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「執着心」

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イメージ 1「スピリチュアル」というのは本来、黒人霊歌のことをいい、「ニグロ・スピリチュアル」ともいった。霊的な意味の「スピリチュアル」は、本当は「スピリチュアリティ」というが、日本語化して「スピリチュアル」と呼んでいる。この国の法則にのっとって最近は「スピ系」と略されている。霊だの霊的だのは、自分とは全く縁遠い世界で、何の興味も抱かなかった。丹波哲郎が「霊界の使者」などと戯言を言ってたときも、好きな俳優だっただけに「何やってるんだい」という感じだった。分らぬ世界の事をしたり顔で見聞きしたかのようにいう人間を自分は信じない。そもそもスピリチュアリズムは、導師によっても意見が乱舞する世界。まるで宗教と同じで宗派や教義によって異なり、カルト宗教同然なものから優れた思想まで実に幅が広い。

見えないものの拠り所は信じる以外にないが、「真理の門は狭き門である」、ということをイエスが言ったという。霊的に正しい道とはそういうものなのだろうが、危惧されるべくは、霊的に危険な教えもある点だ。ある少年の事件を契機に、テレビでスピリチュアリズムを煽らなくなったのは、正しい判断と思う。大槻教授などがどう頑張っても否定はされなかった。
 
「ない」ものを「ない」と否定するのは誰でもできるが、「ない」ものを「ない」と証明するのは大変だ。「ない」ものを「ない」と証明されないかぎり「ない」と言えない不文律がある。「罪」とそうである。立証されないかぎり「罪」は「罪」とならない。「疑わしきは罰せず」ことこそ法の論理である。自分は若い時分にこの考えが納得できなかった。
 
「ない」ものは「ない」んだから、「ある」というヤツが論拠を示せ、証拠を見せろと楯突いた。神がいるなら存在理由を証明せよと…。ところが哲学的「神の存在証明」に触れたとき、論理的に納得せざるを得なかった。可能性という点においてはすべての否定論拠は成り立たない。無限にゼロに近い事象であってもそれはゼロとはならない、これが科学の基本である。
 
イメージ 2つまり、神は科学的論拠に立っても存在は否定できない。「神秘主義」とは絶対者(神)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場で、様々な肯定・否定意見がある。生化学者でSF作家のアイザック・アシモフは、「神秘主義」を否定し、神の創造がなくても生命は発生できるというエッセイを発表した際、読者から反論を受け取る。「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されることは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたと考えると、その構成パターンは3×10の724乗。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×10の63乗なので、3×10の724乗と比べればゼロに等しい。
 
ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する」。これは神の目的論的存在証明の一種でる。アシモフはこれに対して、「現在までに存在したDNA分子のパターンだけで、有用な組み合わせ全てを使い尽くしたわけではない。この宇宙に存在しない別の組み合わせであっても、別の生命に至るのではないか」と反論した。神の存在証明はカントの4種類に従っている。
 
◎ 目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
 
◎ 本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
 
◎ 宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の…と遡って行くと根本原因がある。この根本原因こそが神。
 
◎ 道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。
 
まあ、神の問題は関わりたい人に任すとし、スピリチュアリズムも興味の対象にないとしても、巷でいうところの、「スピ系だと執着を無くす」とか何だとか言われていることには大いに疑問を呈す。まず、スピリチュアルの情報は、信用できるものと出来ないものの差が、天と地ほどにある。幸福になるか、不幸のどん底に落ちるか、決め手になる資料が隣においてある。
 
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日本は正しい宗教、正しい哲学が弱く、これといった倫理や心の道標がないので、スピ系の資料が読者受けが良いというなら玉石混交だ。いいことばかり書いてある資料に、重大な過ちがたちまちは分らないように入っているケースが意外と多い。その点ではカルト宗教も同じ。きらびやかな文体に美辞麗句、どこの誰かも判明しない体験談など、詐欺商法と変わりない。
 
判断材料を数々あげても、丸め込まれるのがオチだから意味はないのだが、確実なことを一つ上げると、大金を要求する導師、占い師、霊媒、カウンセラーは偽物だと思うこと。偽者が必ず用いる言葉、「スピリチュアルと言っても金儲けや偽者が多いからね」と、この言葉に騙されない。他者を見下すことで自分を真実だと、この論法には注意することだ。
 
執着は渇望を生み苦悩を生み出す元であります。「嘘つきはかならず、自分は嘘はいわない」という嘘を言う。自分は嘘を言わないという言葉を発する人間は100%嘘つきである。だいたい、人間が嘘を言わないはずがないし、本当に嘘を言わない人間は、言葉ではなく行動で示すものだ。おまけに、「嘘は言わない」というような恥知らずな言葉を吐けないものだ。
 
あることを「これは嘘じゃない」と前置き、後置きする必要はない。自分が淡々と真実を述べればそれでいだけなのに、きいてもいない相手にそんなことをいう必要があろう。嘘をついてるかどうかを見分けるコツは一つしかない。正直な人間とたくさん交わることだ。嘘を見破るためには嘘の経験をたくさんしたではなく、正直者の真髄に触れることだな。
 
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そうすると、嘘つきがあまりに違いすぎると言うのがよく分る。嘘をつかない人間を「正直者」というが、自分にはそういう感覚はないし、思ったこともない。嘘をつかない人間は「純粋さ」を失っていない。知略がないから役には立たないが、信用がおけるから側においておきたい種である。人にも自分にも猜疑心や疑念を持たない、持たれない関係がいちばんかと。
 
母親という存在から始まって、嘘に懲り、嘘に傷つき、嘘に苦悩した過去を思えば、嘘のない人間関係ほど素晴らしいものはないと実感する。人を嵌めるような嘘をつく人間は、おそらく嘘を言うのがクセなのだろう。世の中や人間関係が信頼や真実で回っているなど目くそほども思ってない、そういう人間に見える。嘘をつかないで生きるコツは無理せず自然にである。
 
「泰然自若」の心境だ。上手い話を持ってくる人間なんか、どうして信じるのだ?お前が欲だからだ。人に褒められてなんで舞い上がる?それも欲だからだ。前者は相手にせずに丁重に断り、後者は礼を述べておればいいこと。ホンネとタテマエは社会の必要悪だから利用も必要だ。人に好き嫌いをもたず、人を愛すが嫌う相手には遠慮なく意思を伝えればいい。
 
曖昧にすると、嫌いな相手になつかれ、困ったことにもなる。出会いも別れも必要だし、それを取捨選択という。相手を裏切る意思など毛頭ないなら、同じような相手を見つけること。人に売られる(裏切られる)苦悩は並大抵ではない。犬や猫などのペットを飼う人は、動物が自分を裏切らないことを知っている。「腹に一物」の人間関係より傾注するものがあるだろう。
 
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如何に装い、如何に善人ぶっても人の腹は読めるもの。それが見えたときに離別をしておけば傷は深まらない。人間は50年くらい生きないと、そこは難しいだろう。その人の発するタダの一言、一動作だけで見えるものがある。それは人間関係を熱心にやることで身につけられる。人は必ず嘘をついているもの。隠された本質、本性は間違いなく見抜ける。
 
そのためにはこちらが自然でいること、自然にふるまうこと。人間は己の行動を通して、何が不自然で、どのような嘘が混在しやすいかを知っている。だから、自然に生きている人間なら、人の不自然さと言うのは手に取るように分ってくる。相手がどんな言葉を添えようと、心にもない言葉は得てして強調され易い。その一点において、相手は不自然である。
 
すべて一切はこちらが是々非々に素直に、自然に生きてみて分かる事。吉田拓郎は『イメージの詩』の歌詞にこう書いている。「誰かがいってたぜ俺は人間として自然に生きているんだと、自然に生きてるってわかるなんて何て不自然なんだろう」長い間、この言葉がキーワードだった。"自然に生きてるって分るなんて何て不自然なんだろう"と、この部分に異論があった。
 
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そこで考えたのは、"自然に生きてるってわかるなんて"ではなく、自らが"自然に生きたい"、"自然に生きよう"と積極的になればいいのだと。拓郎は人から「お前は自然に生きてる」といわれ、「何でお前にそんなことがわかるんだ?」という意味で、不自然なことだと思ったのだろうが、意思をもてばいいことで、他人にどう映ろうと気にすることではない。
 
要は自身の問題だ。なかなか自分のことを思考するのは難しい。頭で考えることを文字にするのは、さらなる難しい。感情を理性に置き換える論理が必要になる。多くの女は言うだろう。「理屈をこね回さないで、感覚で生きたら?」、そんな事は誰でもできる。そうしか出来ないことを正当化するのも女の特質。例えば、ピカソやゴッホの「絵画」をどう見るか?
 
誰がみても感性の割合が強いと感じる。が、実は彼らは論理的に描いているかもしれないがそこは知る由もない。如何に感性重視のクリエイティブな営みといえど、論理と感性の最適な配分で混ざり合い、組み合わさっている。感性の比率が高いと分りづらいのは、他人だから当然だ。学者や研究者の論文も広い意味では創作物だが、99%以上が論理的に作られている。
 
当たり前。そうでなくては読み手が理解できない。ベートーベンの楽譜に感性の微塵も感じないし、アレは論理の構築だ。ところがでてくる音楽は情感豊かである。それはつまりはこう言う事。最初に楽譜ありきではない。頭で鳴っている音楽を論理的に図形化したものだ。したがって、プロがあの楽譜を見ると実際にピアノやオケで音を出さなくても感性に浸れる。
 
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かつて、ホロヴィッツの名言を思い出す。「音楽は五線上の白い点、黒い点を追うものではない。その奥にあるものを引き出すこと」。彼らに言わせると、記譜された音符や音楽的記号が音楽ではないということ。天才の想像力は、楽譜に記されてないものの表現を求めているのだと。音楽家は職業的な意味以上に、実は音楽に執着心を抱いているようだ。
 
仕事だからやるというのは、芸術家の発想にない。人間はお金や名誉や富など、多くのものに執着して生きている。人妻は夫以外の恋人に、夫は妻以外の愛人にご熱心だったりする。研究や学問に取り付かれた学者もいれば、揺るがぬ事業欲に取り付かれた孫正義、柳井正らの名が浮かぶ。もっとも、人間が何より執着するのは己の生命にだろうし、命あっての物種だ。
 
スピ系が執着心を取るというのは、実は命に関してである。スピ系の本を読むことによって死後の世界についての実感・リアリティーを手に取るように感じることができる。スピリチュアリズム普及計画の一環として、高級霊の意図のもとで展開された興味深い霊界通信。などのキャッチコピーを読むと、死後の世界に憧れを抱く人がいても不思議でない気もする。
 
「さあ、あなたも死後の世界へ」と誘うわけでもないのだろうが、生の執着をなくし、死の恐怖から解放されるのはいいが、そのあたりの混同に懸念がある。2006年12月、中学2年生の少年が「絶対におれは生まれ変わる。もっとできる人間になってくる」などと書き置きして飛び降り自殺した。少年の手紙には霊界の話を紹介するテレビ番組に触れられていた。
 
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「生」への執着は、さまざまな渇望を生むし、苦悩を生み出す元であるけれども、それでも生きていかねばならないのは義務かなと。かつて日本には「死ぬ義務がある」という時代があった。国家が民の生きる権利を保障するでなく、一億国民みな死ぬ義務があるなどと、何という不幸な時代に生を受けた人たち。昨今、「生きる義務はない」とのたまうヤツがいる。
 
生きる義務があると思う者にはあるんだよ。死ぬ権利はないというならない。すべては自分で決めること。なのに、義務として死ね、若者の未来を閉ざし、死を強要する不幸な時代に胸が痛む。安穏とした時代にあって、平和に惰眠を貪る輩は、「生きる義務はない」、そんな程度の発想しかないんだろう。権利としてでなく、義務としての生を感じてみよう。
 

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