『海街diary』には原作者がある。原作あれど、脚色が半端なく強すぎて、原作をぶち壊す作品も多い。これには原作者もおかんむりと思いきや、たしかにそういう原作者もいるが、「映画と原作は別物です」と、意に介さないそぶりの原作者もいる。原作に拘るか、拘らないかは、脚色側の判断による。是枝監督は、「この映画は、みんなが自分の居場所を探している話」と解説した。
本作の原作者は吉田秋生だが、彼女の作品は多く映画や舞台に取り上げられている。自分は吉田秋生という漫画家を知らない。漫画も読んだことがない。彼女の『櫻の園』が映画になったときに、後で古書店でぱらぱらと立ち読みしたことはあるが、映画と漫画はまるで別物で、映画は好きだが漫画が好きでない自分に、漫画はなんの変哲もないものでしかなかった。
吉田秋生を知らない自分が、なぜ彼女の原作がこれほど映像化、舞台化される理由は分らないゆえに、その理由を知りたいと思っていたところ、「『海街diary』の吉田秋生作品がこんなにも映像化・舞台化される理由」というサイトがあった。が、内容は映像化された吉田作品の、漫画とビジュアル的な比較の説明に終始、彼女の作品が映像化される理由の説明ではない。
映像化・舞台化されるときの吉田のスタンスだが、彼女の言葉が述べられていた。「映画やTVなど、マンガ以外の表現について、私はいっさい製作者にまかせます。それはもう他者の作品世界だしね。レストランに野菜を提供する産直農家のおばちゃん、てかんじ。ウマい料理を作るのも、マズいモンになるのもシェフの腕しだい」。面白い表現だが、吉田は原作と映画は別物派だ。
となると、是枝のいうように吉田秋生の作品に触発されたということが図星であろう。いい台本が映画製作の原動力になるのは、日本もアメリカも同じこと。オリジナル脚本でなければならない理由はない。したがって、吉田作品の映像化が多いのは、彼女がいい作品を生み出しているということ。『海街diary』以外の以下の作品が、映画化、ドラマ化、舞台化されている。
・『ざしきわらし』 - 1991年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化
・『悪魔と姫ぎみ』 - 1981年にアニメ映画化
・『カリフォルニア物語』 - 1979年 - 2008年に舞台化
・『吉祥天女』 - 1983年 - 2006年にテレビ朝日系でドラマ化、2007年に映画化
・『BANANA FISH』 - 1986年 - 2005年 - 2009年に舞台化
・『櫻の園』1994年 - 1990年、2008年に映画化
・『ラヴァーズ・キス』 - 1995年 - 2002年に映画化
・『YASHA-夜叉-』 - 1996年 - 2000年にテレビ朝日系でドラマ化
是枝は『海街diary』を映画にする際吉田からは、「鎌倉の四季を描いて」との注文を受けたという。そこで、春には若い男女が自転車で桜並木の下を駆け抜けるシーン、夏には4姉妹が庭で手持ちの花火に興じるシーンをちりばめるなど、四季を鮮やかに表した。是枝は原作を、「いろんなテーマの選択の仕方がありますが、これは自分の居場所を探す話だと思いました」と、感じたという。
異母妹のすずは冒頭、自分の居場所を失う。4姉妹の長女、幸は自分の生家をよりどころにして、妹を守ろうとする。「生きていく上での、よりどころをどのように見つけるのか。それぞれの居場所については自分なりに考え、葬儀や法事が3回も出てくるのですが、『死』に引っ張られ過ぎないように、4姉妹が生きる姿をきちんと描こうと考えました」と是枝はいう。
もう一度観て、確認もし、思いを深めたいが、映画は父の死で始まり、二ノ宮のオバちゃんの象徴的な死で閉じられる。大衆食堂「海猫食堂」の店主二ノ宮幸子は、自己肯定感をもてないで生きている異母妹のすずに、「あなたのような宝を残して死んだお父さんは素敵なひと」と、すずの父への負い目を消してくれた。もう一人、三女の千佳も新しくできた妹すずに優しく語りかける。
「わたし、お父さんのことよく知らないんだ。いつか聞かせてね、お父さんのこと…」。自分たちを捨てて行った父のことなど知りたくない。長女も次女も同じ気持ちだろうが、唯一父を知らない千佳の素直な言葉である。そんな素朴な言葉をすずは温かく感じたろう。長女や次女が父のことを聞きたがらない理由はすずに分かっているが、千佳の言葉はあまりに素朴。
父という負い目を背負う環境の中に飛び込んでいったすずの中は、どういうものだか想像するしかない。幸や佳乃は笑顔で接してくれるが、自分たちを捨てた父に憎悪を抱いている。そんな異母妹すずに罪はないと思っているが、彼女たちの父への癒えぬ思いが、すずの自己肯定感を阻んでいる。姉たちが父を許さない限り、すずの心は晴れないだろう。
それがあってすずは自分を許せないでいる。表面上はともかくそういう重苦しい環境の中にすずは生きている。すずが自分を許せる日はくるのだろうか?これが是枝のいう、自分探しであろう。昔でいうなら、妾の子という肩身の狭い思いを強いられて生きた子は多い。自分のせいではないのに、生まれながらの差別を受ける。すずは形的には同じである。
「婚外子差別問題」はより広い視点でみる必要があったが、なかなか因習的な差別は野放しにされていた。そうして2013年9月、ついに最高裁において、婚外子の相続分を婚内子の半分とする民法の条文に対して違憲判決が下された。婚外子相続差別の廃止を受けて安倍内閣では11月、相続分差別を削除した民法改正案を閣議決定し、同案は12月5日に国会で可決され、成立した。
現在の日本では多くの子どもは婚姻関係にある有配偶の男女の間で生まれてくる婚内子であり、婚外子の割合は少なく、婚外子出生割合は最近の統計でも2%前後と世界的にみても最低レベルである。ところが、明治民法の時代、おおよそ20世紀前半では、婚外子の割合は現在よりもずっと多かった。実際、20世紀初頭(1910年前後)には出生の10%近くが婚外子であった。
20世紀前半を通じて日本の婚外子の割合は減少していくが、実はその多くは「私生子」割合の減少によって説明できる。「私生子」とは明治民法の用語(1942年まで)で、そこでは婚外子のうち「父親」に認知された者が「庶子」、認知されない者が「私生子」と呼ばれていた。現在では登録上、婚外子は無条件に母の戸籍に登録されるが、認知されれば父の戸籍にも登録される。
もし父がすでに他の女性と配偶関係にあった場合、遅かれ早かれ父が認知した婚外子がいることは家族の知るところになる。つまり婚外子は認知という制度を通じて社会的に位置づけられているわけであり、逆に言えば、「認知されない場合の問題が大きくなる」ということでもある。庶子を家のなかに位置づける制度、まがりなりにも準備されていた明治民法の時代は終わった。
戦後の民法改正以降、婚外子を道徳的に許容しない「対等な夫婦」という理念が浸透していくにつれて、(男性認知子も含めて)婚外子の「居場所」が失われていくことになる。婚外子差別にはさまざまあるが、先の最高裁の相続差別違憲判決を受けて内閣府で検討されたのは、戸籍法上の差別(戸籍に「非嫡出子」と記載されること)と、民法上の相続分差別である。
結果として後者のみが廃止されることになった。子どもはさまざまな両親の法的配偶関係の組み合わせから生まれてくる。婚外子には不倫関係の子どももある。親の都合によって、子どもが生まれながらに負い目を感じる社会は正しくない。すずは妾の子ではないが、気持ち的には同じようなものがある。吉田秋生はそれを題材に漫画を書き、是枝が触発された。
社会の複雑な問題点を噛み砕いて漫画にする作品を吉田が生み出すことが、映像作品の多さの要因だろうか?そういえばこのブログを書き始めて、書庫の映画で最初に取り上げたのが吉田秋生の『櫻の園』である。中島ひろ子主演の同映画は、出演者のあまりの自然な演技に圧倒された。「これって映画?」というくらいに演技感の無さ。同じ物を同じ監督で2008年に作られた。
福田沙紀(誰だ?)が主演という。テレビでやっているのをちょっと観て、すぐに観る気がなくなった映画。興行収入も大コケでひどかったらしく、1館あたりの興行収入はわずか25万円だったという。柳の下にいつも泥鰌がいるとは限らない。前回好評だった同じ監督をしてこの有様である。映画は娯楽である。だから娯楽としてみるが、映画から学ぶこともある。
「遊びから学ぶ」が自分の原点であるが、「学問から学ぶ」と、「遊びから学ぶ」と、どう違うのか?と、問われるなら、「学ぶ」という事を正しく捉えるなら、どちらも同じこと。正しくとは、「学ぶ」=「自分を変える」ということ。学んで変えない(変わらない)というのなら、何のための学びであろう。言い換えるなら、自分を変えたものなら、どんなものでも「学び」である。
戦争も、恐慌も、飢饉も…、人災・天災すべてが何かを教えている。「教えられた」は、「変わった」であらねばならない。さするに教えるものは、相手を変えることでもある。「聞いた」、「分かった」、「忘れた」が人間だろうが、いつもいつもそうとは限らない。忘れられない言葉はあるはずで、それが頭に残っているだけでもいい。時間はかかっても、いつかは変わるだろう。
世の中にはいい人、よくない人、悪い人、よいことを教えてくれる人、悪いことを教えようとする人、それらで構成されている。樹木希林の発した言葉は忘れられない。もちろん役としてであるが、「あの娘は妹は妹でも、あなたたちの家庭を壊した人の娘さんなんだからね」。これを聞いた長女の顔には嫌悪感が滲む。悪い言葉は跳ね除けることで、よいものが残る。あるいは芽生える。
だから、世の中には悪い人も必要である。悪いがあって初めて良いが判る。だから、悪いにどう対処していくかで人はいろいろに変わっていく。目の前の親が悪い言葉をたくさん吐いているかも知れない。「あなたのために言ってるのよ」という前置きは嘘が多い。本当に子どものためなら、こういう前置き言葉は必要ない。なぜかといえば、こういう言葉はそうでないときにも用いるからだ。
つまり、本当は子どものためでない、親の勝手な都合でも、「お前のため」という嘘はつける。「お前のため」といえば、親の傲慢や都合を隠すことができる。だからこの言葉はいうべきではない。本心で相手のためを思って言うとき、こんな前置き言葉よりも、情熱、熱意があれば伝わる。口先だけでこんな言葉をいうから、子どもが親を信じなくなるんだろう。
「子どものため」、「家族のため」、「会社のため」、「チームのため」、そんな前置きをいうくらいなら一生懸命に膝をつき合わせて語れよ!である。生命保険の勧誘で、「あなたのために言ってるんですよ」という嘘つきセールスレディは大成しない。そんな言葉を吐かれたら、「自分の成績のためだろう?」と返してやったらいい。子どもも親に、そう言い返したらいい。
社員も上司にそういってやればいい。今まで多くの人に説教をされたが、本当に誠実な人は、「お前のためを思っていってる」とは絶対に言わなかった。言わないから、心に突き刺さる。見え透いたことを間に受けるほどバカじゃないよ。「この家を捨てて出て行ったのに何を今さら…」と母にいう幸。「もとはといえば、お父さんが女を作ったのが原因じゃない」と母。幸はこれにどう答えたか?
「いい年して子どもみたいなこと言わないでよ!」と強い口調で幸は返した。これは、母の言い分を門前払いで脚下である。つまり、ああだ、こうだと言い訳する母を子どもだと突き離している。自分が出て行った理由を正当化するなど、残された者の耳に入るはずがない。人間は相手の立場にならずに、自分の都合ばかりをいう。「言い訳」の多くはそうである。
だから、「言い訳」は相手の気持ちを考えていない言葉である。それで、「あなたのため」って、どっち向いていってるんだ。相手の気持ちになるなら、なって何かをいうなら、自分を捨てることだ。それで初めて相手に伝わる。自分をしっかり維持しながら、都合よく、「お前のため…」こういう欺瞞が人間関係を崩壊させる。それが親子ならそこに真の親子関係はない。
明るく見える家庭に歪みや闇がある家族もあれば、暗闇の中で支えあって希望を見つけて行こうとする家族もある。子どもの学力が親の経済力で決まるというのは、厳然たる事実である。そういう社会であるが、それで子どもの幸福が決まるわけではない。以前から時々思うのは、子どもは本来、親がいない方がまともに育つのではないか?である。親はどこか障害になっているのでは?
そう思えることが多かった。どうすれば幸せになるかはさまざまあって何とも言えないが、金で作った学力や、子に美田を残すのが子どもの幸福に関係ないと分かっていた。ならば、このような時代、子どもや若い人は何を目標に生きていくのがいいのか?目標を持たないで生きた自分に答は分らない。ただ、困難は困難として、ありのままに生きてきた。
良い事は良い事だから、そこは問題にならない。問題は苦しいときにどうしのぐかで、それを上手くやれたものは楽しさも見つけられる。楽しさ=幸福とは限らないが、幸福感の一つである。多くの幸福感につつまれて生きているのが、即ち、幸福かもしれない。そのためには、苦しさ、辛さを上手く、やり過ごすことだ。それをどうするか?の答は自分で見つけるしかない。