現代社会において、「忠誠心」なんて言葉が一体どこに存在するのか?国家や会社に「忠誠」を尽くすとはどういうことか?国から離脱して海外に移住するのはもはや「忠誠心」は消えたことになる。会社に対する「忠誠心」も同様、退職すれば忠誠もクソもない。となると、忠誠とは国家や会社に忠実に仕えることであるが、忠実とはどういうものなのか?
言われてみると曖昧な「忠実」なる言葉の理解を進めるために、「忠犬ハチ公」について考える。あの犬はどうして忠犬と言われたのかといえば、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷の駅前で7年間も待ち続けたという美談からついた俗称。というのは映画にもなって知ってる人も少なくないが、もしこれが猫のタマだったら、「忠猫タマ公」と言われたのだろうか?
豚のトン吉だったら、「忠豚トン吉」と言われたのだろうか?まあ、豚が毎日渋谷の駅前に現れる事はないが、犬が7年も飼い主を待ったというのは、飼い主がもはやこの世に存在しなくなったという想像力を犬が持たなかったからだろうが、「それをいっちゃ~オシマイ」というほどに、それが犬の知能なのだ。もし、本当に賢い犬なら数カ月で止めたかも知れん。
「それを賢いといっちゃ~オシメ~よ」との声も聞こえて来そうだが、忠犬=忠実な犬というのは、あくまで犬の知能レベルを人間が情緒的に解したのだろう。科学的に思考するとこの世は味気ないし、忠犬ハチ公は日本人の感傷心を揺さぶる事象である。こういう話もある。2011年、福岡県の高校生だった山本寛大くん(当時16)は、酔っ払った運転手に轢かれて亡くなった。
寛大くんが亡くなって以降、彼が可愛がった柴犬の「こゆき」(8歳・メス)は彼の遺影の掲げられた仏壇の前が寝床となり、失意の日を送り続けている。この実話は「飲酒運転撲滅」の啓発CMに使われている。ハチ公にも劣らぬ忠心なイヌだが、人間の「忠誠心」なんてものは永遠にイヌには及ばない。自分の主人の事しか頭にないという単純(純粋)さ、イヌはかわいいね~。
子どもの頃に父が教えてくれたこと。「犬は3日飼ったら、一生恩を忘れないんだよ」。思い出すのは捨て犬3匹を空き地で飼っていた。自分の食事を残しては食べさせた。3匹はいつも餌を待っていたから、友だち以上だった。毎日学校から飛んで帰っていたが、ある日空き地に行くといつもの彼らの出迎えはなかった。近所のうどん屋のおじさんの言葉に耳を疑った。
「犬捕りが来て連れていったよ」。保健所の野犬狩りである。子どもの心がどれだけ傷ついたことか。家の壁に保健所の悪口を隙間なく書きなぐった。鉛筆がチビては書き、書いてはチビて、削っては書く。それくらいしか不満を表す方法はなかった。保健所を燃やしたいと思ったし、「保健所」という言葉が大嫌いになった。子どもと言うのはそういうもの。
それまで特別大人に恨みはなかったが、この一件は大人に裏切られた気がし、大人は子どもの敵となった。裏切り当たり前の「性悪説」の西洋、忠誠が美しい「性善説」の日本。キリストを裏切ったペテロ、シーザーを裏切ったブルータス、日本では信長を裏切った明智光秀は永遠の極悪人と名を残す。反対に忠誠心の人、忠義の人と言われる人間の多きこと。
頭に浮かぶは、土屋惣三昌忠、堀田正盛、赤穂四十七士、新撰組の近藤勇・土方歳三、鳥居元忠、川路聖謨らが浮かぶ。紀州藩の田辺与力も「忠臣は二君に仕えず」とした。あまり知られていない土屋、堀田、川路。片手千人斬りの異名で武田家滅亡に殉じた土屋。堀田は三代将軍家光死去に殉死。幕臣の美学者川路は、江戸城開城の報を聞くや迷わず城内で死す。
中国では「『水滸伝』を子どもに読ませるな!」と言われるくらいに裏切りの世界。『水滸伝』に登場する好漢たちは、「忠」とか「孝」を口にするが、彼らの最高理念は「義」に殉じている。「義」とはいって儒教的な「義」にあらず、ヤクザ世界の「仁義」のニュアンスに近い。物語は勧善懲悪ではないし、好漢達の「善」は彼らの「義」に鑑みての「善」となる。
道徳的な「善」とは程遠きものだが、『水滸伝』の主人公たちは盗賊であるからしてやむを得ない。横山光輝には『三国志』、『項羽と劉邦』、『史記』、『水滸伝』の労作があるが、横山光輝は子ども思いの漫画家であり、残虐な内容が多い『水滸伝』から子どもに読ませるべきでない部分をカット、上手に宋江ら108人の好漢や、高俅(こうきゅう)ら悪漢を描いている。
虚々実々の中国の歴史で『三国志』の劉備への孔明の「忠誠心」には光るものがある。三顧の礼で迎えたというだけあって、孔明は終生劉備に忠誠であった。孔明に限らず、乱世を生き抜いた主従の紐帯は、曹操にも孫権にもあったが、中でも有能な人材集めに熱心であった曹操のもとへは、軍事、政治に傑出した人々が続々結集し、軍団と政府を強化していった。
中華人民共和国初代国家主席毛沢東は、『三国志』を愛読し、諸葛亮孔明に学んだ。彼は強大なる蒋介石と帝国主義包囲網に屈せず、弱小の革命根拠地を維持できたのか?それについて毛沢東は革命根拠地の維持発展の条件として以下の5項目を挙げ、それを遵守した。毛沢東の「割拠論」には、孔明の「天か三分の計」の影響をみることができる。
①優秀な大衆がいること。
②優秀な党があること。
③相当の力を持つ赤軍があること。
④作戦に有利な地形があること。
⑤給養をまかなえるだけの経済力があること。
時代を超えて共通するのは、弱者の戦略である。毛沢東と諸葛孔明の共通点は他にもさまざまあるが、共に内治に気を配った点も指摘される。孔明は法家思想で政治を律し、信賞必罰を徹底したが、毛沢東も軍隊に「三大規律・八項注意」と題し、人民からは針一本取らぬようにと規律を厳正にした。二人には相違点もあるし、運の力も大きく加味している。
日本軍を追い出し、国内線で蒋介石を撃破した毛沢東は、ついに「強者」へと転じたが、諸葛孔明には最後まで天が味方することはなかった。文化大革命のとき、毛沢東は権勢を維持するために紅衛兵という大衆組織を結成させたが、後に厄介な事態となるが、紅衛兵が中国を圧巻した10年間、紅衛兵の陰でほとんどしられていない「紅小兵」という組織があった。
さすがは人民の国、日本では考えられない。戦時下といえばせいぜい婦女子の竹槍訓練である。『僕は毛主席の紅小兵だった 毛沢東に忠誠を誓ったこどもたち』の著者安剣星氏は、1963年河北省生まれ。83年中央演劇大学入学。卒業後日本人と結婚し、90年来日。96年に(有)星光設立。文学で身を立てるつもりが、一転、石材を輸入・調達するビジネスマンになったという。
中華人民共和国は「銃口から生まれた政権」である。「大躍進政策」、「文化大革命」で毛沢東は、3000万~8000万の自国民を殺したといわれている。スターリンによる「大粛清」での死亡者総数は50万人~700万人まで諸説あり、ゴルバチョフ時代にスターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。
ソ連が崩壊するまでスターリンは英雄、中国国民にとって毛沢東も英雄。自国民を大量虐殺した人物を英雄とするのは共産党が権力を握っているからである。共産国家建国の父は英雄だと教えている。日中戦争において中国国民を殺した日本人に文句はいうが、大虐殺の毛沢東を英雄とする。また、人口の増大に病む中国は850万もの胎児の中絶を強要した。
共産主義とは何か?というまえに、真の意味での共産主義を実現した国は歴史上存在していないが、最も近かったのが毛沢東主義。中国はソ連崩壊から多くを学び、実質的に「共産主義」路線を放棄した。経済が資本主義の共産主義など、理論的には存在しないし、政権党が「共産党」の名であるのは、単に名前を変えない事を得策としてるだけのことに過ぎない。
共産主義下における政治・経済においては、自由な意思決定が認められず、与えられたノルマを如何に短時間でこなすかが生活の原動力になっていた。あらかじめ所得が決められているなら、「如何に少ない時間でそれを得るのか」という競争が起こる。能力のあるヤツはさっさと仕事をこなして後は遊んでいれる。労働時間で物の価値を測る共産主義には上記の欠陥があった。
全ての人間に共通する物指しが労働時間であるために採用された考えだが、運用してみると様々なリスクを発生させた。その原因は労働時間に限らず、物指しを一つにした事による弊害だった。自由競争を基本原理とする資本主義にも多くの欠陥から問題を生じさせている。自由競争は格差を生むのは当然という強者は「貧しい者」は本人が愚かであると傲慢になる。
一握りの裕福な人間がいても、大多数の人間が豊かでないなら、全体としての社会は病んでいることになる。貧しいまま見捨てられた人たちの中から犯罪に走る者が出てくるのは、このことを物語っている。共産主義も資本主義もダメであるならどんな経済にすればいいのか? 経済政策はこの二つに限らない。高度経済成長時代の日本は実は社会主義経済であった。
「自本は、最も成功した社会主義国家」と、皮肉混じりに言われていた。基本は資本主義的でありながら、社会主義的・共産主義的な要素が多分にあった。中国が元々共産主義国家でありながら、改革開放政策によって資本主義的要素を取り入れ、経済発展を遂げているように、完全な資本主義・自由経済でも、厳しすぎる共産主義・統制経済でもないのがよい。
蟻や蜂の世界は共産主義社会であり、何ら問題なく成立しているが、人間には個体差があるから無理のようだ。資本主義は、人々が善意を持って活動すれば成立するだろうが、人は欲に囚われるからこれも成立しない。主義に問題があるというより、人間に問題がある。つまり、理想的な国家、理想的な社会を構築するに当たって、教育が最も大事ということだ。
日本は長いこと封建制度社会であった。選挙で選ばれたわけでもなく、世襲による領主(藩主・大名)と長老が政治を行い、藩士は「忠誠心」を持って仕える。この時代の「忠誠心」とは、自らの命を藩主に差し出すというもので、それが武士としての最大の美徳であった。斯くも徳川265年の圧制が日本を活力のない国にした。マッカーサーはこう書き留めている。
「(日本の)実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。(中略)神人融合の政治形態は西欧社会では、三千年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではそれが存在していた。(中略)神人一体の天皇は絶対君主であって、(中略)アメリカ人の目から見れば日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった」
「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて、伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった」。マッカーサーの歴史観はさて、なぜ日本では革命が起こらなかった?それは「忠誠心」を金科玉条の如く仰ぎ、信奉していたからだ。日本人はまとまる民族である。
「忠」の文字を名前につける武士はあまたである。細川忠興、本多忠勝、加藤忠正、加藤清忠、戸田忠昌、長尾忠景、宇喜多忠家、水野忠邦、鳥居元忠、鳥居忠広、徳川秀忠、徳川忠長、松平広忠、松平忠重、松平政忠、松平忠良、松平忠昌、酒井忠清、酒井重忠、前野忠康、鍋島忠茂、大岡忠相、大岡忠行、島津忠義、島津忠持、島津忠久、国定忠治…
封建的主従関係という形で、鎌倉時代から江戸時代までの主従制と、それに伴う武士道徳が一括して取り扱われる傾向がある。が、武士道は時代に応じてその姿は一様ではない。主君と家臣の主従関係、君臣の論理は時代とともに変遷していった。鎌倉時代にあっては、血縁的な惣領家と庶子家と言った家父長の絶対権に裏打ちされた主従関係が基本にあった。
戦国時代になると、ある武将が今仕えている戦国大名に一生忠誠を誓うというしばりはなく、敵対する大名から高禄による勧誘があれば、主君を裏切ることも平気で行えた。これが戦国武士道の特徴で、分りやすくいえば家臣が主君を選べた。いささか「打算的」の謗りは免れないが、打算的であっても武士道というべき行動原理、思想を持っていた。
それが「名を惜しみ、名をあげる」という考え方で、武士が死を恐れず、傍目には喜んで死んでいったとさえ見える状況がこの時代に顕著になった。これが『葉隠』に言う、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」の名文句につながっていく。武士が名を惜しんだ理由はいくつかあげられるが、「人は一代、名は末代」とした、生きている時の評価以上に死後の評価を大事にした。
時代は戦国武士道から、近世武士道へと変貌する。戦国武士道が江戸時代に変わる契機になったのが、徳川家康だろう。三河松平氏の誇りは譜代意識の強い戦国大名で、他の戦国大名に比べて滅私奉公の考えが強烈であった。家康・秀忠・家光三代に使えた大久保彦左衛門忠教は、『三河物語』の中で、三河譜代を「良くも悪しくも御家の犬」と書いている。
「犬の忠誠心を誇る三河武士」という強固な「忠誠心」に裏づけられた三河武士が武士政権の中枢になったこと。それが徳川時代に大きく武士道を変化させた要因だろう。さらには政権が安定したこと。天道思想や下克上的思考は否定され、主君のために一命を賭す覚悟が武士道の基本となる。徐々に変化したというより、ドラスティックな変化だった。
耐え続けた戦国の覇者家康が一族、譜代を信用したのは、今川氏の元より三河へ帰還するのをひたすら待ちわびた家臣団の「忠誠心」よりもたらされたもの。秀吉に面従腹背しながらも耐え、天下取りの好機が来るのを狙い、大阪の陣で豊臣家を滅ぼした後、さらに15年の歳月を費やして徳川の天下を安泰にした日本的経営の礎は、「忠誠」と「服従」であろう。
主人の帰りを何年も待つ「ハチ」や「こゆき」に驚くなかれの三河武士だが、「良くも悪しくも御家の犬」と、彦左の指摘は的を得ている。