13日午前8時50分ごろ、岐阜県恵那市長島町正家の阿木川ダムで、乳児が湖面に浮いているのを、釣りをしていた男性が見つけて110番した。恵那署が死亡を確認した。14日に司法解剖し、詳しい死因を調べる。乳児は同県中津川市の男性会社員(33)の生後4カ月の長女。目立った外傷はなく、服を着た状態だった。ダムから約800メートル南にある公園で、母親(24)の乗用車が見つかった。
無理心中の可能性があるとみて、母親の行方を捜している。車内には、「ごめんなさい」との趣旨が書かれたメモが残されていた。争った形跡はなかったという。父親が最後に2人の姿を見たのは、12日朝の出勤前で、仕事から帰ってきたときには妻と女児は自宅にいなかったと話している。遺体発見現場はJR恵那駅から南東に約4キロの、阿木川と岩村川が流れ込むダム湖。
28日午前1時15分ごろ、秋田県北秋田市脇神の民家で住人の無職千葉友紀子さん(41)が倒れているのを弟が見つけ、110番した。友紀子さんはひも状のもので首を絞められたような痕があり、現場で死亡が確認された。県警北秋田署は殺人事件の可能性が高いとみて、手首を切って搬送された60代の母親の回復を待って事情を聴く。
同署によると、友紀子さんは母親の順子さん、弟夫婦とその長女の5人暮らし。28日未明、母親から外出していた友紀子さんの弟夫妻に、「娘を殺した。死のうと思っている」という趣旨の電話があった。帰宅した弟が、1階の浴室で服を着た状態であおむけに倒れている友紀子さんを発見した。母親は両手首を切った状態で同市内で見つかり、病院に搬送された。
命に別条ないとのことだが、近所の人の話では、友紀子さんはダウン症で、養護学校を卒業している。約15年前に夫をがんで亡くした順子さん、数年前に同居を始めた弟家族の献身的な介護の下、穏やかに暮らしていたという。同署は、順子さんの回復を待って事情を聴くとしているが、障害者を子に持つ親の苦悩…。竹中直人主演の『くちづけ』が頭を過ぎった。
実際に持ってみなければ分らないのか?そうはいっても、障害者をもつ親であれ、キチンと育てている例は多いわけだから、となると親の思いの違いということだ。知的障害のある子を在宅でみていて、障害者本人が40代~50代、親が60代~80代と年齢が高く、父親不在で母親一人が主たる介護者の場合、子を残して自分だけ先に逝けないといった理由での殺害はある。
その是非も親の意識の問題である。是非とは、殺すかどうかの是非ではなく、高齢介護者が、障害者である子どもの先行きをどのように考えるかとの意味で、実際に介護に携わらない人間が、「介護者の気持ちは分かる」とか、「障害児だからと言え命は尊い」などの軽々な言葉はあまり感心できないので避ける。この問題はなかなか同化できにくい部分はある。
医師であったり東大卒であったりの親が、子どもに無理やり勉強を強制するのとは違う。ただ、前日の27日に北海道で同じようなケースがあった。以下は記事。「自閉症の娘を殺害したとして、北海道警は28日、札幌市西区無職佐藤和子容疑者(64)を殺人の疑いで逮捕した。佐藤容疑者は「自分が死んだら自閉症の娘が1人になるのが不憫だった」と供述しているという。
道警によると、佐藤容疑者は27日午前11時ごろ、自宅で娘の由紀子さん(42)の首を刃物で刺して殺害した疑いがある。由紀子さんは首に複数の傷があり、部屋のベッドで血を流して倒れていたという。佐藤容疑者は犯行後、妹に電話で、「娘を殺した」と連絡。その後、行方がわからなくなっていたが、同日夕方、北海道石狩市内で捜査員に発見された。
佐藤容疑者の首には刃物で切ったような傷があり、道警は、無理心中を図った可能性もある。由紀子さんは北海道江別市内の障害者支援施設に入所。平日はこの施設で暮らし、週末に自宅に戻る生活だった。16日に帰宅して以降、施設に戻っていなかったという。秋田の犯行は翌日であるところから、北海道の事件の触発された可能性はあるのかも知れない。
一点違うのは、秋田は自宅介護、北海道は施設に入所である。他人が軽々に発言するようなことではないと思うが、どちらも40年育てた結果が子殺しという犯罪者になってしまったのはいたわしい。執行猶予の是非の問題もあろうが、それならちゃんと育てている親もいる訳だし。障害者年金や福祉制度で、障害者が生きていくのは可能だと思うのだが。
不憫に思うのは、それらとは違う思うもあろうと推察する。穿った見方をすれば、「娘が不憫で…」というのは実は口実で、介護疲れの自分を憐れに思うこともあり得る。確かに介護はされる側の負担より、する側の心労ばかりが問題にされる。それは事実であろうが、障害をもって生まれた子には、何の罪も咎もないとの思いが、大きく寄与するように思う。
「自閉症」とあるが、施設に入所するくらいだから、カナー症候群と推察する。アスペルガー症候群と違ってカナーは知的障害を伴い、通常自閉症といったら、重度の知的障害を伴ったカナー症候群を指すことが多い。秋田も北海道も、いずれも殺害した母親は自殺を計るも死にきれなかった。秋田の母は手首を、北海道の母は首を切ったというが、軽症である。
無理心中を図ったが、相手を刺し殺して自分は死ぬのが怖くなったというのも無責任であり、まあ、本気で死ぬなら手首よりも首を切るし、首を切った母親も本当に死ぬ気なら一気に深く切るであろう。死ねなかった場合は、罪人として収監され、囚人暮らしをすることくらいは頭に浮かぶだろうが、死ぬくらいなら監獄で暮らす方がいいと相成り、逮捕されたと見る。
「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは『戦陣訓』であり、「死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」と続く。これは、昭和16年に当時陸軍大臣だった東條英機が示達したもので、「恥を知るものは強し。常に郷党家門のの面目を思い、愈々(いよいよ)奮励して其の期待に答うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。」とある。
「死すべき時に死なずして、生き残って捕虜としての恥辱を受けてはならぬ。又、死後に罪人の汚れた名を残してはならぬ。」という意味だが、「罪禍」とは何をいうのか?捕らえられて拷問に遭い、秘密を明かすようなことになれば、死後にも汚名を残すことになるので、そうならぬうちに死ぬことだ。と戒めている。兵士は拷問の厳しさ等が頭を過ぎったことだろう。
潔く自決というより、死より拷問を怖れたのではないかと察する。死より怖いものが死を選んだとの言い方は、臆病者に聞こえるが、人間は当然にして臆病だから、怖がれば死ねる。すべては想像の範疇であるが、娘を殺して死なない母は、臆病者というよりしたたか者と見る。責任感という理性すらもない。本当に不憫に思ったなら、命を奪った責任を取れといいたい。
それができず、だから「不憫」は口実で我が身かわいさという理解は、自分的には必然の思考だ。自分が可愛いのに、何かと人のせいにしたり、口実をいう人間の言葉は信用できない。人を一人殺しても自分の命を取られることはないという考えが、人を安易に殺す理由になっている部分はあろう。死刑廃止論者は、死刑という極刑が犯罪の抑止なっていないとデータをあげる。
確かに飲酒運転の罰則(罰金)強化をしたところで、飲酒運転はなくならないが、確実に減っているのは事実であろう。「飲酒運転で捕まったら、罰金が高額だよ」と言ったところで相手はトラだ。「てやんでー、ばかやろう。ポリが怖くて酒が飲めるか」というのはいる。威勢のいいのとバカにはどんな罰則も意味はないが、「罰金高いからやめとこ」という理性者はいる。
「飲んだら乗るな!」というスローガンはあれど、「飲酒運転」というが、「酒酔い運転」、「酒気帯び運転」などど区分されている。確かに一升飲んでも酔わないで運転に支障のないものと、コップ一杯のビールで酔う人間とは違うけれども、「飲酒運転」の目的があくまで、"運転に支障のないこと"であるなら、酒を飲んで運転するのは御法度にはならない。
同じように、人の命を奪ったものは「死刑」としたなら、「一人殺したくらいでは大丈夫」という安易さも消滅する。が、人を殺したとしても、「故意」と「過失」を同等に扱えないとするのも正しい。そこに動機が加わると、「情状酌量」ということも考えなければならない。が、問題なのはこれらの温情を特典として、利用する人間もいる。それが殺人を減らさない。
特に「15歳以下なら何をしても犯罪にならない、刑に服することなどない」とタカをくくった少年たちがいた。永山則夫の時代はそういった情報化社会ではなかったし、彼には生い立ちなどの生育環境は、酒鬼薔薇などとは比較にならない荒んであったが、「永山基準」などと言われて、死刑の判断基準とされたのだ。基準がないと裁判官もやってられん、ということか。
日本は比較的殺人に寛容なお国であり、日本の裁判官は執行猶予が大好きであるからか、一人二人が死んだくらいでは、裁判官もなかなか極刑を言い渡さない。裁判官の判断が決して正しいのではなく、裁判官は自らに正しいと思われる判断をするに過ぎない。だから世間知らずのおバカ裁判官による、おバカな判決というのがいくつも出されるということ。
「道徳」や「倫理」は、普遍的で客観的で絶対的なものではない以上、絶対的な「善」も「正義」も存在しない。だから人間は神を頼ってしまう。「神は間違わない」、「神のお告げは正しい」と、ありもしない「お告げ」を模索する。神を信じる者、信じない者、それら共通の思いは、「もし、神がいるなら、なぜ、不幸はなくならないのか」という疑問であろう。
正直な善人が損をし、早死にし、神を信じる宣教師が投獄され悲惨な死をとげる。戦争、飢餓、自殺、犯罪は増え続けている。クリスチャン作家遠藤周作の『沈黙』は、徳川幕府により、キリシタンの村が焼き払われてたのを見た宣教師がいう。「あなたは何故、すべてを放っておかれたのですか…、我々があなたのために作った村でさえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。
人々が追い払われる時も、あなたは彼らに勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。なぜ。そのなぜかという理由だけでも教えてください」。スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンは、1950年から1960年代にかけて活躍、世界的名声を博した巨匠で、彼にも『沈黙』という作品がある。これは、「神の沈黙」三部作の最後の作品である。
第一作は、『鏡の中にある如く』(1961年)、第二作が、『冬の光』(1962年)、そして第三作が、『沈黙』(1963年)である。自分は『沈黙』だけを観たが、キューブリックに負けず劣らぬ難解な作品である。一言でいうなら、「光と闇」の拮抗する欧州人の苦悩、キリスト教が個人の精神世界を支配し、侵食した、そんな風土の地に生きる人たちの葛藤のドラマである。
キリスト教文化圏に生きる人々にとっては、まぎれもない「神の沈黙」映画であろう。無神論者にすれば神などいないから沈黙もへちまもない。お戯れ好きな神が、人間を苦しめ、もて遊んでて面白がっている、そんな感慨だ。『沈黙』はキリスト教批判の問題作と言われている。ベルイマンは、「神の沈黙」三部作の前年、こちらも問題作、『処女の泉』を公開している。
舞台は土着信仰とキリスト教が混在する中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータと一人娘のカリン。一家は敬虔なクリスチャンだが、一家の養女であるインゲリは、密かに異教の神オーディンを信奉し、苦労知らずに育ったカリンを呪詛している。ある日、穢れを知らぬカリンがレイプされ命を奪われる。テーレは娘の死と彼自身の冷酷な復讐を看過した神を糾弾する。
神の無慈悲に絶望しながらも、それでもなお神の救済を求めるテーレは、娘の遺体の側に罪滅ぼしのために教会を建設することを約束する。というものだが、どんなに敬虔な信者でも神は容赦ない。信仰は一方的に捧げるもので、ご利益を求めるものでないのは分かるが、あえて不幸に突き落とされるのが理解にそぐわない。神はまさに沈黙である。
何があろうとも、声を発しない。「声を聴かせよ!」というのが人間の傲慢なのだろう。何があろうとも、得たいの知れないものを信じるのが信仰であるなら、沈黙すべきは信者である。「沈黙」とは、「沈思黙考」の略語なら、沈思黙考とは、"黙って深く考えろ"の意である。ならば信仰とは、何があろうと、いかなることがあろうとも、揺るがぬものであろう。
使徒パウロは、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と教えている(ヘブル 11:1)。アルマも同じようなことを言っている。「もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実のことを待ち望むのである。」(アルマ 32:21)。まだ見ぬ事実がどんなものであれ、それを待ち望み、確信するのが信仰であるらしい。
我に信仰心は露ほどもないが、まだ見ぬことを待ち望み、まだ見ぬ事実を当たり前に受け入れよって、普通はそうじゃないのか?広島カープは昨日に引き続いて今日も勝ってくれるはずだ。もちろん、負けてもその事実は受け入れるが、これって信仰なのか?よく分かりませんね~。宗教も、信仰も…。こちらの方は、自殺や心中ほどにあんまり分かりたいと思わない。
現象というより、自己への問いであろうから、分かるとか分らないとかの問題ではなかろう。では聞くが、さりとて自らに信じれるものって何だろう?何か、こう、カッコよく「○○を信じてる」というものは、ちょっと考えて見たが浮かばない。それでは示しがつかないから、「信じるものは、約束を守った人。信じないのは、約束を守らなかった人。」とでも言っておこう。