他国の文化や風習を批判するのは、無知の謗りを免れないが、どうであれオカシイものはオカシイ。長い鎖国の時代から明治になって異文化がけたたましく入ってきた。"異国情緒"なる言葉も生まれた。ヨーロッパからピア二ストが日本にピアノ指導に来ることとなり、先にピアノだけが貨物船で長い旅路で送られてきた。
やがてピア二ストが来日し、和室のレッスン室に入ったら、すべての足が取り外されたピアノが畳の上に琴のように置かれていて、鍵盤の前には座布団が敷かれていたという。外国文化が入ってくると並行して、あちらの言葉が日本語になったものも多い。「ラムネ」⇒「レモネード(lemonade)」、「ワイシャツ」⇒「white shirt」、「サイダー」は「シードル(cider)」をサイダーと読んだことによる。
ぐっすり眠るの「ぐっすり」は、「good sleep」からと聞いていたし、自称雑学王こと唐沢俊一も、テレビ番組「世界一受けたい授業」でそのようにいっていたが、寛政2年(1790年)に編纂された『黄表紙・即席耳学問』という書物のなかに、「すっかり」、「十分に」の意味として「ぐっすり」が使われている。当時は鎖国時代であるし、英語からとは考えにくいというのがこんにちの定説である。
知識は所詮は何かの文献等から仕入れるものだが、その文献が事実でなければ間違った知識を身につけることになる。司馬遼太郎や吉川英治などは、収入のほとんどが古書、古文書などの購入費用というから、小説家といえども彼らの責任感として、歴史家に劣らぬ史実で書きたいのであろう。ネット時代の情報収集は便利であるが、便利は安易、安易は無責任といえる。
良いところもあるが、情報過多時代の情報というのは、間違いの宝庫といえる。個人が見聞きするのはたかが知れているし、その意味で情報は見聞を広めるけれども、情報がまったく入らなかった殺伐の時代に比すれば楽しからずである。実際に見たこと、見たものは事実というけれども、見た物を見たままに描写するのは結構難しく、主観を交えると嘘になってくる。
事実だけが人間の世界にあるのではなく、さまざまな次元の中に我々は生きている。「事実の世界」と「言葉の世界」とを区別し、人間の抽象レベルの相違を追及する学問もあるわけだが、「事実の世界」といっても、顕微鏡や望遠鏡レベル、肉眼のレベルと分けることもできる。肉眼のレベルもまた、知覚による捉え方、感覚による捉え方があり、感覚を事実でないとはいえない。
そもそも物質の実在というのは、人によって捉え方(感じ方)が違う以上、抽象の過程といえなくもない。具体的な物質の実在を全体として捉えることなどできないし、ある実在の側面が反映されているにすぎない。また、望遠鏡や顕微鏡といった、人間の神経組織で捉えられない実在も、抽象された世界であろう。事実という物は、実は認識の深化といっていい。
人の知識レベル、感覚レベルが違うように、認識レベルも変化するなら、何が事実であるのかということになる。小学生の夏休みの宿題の定番であった「朝顔の観察日記」(最近はあるかどうか知らない)は、それぞれの子どもによって違うものであった。例のSTAP細胞事件で、科学者の「実験日記」がいろいろ言われたが、小保方流実験日記も話題になった。
あれを科学者の「実験日記」というのか?子どもの「朝顔観察日記」レベルなら、彼女を科学者と呼ぶのが間違っていることになる。あれが原因で科学界から葬られることとなったが、スーパーの時給パートで生気を発散させて働けるような、つぶしの利かないエリートって、家にこもって親に食わせてもらうしかないのか?働かないなら育てた親の責任として面倒みるしかない。
エリートの語源は、ラテン語の「ligere」(選択する)で、「選ばれた者」を意味する。そういえば地元で最も偏差値の高い私立女子中では、入学式の校長の訓示として「あなた方は選ばれた人たちなのです」と言われたと聞いた。毎年同じことを言うのかはともかく、選ばれた人間には違いない。選別する受験問題に異論はあるが、選ぶためにくだらない問題も必要だ。
昨今の試験は選ぶためというより、落すための問題を作るらしい。それくらいに塾等で鍛えられてきた子どもには、少々の難問くらいでは差をつけるのが難しい。コレが塾の功績であるが、付け焼刃的なテクニックを覚えさせて、その子が頭がいいとどうしていえるのか?しかし、難関中学に入るためにはコレしか方法がないのである。それで小保方のように挫折したら?
まあいい、女性はいざとなれば永久就職という受け皿があるが、アラサー、アラフォーといわれるキャリアは、相手選びもままならず、昨今はアラフィフなどの女性も少なくない。これでは合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)は、0点台に突入することになる。いわゆる少子化の原因というのは、未婚化や晩婚化などに伴う晩産化や無産化である。
人間の世界は事実だけではないといったが、「言葉の世界」には詩や小説などの文学、そういった表現世界には映画・演劇がある。人が本を読みたくなったり、映画を観たくなるのはなぜだろうか?本日、『海街diary』という映画を観てきた。カンヌ映画祭出品作で賞には至らなかったが、この映画を観たいと思ったのは、映画のある場面の批判が凄まじかった理由も一つ。
その場面とは、ちゃぶ台で食事をする場面で長澤まさみ演じる佳乃が立膝をして食事をしているのを多くの人が強い口調で非難しているのを、そこまでいうべきことかとの反論もあって、映画を観た。日本人が日本人を批判して悪いなどはないが、自分的には看過できないえげつない批判があまりにも多かった。人が何をどう思うその事に批判をするのは好きではないが、ものには限度がある。
是枝裕和監督が立ち膝場面をわざわざ盛り込んだ意図は、映画を観ると分かるし、監督はそれでもツイッターで、「だからね、このカットはお姉ちゃんが妹に、「お行儀が悪いわよ」って注意をするシーンの一部なの。突っ込む為のフリとしての立て膝。ご理解いただけますか?と書いている。にもかかわらず、容赦ない批判はあきれる程多い。以下はその一部である。
◎役柄にしても、日本人の最小限のマナーは心得て欲しいですね。お女郎さんでもないし、あばずれの役柄でもない、普通のホームドラマの1シーンのようなので。しかも、「古き良き時代の日本女性」として宣伝されているようだし。
◎会社員がカバンを頭に乗せて歩けば「ナニやってんだお前」と笑われます。しかし、物を頭に乗せる風習の民族もいます。でも、日本ではまずあり得ない行動のように思え、前フリに使うには余りにも不自然で不適切。だから、どこか特定文化の影響かと疑うのです。
◎行儀が悪いにもほどがありますね。こんな恰好してごはん食べる人なんています?日本人で。肘ついてごはん食べるなって言うのはよくある話ですけど。行儀悪いの注意するなら、そっちでよかったんじゃないですか?
◎是枝監督のこの作品、前回もですがフジテレビが制作で入ってますよね。韓国の習慣をさりげなくアピールしたいのでしょうか。監督の言い訳も私には苦しく感じました。(略)映画に詳しくなくて知識がないのですが、素晴らしい監督さんなのでしょうか。
◎立膝の場面でこの映画の品位がどんと落ちます。食事の行儀の悪さを描くなら肘をついて食べるとか、ほかにも方法があったはずです。映画は絶対見ません。
◎まだ分別つかない小さな子どもが躾で注意されるならまだしも、いい年した大人が立て膝で“ついうっかり”食事して注意されるような設定に違和感を感じる人は多いと思いますよ。
◎ちゃぶ台を囲んで家族で食事をするような家庭環境・年代で、年頃の女の子が立膝で食べ物を口に運ぶようなことがあったら、「お行儀が悪い」どころか一同凍りついて声も出せないほど驚愕します。それほど異様な光景に見えます。
◎原作は良いのに、がっかり、、。映画化しなければ良かった、、、。
◎日本人は立膝で食事はしません。韓国の女は立膝で食事をしますね。スカートの下はノーパンとか。うす汚い習慣。監督の言い訳も変。正座から突っ込むための立膝の言い訳は苦しいね。
◎胡座や体育座りでも良かったのに、わざわざ特定の国の作法を連想させる立て膝にする意味がわからないし不快。
◎脚組んで頬杖ついて食事する人はよく見かけますが、立て膝で食事する人なんて見たことありませんけどね(^_^;)
◎製作者サイドの意図もおありでしょうが、見せられる方は実際不快になる。このシーンばかりあちらこちらで見ますし、意図的に宣伝に使われているように見えます。
日本人が日本人のことをここまで言わなきゃならないのか?というほどの言われようである。実際映画を観ると、綾瀬はるか演ずる長女役に長澤まさみは、「これ、あんた、足!」と、立て膝を注意されている。にもかかわらずである。是枝監督もそういっている。にもかかわらず、ここまで言わなきゃ気が済まないなら、「お前は聖人天使か!」といいたくなるような言葉の羅列である。
たったの数秒の場面で、こんなにいい映画を「観ない!」と、それは勝手だが、何で是枝監督はここまで言われなきゃいけないんだ?世界のクロサワこと黒澤明監督が、『椿三十郎』の血しぶきシーンで海外から、「日本の時代劇のヘモグロビンの噴射は、もうたくさんだ!」などと悪口を書きたてられたことは先に書いたが、日本人が日本人をボロクソにいう始末。
ボロクソ言われる理由があるならいいけれども、行儀の悪い所作を注意するシーンであるのが何で許されないのか理解できない。韓国がどうのこうのという拡大解釈もちと場違いに思えた。よってタカって非難の嵐をネットイナゴというが、凄まじきその暴力性である。是枝監督を擁護するわけではないが、意図を理解しないバカたれ連中に、は同胞として情けない。
言論統制などという大それた問題ではない、あまりのバカバカしい批判に憤慨ものだ。もういい、この件は。ブタに真珠だろうから。ところで、映画は良かった。何が良かったかと言われると、いろいろ良かった。映画を観ながら自分は、すべての役を演ずる人間の気持ちに同化しながら場面の行動やセリフの適合性を考えたりする。違和感を抱いたのは樹木希林の以下のセリフ。
「あの娘は妹は妹でも、あなたたちの家庭を壊した人の娘さんなんだからね」
これはちょっといただけないなと感じた。こんなことを普通、言うだろうか?浅野すずは三人姉妹の父が女を作って、離婚した腹違いの妹ではあるが、家庭を壊したのは父とその愛人であって、生まれた子どもに何の罪もない。そんなことは考えれば分かる事なのに、そんな言い方をするような性格設定なのだろうか?まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」がモロ出しである。
この映画は吉田秋生のマンガが原作である。以前、『櫻の園』を観た時、あとで吉田秋生の原作と知ってマンガを見たけどつまらなかった。マンガが好きでない事もあるのだろうか。『海街diary』はいい映画だったが、吉田秋生の原作は読む気はないし、映画で十分だ。この物語は家庭を捨てて去っていった父の、腹違いの妹と一緒に暮らすという、ありそうもない現実をモチーフにしている。
自分が時々思う、"いい人の相対性"についての命題がある。つまり、子にとってよくない父は、会社ではいい社員であったりする。逆に会社ではダメ社員が、家庭的で妻や子どもにとって、"いい父"であったりする。妻にとってダメ夫が、飲み屋のママさんには"いい客"であり、会社の女子社員にはいい上司であったりする。人の良し悪しは、視点によって変化する。
家庭を壊した父の子すずは、常に負い目を感じて生きている。三姉妹の父を知る大衆食堂「海猫食堂」の店主二ノ宮幸子がそんなすずにいう。「あなたのお父さんはきっといい人だよ。だって、あなたのような素敵な宝物を残してくれたんだもの…」。これは不思議な言葉で、すずという人柄を見た幸子の視点である。「私は宝物じゃありません」と、すずは自身の視点でそういった。
三姉妹の長女香田幸も、すずと少しばかり生活して感じたのだろう。映画の最後を飾る素敵な言葉を吐いた。「ろくでもない父だったけど、きっと優しい、いい人だったのかもしれない。だって、すずのような子を育てたんだから…」。自分たちにとってはダメな父でも、別の視点から見ると「いい父」だったのか。視野を広げることで、新たな父像を見つけたようだ。
視点を変えて物事を見ることはなかなかできないが、それをしたときに別の何かが見えてくるものだ。「視野を広げなさい」と、簡単にいうけれど、人に言われてはなかなかできない。家庭を捨てて去っていった父と、母から奪った憎き女ではあるが、二人の子に接してみて、そういう思いに至れたのは収穫である。現実にはあり得ないことだが、映画はそれを見せてくれる。
『日本人とヤダヨ人』という表題は、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』をもじったもので、イザヤ・ベンダサンは山本七平の偽名である。ユダヤ人の視点から眺めた日本人論としつつ、本当は日本人から見た日本人論である。文中有名な言葉は、「ユダヤ人にとっては、明日がどうなるかは絶対だれにもわからないので、明日の生き方は、全く新しく発明しなければならない」。
「日本人は水と安全はタダだと思っている」などがある。山本はユダヤ人を名乗った理由を明かしていない。『海街diary』という素敵な映画を、カスみたいにいう日本人もいるのは残念だ。「立て膝で食事をするような行儀の悪い日本人を描いた映画は観ない」というのは、そうならそうでいいけれども、なんだか、とてつもなく心狭き日本人に思えてならなかった。