この映画は6月13日に公開されていたのを知らなかった。さらにいえば、映画の存在さえも知らなかった。内容もまったく知らないままに、立ち膝問題があったから観に行った。主要な登場人物である四姉妹の綾瀬はるかと長澤まさみは知っていたが、夏帆も広瀬すずも、存在すら知らなかった。最初、広瀬すずを長澤と思って観ていた。若作りのメークだな、と思いながら。
映画を観終わった後で、上の書いた事柄を自分自身が笑ってしまった。夏帆を知らず、広瀬すずを知らず、長澤を広瀬と思って観ていた自分って、あまりに老人過ぎないか?という笑いである。現代人の端くれとして現代を生きてはいるが、さりとて現代のことを知らない、蚊帳の外、つんぼ桟敷を痛感するも、「年寄りってのは、そういうもんだ」と自己肯定する。
そういえば"つんぼ桟敷"という言葉は、1974年に吉田拓郎の、『ペニーレインでバーボンを』という曲の歌詞に、この言葉があることで販売自粛(事実上の生産中止)となる。「つんぼ桟敷」は差別用語のようだ。以降コンサートでこの曲を披露する時は、「蚊帳の外」と変えて歌っている。当人の差別意識の有無に関わらず、差別用語と受け取れる歌詞は、業界で自主規制された。
さて本題は『海街diary』で、今年度のカンヌ国際映画祭に正式出品され、現地でも是枝裕和監督と主演女優4人が注目を浴びていた。是枝監督とカンヌ映画祭は縁が深く、初出品作は『DISTANCE』(2001年)、次いで『誰も知らない』(2004年)では、主演の柳楽優弥が最年少で最優秀主演男優賞に輝いた。そして2013年の第66回カンヌ国際映画祭『そして父になる』は審査員賞を取る。
『海街diary』は賞には入らなかったが、自分はこの映画を楽しく、微笑ましく、鑑賞した。心に残る、心を打たれるというほどの内容ではなかったが、楽しく、微笑ましくの理由は、自分が一人っ子であり、映画全般における三人姉妹の掛け合いが、新鮮であったからだ。一人っ子にすれば兄弟の不思議さというのは、どう転んでも体験できない、永遠の謎である。
一人っ子には兄弟とは何かを、説得力をもって説明することはできない。兄弟のある他人は、兄弟についてどうということは無さそうに見えるが、そのどうということの無さも含めて分らない。分かりたいと思って、結婚したらたくさんの子どもを作ろうと思った。そうして四人の子を持ち、子どもの頃から兄弟の何たるかを学ぼうとしたが、眺めているのは体験とは程遠い。
兄弟っていいもののように思う。が、兄弟なんか…、そんな悲惨さも耳にする。「兄弟なんかいない方が良かった」という奴もいた。「姉なんかいなきゃいい」も、「妹なんか消えてほしい」も多く聞いた。若貴兄弟の確執も報道で知っている。同様に、フィギュアの浅田舞、真央姉妹にも様々な軋轢が伺える。それらも含めて、兄弟を紐解くことは自分にはできない。
が、兄弟を考えることできる。何事も、体験しなくても考えることは可能である。死も戦争も体験はないが、考えることはできる。もちろん、答を求めての思考であるが、出てきた答えの正否は分らない。死んでどうなる、戦争現場の状況は文献や、映画や、小説など、他人の想像力を加味して思考するよりない。子どもを4人持って、兄弟には自ずと自治が発生するのが分かった。
自治はまた秩序でもある。「長幼の序」とは、年長者と年少者との間にある秩序という意味で、先にこの世に生まれたものが偉いのであり、また、偉いとすべきである。偉いとは幅を利かすという意味で、頭の賢さではない。秩序というからには、これが正しく行われないのは良くないということになる。映画『海街diary』の幸は、長姉でありながら母親の様でもある。
妹に対する躾をするような小言をあそこまで姉が言えば、対等としての兄弟(姉妹)からすると、腹も立つであろう。実際、腹を立てながらも従い、時には従わないように見える。姉が妹にどこまで遠慮せず、妹は姉にどこまで遠慮しているのか、一人っ子にはその加減が分らない。しかし、その加減は常に一定というのではなく、時と場合の気分などによって変わるようだ。
姉や兄は権威ではないから、おとなしかったり、小心者であったり、そんなだと弟や妹の方が力を持つ。そうであっても、上に対して一目置いた部分はあるのだろうか?さまざまなケースがあるから、兄弟はこうだと定義はできない。映画のワンシーン、家の電話が鳴る。長女は次女に命令するが、次女は三女に、「あんた出てよ」と指示する。三女は素直にいう事を聞いていた。
が、姉のいう事を聞く理由はない。親であっても聞かないこともあるわけだ。だから、もし映画で三女が、「ちょっと今出れない」とか、「人に命令しないでよ」とか言ったら、ややこしい場面を映画は作らなければならない。実際に、現実に、そういう事はあるだろう。おそらく、兄弟は対等意識が強いから、上からの命令を嫌うはずだが、黙って従う時はどういう気分なのか?
親が三女に何かを命じたら、「何で私にいうの?」ということはある。「何でお姉ちゃんには言わず、わたしばっかり…」という不満を露にするが、それは親が、「長幼の序」を行使しているのであろう。長女に言っても次女に、次女から三女に、上の電話のシーンのようにである。それならいっそのこと最初から三女に、というのが親の合理的な判断かも知れない。
もし、三人がゴロ寝していて、洗濯物を取り込んでという用事を親が長女に言った場合、長女は面白くないはずだ。これは我が家の例であるが、次女、三女に先駆けて、率先してやる長女もいるのかもしれない。なぜ、長女は自分が命じられて頭にくるのか?おそらく「長幼の序」で、自分が偉いと思っているからではないか?親はそれを見越し、だから最初から三女にいう。
対等意識の強い三女は、「じぶんばっかり…」と不満を持つことになる。これが一般的な家庭における兄弟間の自治ではないのか。親は兄弟に対等に接するのが大事だが、思うだけで、対等に接しているかどうだか?お姉ちゃんと妹に何らかの線引きをしているはずだ。ネットの「発言小町」という投稿欄に、「兄弟姉妹って何?悲し過ぎます。」という以下の投稿があった。
「5人の兄、2人の姉がいます。私は8人目の1番下3女です。兄弟姉妹にぐったりです。私は40代です。元々ですが大人になった今も長男が偉く、上から順番の、力関係が絶対的です。昔なら有りそうですが今時あり得ない、悲惨さです。下は上に意見を言うな。下のまともで、正しい意見でも上としてきく訳にはいかない。下は黙って上に気を使え。等々…(中略)
2女は私と違い柔らかいタイプなので兄弟達は言いたい放題。やりたい放題。正義感が強く真面目な2女は苦しんでいます。鬱になり薬を飲んでいますが、「そんなもの自分が悪いんだ!」等、上に言われ、いたわりも助けも無し。母を全て2女任せ。今更優しさを求めていません。せめて、いじめるのをやめてほしい。私は母と2女をかばいますが、こちらの正論に対し上の兄弟達は結託して攻撃の嵐。疲れました。。。。
私はこれからも、力にならなければいけないのでしょうが、身も心も疲れ果てています。上6人の、2女をいじめる事で結束が生まれストレス解消のはけ口にしているかのようにな暴言と勢いの凄さに呆れます。集団のなせる技、そのものです。理不尽で弱い者いじめが許せない!怒りで一杯です。悲しみで一杯です。皆さんも兄弟姉妹いらっしゃいますよね。良い関係ですか?兄弟姉妹は他人とも違い、家族とも違い、ただの身内?一体なんなんでしょう……ご意見頂きたいです。」
という内容だが、自分はこの方に対して何も言えないでいる。出てくる言葉が見つからないのだ。その原因をあえて言うなら、これは兄弟間の自治の問題である。つまり、他人がアレコレいうべきことではないし、兄弟間の自治を上手く調節するのは親の役目である。親がそれをチャンとやっていれば、何かが逸脱した時にこそ、親は調整役にまわれる。
長兄が偉い、長姉がのさばっていても、親は子どもの上にいるわけだし、兄弟間の問題に口を出せる権利はこの世で親しかいない。だから、この親が8人兄弟の力関係を踏まえつつも、行き過ぎには注意し、過不足のないように強権を発動しなければならない。それができないから、問題が起こるし、それができても問題は起こるが、親が解決しないで誰ができる?
親は長兄、長姉よりも権威者であるべきで、それなくして問題解決はできないはずだ。兄弟間(親からみれば子ども間)の諸問題は、断固親が解決するべき。する自信が自分にはあるから言っている。自信がない人、できない人のことは知らない。そうであるなら、誰か人に頼むしかないか、記されているように、憐れな2女を放置するしかない。すべては親の問題であろう。と書いたところで、どういう返答があるか覗いてみる。「そんな兄弟とは縁を切りますね。害になるだけです。我慢して関わるだけ損をします。」、「愚痴っててもしょうがなくない?兄弟姉妹ってなに?って問題を大きくしすぎでしょう。問題は、あなたのご家族です。世の中には、兄弟で殺人をする人もいます。ひとくくりには語れませんね。育て方が悪かったのでしょうね。」
「中には兄弟や姉妹の仲が悪い家庭もあるでしょうけどトピ主さんの所は異常ですね。正直な所、お母さんが責められるのは自業自得だと思うけど(育て方が悪かった)その親を引き取って面倒を見ている人を責めるのは最低でしょう。横溝さんの小説に出てきそうな感じですが早く、縁を切っちゃった方がいいんじゃないですかね?キツイ言い方だけど、2女さんもそんな母親は捨て、縁を切って自分の生活を守った方が良いと思います。」
「今の状況を改善する方策は正直思いつきません。でももう頑張らなくていいと思います。遺言『全財産は2女に譲る』、『○○達は我が家への立ち入りを禁ず』なんてのをお母さまに書いてもらっては?お父さまは亡くなられていると推察しましたので、お母さまもそれなりの財産はお持ちだと思いますが。財産額はどうでもいいんです。こっそり公正証書作っておきましょうよ。(以下略)」
どれを読んでも、今さら解決はできないということだ。解決できないなら我慢か縁切りの2通りの選択しかない。一番下だから何も言えないといっても、縁切りはできるし、それしかない。もはや親の出る幕などないようだ。このようにたくさん兄弟がいると、t手をかけられないからも放っておいたのだろうし、放って置かれた側には、「何を今さら親ヅラしてんだよ」となろう。
将来に禍を残さぬよう、親は心してやるしかない。兄弟の揉め事に親が出てくるのは、製造責任者としての絶対的権利である。話題が映画からそれたが、長女幸(綾瀬はるか)は、アレが長女的であり、見事な長女の立ち回りである。父が女を作って家を出、やがて母も再婚して子どもを置いて家を出、古い一軒家で暮す三姉妹だが、親など不要の存在感が長女に感じられる。
笑顔もあり、迫力もあり、プライベートな苦悩もあり、綾瀬のリアルな演技に負うところもあるが、それを引き出す次女佳乃役の長澤、 三女千佳役の夏帆も捨て置けない。腹違いの妹すずを迎えることで、新たな生活のスタートとなるが、三女の千佳は、妹ができたことでお姉ちゃんらしさも生まれるが、自分たちを捨てた両親を許せない思いが原動力の長女幸である。
その気持ちを見越したかのように、「お姉ちゃんは親に対する意地で頑張ってるだけでしょ!」と次女はグサリという。が、意地がなかったらできないことではなかったか?「親がなくても子は育つ」というが、「親はなくても幸せになってみせる!」そういう気概がなくば、堕落したかも知れない。親なし子の世間の風当たりに対する挑戦は必要だ。それを次女にも三女にも求めた長女である。
だから、映画の長女は立派だと思う。締めるところはキッチリ締めている。恋人が外国に留学するから一緒に来て欲しいと言われたことにも、クビを振らなかった。いや、幸はクビを振れなかったろう。妹には意地と揶揄されたが、妹たちの幸せを見ずして、自分だけが旅立てないという使命感、無意識の自己犠牲心が芽生えている。が、このことは妹にも相談はした。
二人の妹は、「わたしたちのことは心配しないで、自分の幸せを見つけて」といわれるが、一心不乱に親への反動で生きてきた幸には、自己犠牲心はもはや彼女にとって無意識の領域として内面化されている。それを言葉を変えると母性愛的本能と言えるかも知れない。責任感も、使命感も、自己犠牲心も、本能と言えるほどに身についたものを、「愛」と呼べるに価するものであろうかと。
兄弟(姉妹)愛の理想の姿は、親のない兄弟から生まれ出るものなのかも知れない。頼るもの(親)がないなら、頑張れる。それが意地というものであっても、頑張るためには必須な要素。「(お母さんにちゃんとやってるとこ見せたいだけみたいな)そんな意地なんかいいから、お姉ちゃんは幸せになってよ」という次女の長女を慕う愛。立ち入らないように見守る三女の愛。
「愛」といえば聞こえはいいし、それを少女趣味的な美しい愛として見せようとしないところがリアルである。近年は、欺瞞の代名詞といえば家族である。映画は親はいないが家族である。いてもいなくてもいいような親なら、いない方がいい。是枝は欺瞞を廃した愛を描きたい人のようだ。作りものに作為を排除するのは難しいが、彼はそれができる…。いい映画である。