派の統計としては、およそ6割強が犬派であり、猫派の人は4割弱となるので、やはり日本人には真面目な性格の人が多いのかもしれません。自分は断然犬好きだが、真面目だし、不真面目だし、几帳面だし、自堕落だし、寡黙だし、お喋りだし、継続派だし、飽きっぽいし、論理的だし、感覚的だし、利口だし、バカでもある。これはどういう性格か?
ハチャメチャ性格とでもいうのか?昔から枠に嵌められない人間とよく言われたが、そもそも人間は枠に嵌められるものなのか?枠に嵌まりたい人は好んでそうするだろうし、そればいい。近年の心理学における人間の性格傾向は5つに分けられている。「外向性と内向性」、「愛着性と分離性」、「統制性と自然性」、「情動性と非情動性」、「遊戯性と現実性」である。
分かりやすくいうと、「積極的か控え目か」、「親和的か独尊的か」、「アリ的かキリギリス的か」、「情緒的か頑強か」、「ロマン的か写実的か」となる。これらは世界各国の心理学者がさまざまな実証的研究から導かれた五因子である。人間は生まれ育った場所の言語と文化に強く呪縛をされた存在である。白人や黒人や黄色人種もすべて環境に適応して作られた。
したがって、日本人は日本語と日本文化に呪縛されている。我々日本人が「変な外国人」と思うのは、外国人から見れば、「変な日本人」であることを知っておく必要がある。「変」と言うのは基準あっての「変」であるということ。社会や風俗、教育や文化が国によって異なるように、政治や経済に至るまで人間のあらゆる営みは、人間の心理に大きく影響される。
2002年、アメリカの心理学者ダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞した。彼の経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及びプロスペクト理論が評価されたわけだが、行動ファイナンス(行動経済学)とは、経済人を前提とする経済学ではなく、実際の人間による実験やその観察から、人間がどのように選択・行動し、その結果どうなるかの究明を目的とした経済学の一分野。
プロスペクト理論は、不確実性下における意思決定モデルの一つ。選択の結果得られる利益もしくは、被る損益およびそれら確率が既知の状況下において、人がどのような選択をするか記述するモデル。ようするに、経済現象に対して、人間の心理がいかに多大に影響を及ぼしているかを実証的に解明した。経済の問題は旧来の経済学の枠組で考えるでは進歩はない。
人間は究極的には人間を目的とするなら、その人間は何かを解明する必要がある。のっけに、「自分の性格が分かったところで何がどうなるものではない」と言ったが、何がどうなるでなく、何をどうするという行動の際には大きく役立つ。例えば、「孫子の兵法」で記されているように、「敵を知り、己を知るは百戦百勝」というように、敵を知るだけでは勝率5割がいいとこ。
勝負事で大事なのは相手をしる以上に自分を知ることだ。自分を知って至らぬところは変えて行くことも大事であろう。いつの時代のどこの国でも、人々は常に変革を迫られてきたし、時代や環境は時々刻々と変化しているのだから、これは当然である。日本が鎖国をしたのは誰でも知っている。が、一体、何年国を閉ざしたのかを正確に知る人は少なく、実は難しい。
鎖国は段階的に行なわれ、最後の鎖国令が出され、ポルトガル船の来航を禁止したのは1639年、島原の乱が終わった翌年。して、どこから開国かというと、これも難しく1853年にペリーが最初の来航をし、和親条約を結び、下田と箱館への入港を認めたのは、翌54年であるが、日本の社会に大きな影響が出るのは、58年に修好通商条約を結んで貿易が始まってからである。
であるけれども、鎖国の年代をあえていうなら、異論はあろうが1639年から1854年でいいのではないか…。まあ、大雑把に200年と言っておけば有用な知識である。ついでにペリーがなぜ開国を要求したかだが、ペリーはヨーロッパと貿易をしていて、ヨーロッパに行く途中の物資や燃料の補給などの中継地が必要だった。それが日本だったという単純な理由で御座るよ。
鎖国は一概に損だとはいえない。外国文化を遮断したことで文明の遅延を招いたが、日本人のアイデンティティと文化が形成されたし、武士の支配により治安の良い社会と平和な社会を享受できた。もし、外国と各藩が独自に貿易していたら、西洋から新技術や新思想が入ってきて、パワーバランスの平衡が崩れて、国内は戦乱状態にになっていたといわれる。
何かを変えること、改革するというのは実は大変であり、政治や経済、教育や社会システム、社会心理や国民性との相互作用を考慮しながら改革をすべきであり、それらを無視してシステムだけを変えても上手く行かない。これに最初に気づいた日本人が福澤諭吉である。彼は、『学問のすゝめ』や、『文明論之概略』の中で、国民性の改革が重要だと考えた。
そこから生まれたのが、「独立自尊」の考えで、これは慶応義塾の教育の基本である。意味は読んで字の如く、人に頼らずに自分の力だけで事を行い、自己の人格・尊厳を保つこと。現代風にいうなら、自己肯定感を有し、依頼心・依存心・排他心を捨て、自ら立ち、なおかつ、人に優しく、人の輪を重んじ、人に感謝する気持ちを忘れずにいること。全部やるのは難しい。
「慶應義塾大学に合格した瞬間に人生の勝ち組になると先輩から聞いたのですが、本当ですか?東大卒、京大卒、早稲田卒にはニートが相当いるけど慶應卒にはいないそうです」(yahoo知恵袋より)。頭悪いというか世間知らずというか、慶應卒でも??って人もいるってこと知らないんだろうな。どこかに入ったら左団扇でその人の人生安泰って国などないよ。
楽して人生を勝ち取ろうなんて奴は、どこに行ったところでダメだろう。昔は、パリーグ球団に入団すれば人生オワと言われた。同時に、巨人に入っただけで未来は明るいとも言われた。江川は高校3年の1973年、秋のドラフト会議にて阪急ブレーブス(現在のオリックス・バッファローズ)から1位指名を受けるが入団を拒否。慶応大を受験するが失敗、法政大に進学した。
法大4年の1977年、クラウンライターライオンズ(現在の西武ライオンズ)からドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学。1978年秋のドラフト会議の2日前に帰国し、ドラフト会議前日に巨人と電撃契約した(空白の一日事件)。この卑怯な手段で巨人に入団した江川は40年が経過しても悪者イメージが消えていない。
彼も現在60歳。野球は好きなんだろうが、あの一件で憧れの巨人に入団はしたものの、彼には永久に、「あの一件」というイメージが切り離せない。あの一件で江川の野球人生が幸せとは言えないものになってしまった。同じ法大の先輩だった広島カープの山本浩二が、あの一件について当時、「あいつだけは後輩と思わない」と言ったのが耳から離れない。
巨人が声をかけなければ江川はどこのチームにも行かないのだろうか?それより、他の球団で江川を招聘するところはないであろう。江川のダーティーイメージは巨人が作ったのだから、巨人が声をかけてやってもいいと思うが…。もうそういう時期であろう。原監督の次は桑田か?それとも江川サプライズか?