安倍首相が遊説中に暴漢に背中をナイフで刺された。急所は外れたものの、一刻を争うという事で、たまたま近くにあった総合病院に搬送された。そこは共産党系の病院で、医師の多くは共産党員でもあった。首相の意識は明瞭で、言葉もハッキリしている。救急車のストレッチャーに乗せられて手術室へと運ばれる首相に向かって、ある医師がこのように声をかけた。
「首相、自分は共産党員ですが、今日一日だけは全員が自民党員になったつもりで頑張ります」。ジョークであろうが、同行していた官房長官が、「貴様、こんなときに悠長なジョークなんか言ってる場合か?不謹慎も甚だしいではないか」と、周囲に言葉を撒き散らし、「責任者を呼べ!ふざけた医師だ」と、怒りが抑えられず、その足で理事長室に駆け込んだ。
と、これはフィクションであるが、もし医師がそのようなジョークを吐いたら、こういう事態になったかもである。これを新聞報道で知った国民の多くは、「共産党にはふとどきな人間がいるな」とネット投稿や当該病院はもちろん、共産党本部に苦情電話がかかるだろう。委員長も党員の不謹慎な発言であったと遺憾の意を表明することになりかねない。
なぜこのような事態になるのか?それは日本だからである。では、なぜ日本人だとこのようになるのか?アメリカで以下の事件があった。1981年3月30日、ワシントンD.Cでアメリカのロナルド・レーガン大統領が銃撃された。銃撃直後にレーガンはシークレットサービスによって大統領専用車に押し込まれ、その直後は無傷と思われたために即座にホワイトハウスへ向かった。
しかし、その後に大統領専用車内でレーガンが吐血し併せて胸部に出血を認めたために、シークレットサービスの機転もあって、大統領専用車は近隣のジョージ・ワシントン大学病院に急行した。病院における検査の結果、弾丸はレーガンの心臓をかすめて肺の奥深くで止まっており、かなりの内出血を起していた。その後即座に緊急手術を受けることになる。
レーガンは出血を伴う重傷を負っていたにもかかわらず意識ははっきりしており、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対して、「あなた方がみな共和党員だといいんだがねぇ」とジョークを飛ばす余裕さえ見せた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と答え、レーガンを喜ばせたという。
また、レーガンは入院中にも見舞いに訪れた妻のナンシーにも、「Honey, I forgot to duck.(避けるのを忘れてたよ)」とジョークを飛ばすなど、陽気な性格の一面をみせた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」である。
余談だが、デンプシーは一年後にタニーと再試合を行ったが、7回にタニーから強烈なダウンを奪った。ところが、ルール改正によりニュートラルコーナーへ行くことを忘れていたデンプシーは、レフェリーに注意を受けるなど、その間カウントが数えられなかったために、タニーはカウント8(実質20カウントといわれている)で立ち上がってしまった。
結局この時点でKOできなかったデンプシーは、8回にダウンを奪い返され前回と同様判定負けを喫してしまった。この試合は「ロングカウント事件」としてボクシング史にその名を刻んでいる。運悪く勝利を得ることはできなかったデンプシーの苦悩は想像できるが、彼はそのときに言った。「I'm not going to live in the past.(俺は過去に生きるつもりはない)」。
引退後は、一時期プロモーターを務めていたが、現役時代から付き合いのあったアル・カポネの一味が八百長試合をけしかけるなど、試合に口を出すようになったことに嫌気がさし、プロモーター業に見切りをつけ、レストランやホテルの経営に乗り出した。当時のしがらみもあり、裏組織と手を切ることはできなかったが、デンプシーは男気のある人間だった。
マンガ『はじめの一歩』の主人公、幕之内一歩のデンプシーロールという必殺技である。デンプシーは魅力的な人間だが、人にはそれぞれ、さまざまな魅力がある。レーガンの魅力は、頭の良さに加え、機智や茶目っ気ももっていた。それが、史上最大の地滑り的勝利をもたらすほどに全米を魅了した。これらは後の8年間の政権を通じて変わることがなかった。
政策の失敗やスキャンダルなどでホワイトハウスが叩かれても、比較的高いレーガンの支持率は急落することがなかったのも、彼の「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。アメリカ歴代大統領の人気調査は年を変えて行われているが、ジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーン、フランクリン・ルーズベルトの3人は、常に不動である。
レーガンも人気は高く、最高位は8位で、これはケネディの最高順位と同じである。クリントンも近年では人気の高い大統領で、その理由は、彼らの時代に生活が楽になった事が挙げられる。とりわけレーガンは、70年代は、ベトナム戦争の終結や、石油ショック、ウォーターゲート事件などで低迷したアメリカ経済は、80年代には目に見えて生活が豊かになった。
レーガン政権前のカーターやニクソンが不人気すぎたという事情もあるが、レーガンは才知ある大統領であった。彼は政策のキーパーソンを厳選し、優れた専門家集団に任せその舵取りができる才能があった。元俳優という武器を用いて国民との対話で手腕を発揮した。実は、日本人も80年代のアメリカが大好きだったし、ロス五輪は最高にして強烈な印象が残っている。
世界の多くの人がアメリカに憧れるような、そんなアメリカをレーガンは作った。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、1955年時代のドクに出会ったマーティが、「1985年の大統領は誰だ?」と聞かれ、「ロナルド・レーガンだ」というと、「あのへぼ役者のレーガン? じゃあ副大統領はジェリー・ルイス? ファーストレディはジェーン・ワイマンか?」
などとドクは馬鹿にした言い草で、レーガン大統領を信じない場面がある。もっともこれらはロナルド・レーガン大統領と、彼が映画俳優出身であったことを知らない観衆には、何のことやらさっぱりわからないし、笑いも取れなかったろうが、日本風にいえば、「ええっ?総理大臣がビートたけしで、副総理が明石屋さんまか?」と、言ったところだろう。
レーガンを茶化していると言われたが、レーガンはこの場面を気に入り、一般教書演説に引用した。「私はアメリカのより若い世代の皆さんに率直に申し上げたい。なぜなら、あなたがたこそ我々の合衆国の将来を担っているからです。(中略) 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で述べられているように、我々がこれから行こうとする場所には、道など必要ないのです。」
ネアカのアメリカ人にユーモアは必須である。ユーモア(Humor)とは何?ユーモア(Humor)の語源は、Humanという説もあり、ユーモアは人間だけに与えられ、人間そのものであろう。イヌやネコやウシなどの行動や素振りがユーモアに満ちていても、人間がそう感じているだけで、本人(?)たちは何ら意識にない。人間と人間に必須の潤滑油としてのユーモア。
ユーモアを理解したり、創造したりするには、言葉の教養が必要かも知れないが、柔らかい思考をする人なら自然と発せられるはずだ。相手を思いやり、同じ人間として、自分と相手を対等の階梯に置く人なら、自然とユーモアは導かれる。大人と子ども、老人と若者、王様と乞食がユーモアでつながることはできる。ところで、オヤジギャグはユーモアか?
面白い人間は仕事が出来る人間であろう。理由は、つまらぬ物を面白く変える力を有するから面白い人間であり、ならば仕事も楽しくやるであろう。ギスギスと堅苦しく、何の面白みもない人間よりも面白い人間の方が一緒にいて楽しい。嫌な世を楽しく、つまらない日常を楽しく変えてくれるからだ。オヤジギャグを連発するオヤジも、そんな面白い人間の範疇か?
「違うな!」、似て非也である。人間として面白い人、ユーモアをもって仕事をする人、いろんなタイプがあると思うが、自分の思う「面白い人間」、「ユニークな人間」は、適度に笑いどころがある話術を持ち、しかも話題も豊富なので、いろんなタイプの人を楽しませることが出来る。AにはAの、BにはBの、CにはCの引き出しが用意できる柔軟性がある。
かつ面白い人間は、自分が楽しもうとしていること。ユーモアも同じように他人に向けたものではない。ウケ狙いのオヤジギャグとは一線を画すし、押し付けがましいオヤジギャグは嫌われる元凶である。同じオヤジギャグでも、これ見よがしな言い方でなく、さらりというならまだしもだが、押し付けはよくないからといって、一人でギャグってる人間も「変な人」である。
お笑い芸人は商売であるが、これにもランクがあり、人を笑わせようと必死になったり、しゃか力になったり、バカなことをやったりばかりを続けると無残である。最初の1、2回なら笑いを取れる場合もあるが…。「芸の達人」はオーバーな言い方かもだが、無理して人を笑わせようとするのではなく、自分が面白いことを考えて披露することこそ、面白いの基本であろう。
自分が面白いから他人も面白いとは限らないが、バカげたこと=面白いことではない。芸人は職業ゆえにそこが大変であろうが、職業芸人でない一般人なら、最低は自分が面白いと思うことを、人のためにではなく、自ら楽しむつまりでやる人が面白い人であろう。(ウケねらいの)オヤジギャグは止めて、ユーモア精神を学び、身につけることが大切だ。
「遊戯性」の人は遊び心をもち、好奇心も強い。人生を様々な角度から楽しむ生き方をする。他方、「現実性」の強い人は、その名のとおり現実的なものの見方、考え方を貫く人。これが高じて伝統や権威にしがみつく権威主義者になりやすい。融通性の利かない人もこの範疇だ。遊興心ある柔軟な人は相手に合わせられるが、融通の利かない人は遊興心ある人に合わせられない。
だからそういう人を「ふざけてる」、「不真面目」などと批判する。自分が正しいと思うだけでは気が済まず、批判までして己の正しさを強調する。これらの批判を相手にしない方がいいし、基本は放っておくが、時たま融通性のなさを指摘してやりたくなる。本人のためと思って言うにしても、本人は自分の思う本人が正しいのだから、他人の意見に腹を立てたりする。
同じ民族でも生育環境によって、価値基準は変わる。人は、自分の育ってきたものが正しいと思うが、自分を育てた親を間違っていると思わない人はいる。親や教師や周囲は正しいものだけを与えてくれるだけの人ではないのだし、正しいものと同等に間違ったものも押し付けてくる。それをキチンと見極めて、咀嚼し、価値判断をするのが正解であろう。
「親や教師は正しく、間違っていない」は、間違っている。そういう人間は権威主義に惹かれていくであろう。「神は絶対者である。ゆえにすべてが正しい」と、コレは信仰であって、無神論者は、「神だって間違える」とは言わない。そもそも存在しない神に責任追及はしない。一般社会でありがちなのは、自国と他国を比べて、「それはオカシイ」といっても、それが文化であったりする。
上の画像は日本の首相とアメリカの大統領、いわゆる日米首脳会談の一コマだが、何か気づくことがないだろうか?「日本の首相は足など組まず、みなさんお行儀がいい」と感じるか、「日本の首相はなんだか遠慮気味でまるで、アメリカ親分の子分のようだ」と感じるか、「日本は見るからにアメリカの属国だ、みたいな主従関係丸出し」と思うか、人それぞれだろう。
いや、首相に限らず、日本のサラリーマンが、得意先の社長の前でこんな足組はしないだろう。相手がそうしてもしないはずだ。理由は、「横柄だ」、「行儀場悪い」、「非礼な態度」ということになる。腕組もしないだろう。天皇陛下の前で足を組んだエクアドルのラファエル・コレア大統領は、「日本に来る前にマナーくらいは勉強しろ」と非難轟々であった。
エクアドルはどうか分らないが、アメリカ人が足を組むのはチャンと理由がある。これは日本とはまったく逆の考え方で、足を開いて座るのが、無用心、だらしが無いという考えらしい。それと、急所を守る為に足を組むのだという。日本人にも、「足を組むなどとんでもない!」とか、「足組=非礼、と結びつけるのはどうか?」という人もいようが、"急所を守る"発想はない。
そもそも椅子の文化はあちらの様式の輸入だから、あちらの考え方でいいと思うが、どうしても、「非礼だ、許せん!」というなら、いっそのこと外国の要人はみな和室で接待し、畳の上に正座させるがよいかもしれない。それをしないのであらば、外国では非礼にあたらない足組を許容すべき。もしくは、「陛下、キンタマ守るために、足をお組下さい」と言ってみるか?